「無関心が無責任を生み、無感動を生み、無気力を生むということが言われている。関心を持つことが愛であると気付いた人間は、共同して、共感して、共鳴して人間らしい世の中を作りたいと思う」
この言葉を、今年の三多摩「学校・職場のいじめ」ホットラインの学習会の1コマ「私たちの自己紹介とめざすもの」のなかで、私は用意していた。
奇しくも同じ言葉を、同じ日のルポライター・北村年子さんの『「ホームレス」襲撃事件と子ども社会−暴力と自尊感情』の講演のなかで、聞いた。
そして、そのとき初めて、私はそれがインドのマザー・テレサの言葉だと知った。
私がこの言葉と出会ったのは、「−部活動で死んだ娘への報告−シャボン玉は消えない」(阿部ヒロ子著/1997年5月あすなろ社発行)(S880805 参照)の「あとがき」(だったと思う)。そこには、愛媛大学教育学部助教授の言葉と紹介してあったので、阿部ヒロ子さんも、知らなかったのではないかと思う(子どもたちは二度殺される 参照 )。互いに、それがマザー・テレサの言葉とは知らず、それでも、心に深く残る言葉だった。
その話をジェントルハートプロジェクトの小森美登里さん(980725 参照)に話したところ、彼女は映画を観たと言って、バックからマザー・テレサの本を取り出してみせた。
NGOの活動をしている人たちのなかには、マザー・テレサに深い感銘を受けたことが動機となっているひとが何人もいる。そういう人たちと出会ってきた(例えば、メキシコのカサ・ダヤ創設者のママ・ビッキー=mexico 参照)。
ここでもまた、全く異なる場所で、異なる活動のなかで、同じマザー・テレサの言葉や生き方でつながっていたことの不思議を思う。私たちは知らず知らず、「関心」という名の「愛」でつながっていたのだと、うれしく思う。
一方で、子どもたちもまた、マザー・テレサの言葉は知らなくとも、「友だちに無視されること」の辛さ、「誰からも関心をもたれないこと」の悲しさを全身で理解していたのだと思う。あるいは、マザー・テレサが子どもたちの痛みを理解していたと考えるべきなのかもしれないが。
「愛の反対語は憎悪ではありません。愛の反対語は無関心です」
「人間にとって本当の貧しさは、不幸は、物質的な貧しさでも病でもありません。それは、自分はいてもいなくてもいい存在であり、誰からも関心を持たれず、見捨てられていると感じることです。逆に最大の罪は、そういう人に対して、無関心であること、愛のないことではないでしょうか」
子どもたちの心に深くうがたれた穴。それを埋めるために私たちにもできることがあるとしたら、「関心」という名の「愛」から始めるしかないのでないかと思う。
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