わたしの雑記帳

2005/5/8 雨宮処凛(あまみや・かりん)さんの「ともだち刑」を読んで

雨宮処凛さんの「ともだち刑」(2005年3月18日講談社発行・定価1400円)という本を読んだ。
小説ではあるのだけれど、その時、その時の感情がとてもリアルで、「きっと彼女は体験している」と思った。
それは、綿矢りささんの「蹴りたい背中」(2003年8月河出書房新社発行)を読んだときにも思った。若いひとたちにとって、「いじめ」はすでに文化の一部にさえなっているのだろうと。
そして、その感覚の鋭さと表現力。雨宮さん、綿矢さんに共通するものを感じた。日常生活のなかの微妙な感覚を表現することに長けていて、こういうのを「文学的才能」というのかなと、少しうらやましく思う。
そして、そのなかで、主人公の心の動きが、手にとるようにわかる。自分の体験した感覚と照らし合わせて、その微妙な感覚がわかる気にさせられる。

「事実は小説より奇なり」という言葉がある。私が日常的に感じているのは、「現実は想像以上に残酷だ」ということ。そして、その現実を表現するのに、時として、事実をただ述べるよりも、小説のほうが優れているかもしれないと思うことがある。もちろん、書き手によるが。
現実のなかの残酷さを書こうとすると、不確かな情報は、それが事実だろうなと確信に近いものをもっていても、それがひどい現実であればあるほど、プライバシーの問題やら、加害者やその周辺の人びとの人権やらで、書けないことのほうが多い。このサイトでも、新聞や書籍ですでに公にされていることについては、比較的、安心して書かせていただいているが、個人的に知り得た情報については、本人の承諾の問題や、不確かなことを書けば「名誉毀損」にもなりかねず、小心者の私にはとてもできない。

私の書いた「あなたは子どもの心と命を守れますか!」を読んで、あるいは手にして、「残酷すぎて読む気にならない」というひとが、たくさんいる。私はそのひとたちにいつも言う。「でも、子どもたちの置かれている現実は、もっともっと残酷なんですよ。これはほんの一部にすぎないんですよ。自分の子どももそんな目にあっているかもしれないんですよ。どうか、目を逸らさないで!」
大人たちと子どもたちのギャップは大きい。子どもたちは私の本を読んで、「わたしはもっとひどい目にあってきた」「俺が受けた暴力は、こんなもんじゃない」と言う。大人たちは、「ほんとうに、こんなひどいことがあったなんて信じられない」と言う。なかには、「一部で起きた特別な事件を取り上げて、さも学校全体がそうであるかのように言わないでほしい」とはっきり言ってくるひともいる。
私は、自分の挙げている事例が特殊なことだとは思わない。むしろ、どこの学校にも日常的に起きていることで、それが事件として認識されるか、されないかは、ある種、マスコミ次第。ほんとうは、ほんの少しアンテナを張っていれば、身近にあるとわかることばかりなのではないかと思っている。

私は、いじめを「心と体に対する暴力」と定義づけている。実は、体に対する暴力のひどさを伝えることは、そう難しくはない。「骨折」「内蔵破裂」「全治○○カ月」などということばが、ある程度、受けた傷の目安になる。
しかし、心に受けた暴力の残酷さ、傷の深さを第三者に伝えることは、かなり難しい。「私にも、それくらいのことはあったわ。でも、気にしなかった」「そんなの無視すればいいことだ」「実際に殴られたわけではないんでしょ?だったら、まだマシ」と言われる。
時として、肉体への暴力以上に、心への暴力がひとを深く傷つけること、死に追いつめることをなかなか、理解してもらえない。その理解されないことが、また、どれほど被害者の心を傷つけるか。
いじめ自殺した前島優作くん(中1・13)は、遺書に「ぼうりょくではないけど ぼうりょくよりも ひさんだった」970107参照)と書いていた。集団リンチにあった服部太郎くん(中3)は、体に残る傷よりも、近くを大勢のひとが通り過ぎながら、誰も助けてはくれなかった、その時の恐怖、その後に少年たちが自宅まで押しかけてきて、「殺されるかもしれない」と感じた、その恐怖と心の傷にずっと苦しめられてきた。今も、苦しみ続けている。(000126参照)

私が伝えたくて、うまく伝えることのできなかった、「心への暴力」の後遺症の深さと、「日常生活のなかの暴力」の残酷さが、雨宮さんの「ともだち刑」には、みごとに表現されていると思った。
あまり書くと、これから読もうというひとの楽しみを奪うことになるので、ここでは多くを書かないが。
現実のいじめの話を聞いてもピンとこない大人たちはたくさんいる。文房具を盗られた、無視された、悪口を書かれた、足をかけられて転ばされた・・・・。「大したことないじゃない」と言う。
でも、それが毎日、毎日、続くこと。いつ、どこで、誰にやられるかわからないことの緊張感。ふと気を抜いた瞬間の落とし穴。いつ終わるともしれない。一旦は終わっても、いつまた気まぐれで再開されるかもしれないいじめ。最も信頼している相手から裏切られることの絶望感。
「今の子どもたちは、相手の気持ちに対する想像力が足りない」などと言うが、それは大人も同じで、針のむしろに座り続けなければならないことの辛さ、しかも、その痛みを誰にも悟られないように、必死に笑顔を張り付かせていることの辛さが理解できない。


