わたしの雑記帳

2004/6/17 児童養護施設「生長の家・神の国寮」の裁判、傍聴報告。元寮生・佐々木朗さんの証言。

本日(2004年6月17日)、八王子地裁401号法廷にて、午前10時から、生長の家・神の国寮の卒園生である佐々木朗(あきら)さんの証人尋問があった(裁判長:松嶋敏明氏)。法廷での証拠調べは今回で終結する。
前回は2003年9月(me030904)。この間、ずっと進行協議が行われていた。前回とあまりに時間があいてしまったために、今日の裁判日程を知らない支援者もあったのではないかと思われる。傍聴人は、開始直後は20人程度だったが、終わる頃は30人前後いたように思う。

佐々木さんは、現在、従業員5名を有する佐々木フロアの経営者。
神の国寮には昭和47(1972)年、3歳の頃に入寮。昭和60(1985)年、16歳で退寮。原告のAさんは、佐々木さんが中学生の頃、入ってきた。当時5、6歳で、佐々木さんとは6、7歳はなれている。

Aさんのけがのことを佐々木さんが聞いたのは、寮生のOさんが佐々木さんの元に助けを求めて逃げてきたとき。当時の神の国寮の内情と事件のことを聞いた。
平成元(1989)年、佐々木さんが20歳頃で、当時アパートに暮らしていたという。
当時、聞いていた内容では、OさんもM職員から暴力をふるわれていた。そして、Aさんが盗んでもいないのに金を盗んだと言われ、犯人にされて暴行を受け、腕も骨折したということだった。金をとった犯人については「知らない」と言っていた。
「なぜ、Oさんの言うことが嘘ではなく本当だと思いましたか」の原告弁護士の質問に、佐々木さんは「私自身も暴力を受けていたので本当のことだと思いました。」と答えた。

佐々木さんのところには、在園生から電話や手紙で相談が来ることがあり、自身の会社にも卒園生を6人ほど従業員として迎え入れている。Oさんも卒園後の平成11(1999)年頃、佐々木さんの会社で働いた。

平成12(2000)年、佐々木さんは、施設内虐待のことや卒園後の自らの体験を綴った「自分が自分であるために」(文芸社・絶版)を出した。その中には、Oさんから聞いた内容も仮名で盛り込まれていた。
執筆することを思い立った動機は、「施設の内情を多くの方に知ってもらいたいと思ったから」という。
そして、Aさんが、腕に後遺症があるために普通だったらできることもできない状況にあるのを知って、この裁判を支援したいと思うようになったという。Aさんも佐々木さんの会社で短期間ではあるが、働いたことがある。材料などを運ぶときに、左手が使えないために、足や顎を使って左手の甲にものを乗せる。左手の甲が切れて血が出ても、がんばって作業を続けていたという。

事件のことを佐々木さんが知ったきっかけはOさんの話だった。そして、それには後日談があった。
仕事の帰りに佐々木さんはOさんから、実は事件の発端となった金は自分が盗ったんだとこっそり聞かされた。
その時、佐々木さんは「あっ、そうなんだ」と言って、それ以上は追及しなかったという。
「このことは誰にも言わないでくれ」「Aさんにも言わないでほしい」と言われて、自分ひとりの胸のなかにしまっていた。裁判が始まってからもずっと。

しかし今回、佐々木さんが苦渋の決断をし、法廷でそれを証言する気になったのは、M職員の証人尋問(me030612)で、Aさんが「盗んだ金で何を買ったか書け」と言われて、盗ってもいない金で、菓子を買ったと無理やり書かされたと知ったからだと言う。ひどいと思った。「本当は別の真犯人がいるんだ!」と、法廷で叫び出したかったという。
いてもたってもいられず、原告弁護団に「金を盗んだのはAくんではない」と、Oさんの名前を出さずに打ち明けた。
今回、Aさんのために証人に立つことになって、Oさんの名前を出すことを決心した。残念ながら、Oさんはその後、佐々木さんの会社を辞め、音信不通のために、承諾は得られなかったというが。

裁判では、神の国寮の理事長から3回、佐々木さんのところに電話があったことも証言された。
その