いくつかの印象に残った言葉をピックアップする。

「だって、私は、十三歳で知ったのだ。裏切りは意志から来るものではなく、恐怖からもたらされるということを。」

「どんなに美味しいものを食べても、記憶には残らない。大声で笑っても、どうしてそんなに笑ったのか思い出せることは滅多にない。だけど、怒りは違う。怒りは実体を持っている。痛みという実体。それは年月を経るごとに、ひくひくと震えながら傷口を広げていく。辛いことがあるたびに、蓄積された怒りは実体を伴って記憶を私に追体験させる。」

「父も母も何があったのかしつこく聞いてきた。だけど、私は何も言わずにただ首を振り続けた。二人は最後まで納得しないといった顔をしていたけれど、口が裂けても言う気なんかなかった。私は知っていた。人は知っているより知らない方がずっとずっと幸福だということを。両親を無知という幸福の中に埋もれ続けさせてあげる術はそれしかなかった。鈍感で愚かで、目を塞がれているわけでもないのに何も見ることのできない父と母を、それでも思いやることが私に残された最後のプライドだった。」

「唇をきつくきつく噛み締めながら、謝ることはなんて残酷なのだろうと思った瞬間、口の中に血の味が広がった。
この日、私は決めたのだ。これから先、取りかえしのつかないほど誰かを傷つけてしまったら、絶対に謝ったりはしないと、許されようなどと虫のいいことは死んでも思ったりしないと。だから、たとえ土下座して許しを乞われても私は絶対に許さないと。」


最後の一文。謝罪について。私の講演でも、ジェントルハートプロジェクトの小森美登里さんの講演でも、謝罪することの大切さということをお話ししている。
一方で、深く傷つけられた子どもたちが、「謝罪なんていらない!」と叫ぶのも聞いている。
なぜ、謝罪はいらないのか。多くの子どもたちが、表面だけの謝罪で、一旦は心を許し、再び傷つけられることを経験している。あるいは、その時は本気なのかもしれない。それでも、簡単に謝るひとほど、簡単に忘れてしまって、再び同じ過ちを繰り返すということがある。一旦、信じてしまった分、よけいに傷つく。
そして、本心ではきっとノドから手が出るほど、本当は謝罪がほしいのだと思う。心からの謝罪がほしい。でも、どんなに望んでも得られないとわかっているから、望んで得られない自分がよけいみじめに思えるから、もう何も期待しない、ということなのではないか。
また、現実には、「許すもんか」と強く強く思っていたのに、「ごめんなさい」の一言でつい、相手を許してしまう自分がいる。そんな自分の馬鹿さ加減、お人好しさがきっと嫌なのだろう。
あくまで、私の想像にしかすぎなのだけれど。

裏切られて、傷つけられて、もう二度と他人を信じるものかと思う一方で、本当は誰かを信じたいと強く強く願う。
誰かを信じたいというのは、集団動物しての人間の本能なのではないかと私は思う。そして信じて、再び裏切られて、さらに傷つく。
私は、そういうひとに、「私を信じて。私は絶対にあなたを裏切らない」とは絶対に言えない。多くのひとがそう言ったあとに、裏切っていくのも知っているから。言葉にした途端、嘘になる気がして、求められても、この言葉が言えない。また、一旦、口にして、約束を守ることに縛られて、義務化することが嫌なのだ。
私の口から出るのはそっけない言葉ばかり。「私は裏切らないなんて誓えない」「ずっとそばにいるよなんて言えない」「いつか、あなたを深く傷つけるかもしれない」。
「一期一会」ということばがある。私が約束できるのはその瞬間、その瞬間の出会いの時の自分の気持ちだけ。「あなたに会いたいと思うから、会う」。ただ、その瞬間の出会いの積み重ねが、5年、10年、20年という月日になればいいと思う。現実に、そうやって続いてきた大切な友だちが私にはたくさんいる。
たくさんの痛みを抱えたひとたちが、せめて私のことでこれ以上傷つかないように、そう願うだけで、今も自信はまるでない。

「ともだち刑」を若いひとたちはどう読むのだろう。「あっ、この感覚わかる!」とひとりごちるだろうか。
親の世代はどう読むのだろう。表現の美しさに感心しつつ、単なる小説として読んでしまうだろうか。
親の世代でありながら、私は親たちに伝える言葉を模索している。そして、伝えようとする言葉が、子どもたちに「それ違うよ!」「あんたの思いこみ」と言われるのではないかと、すっかり分かった気になっている自分に、少しおそれを感じている。





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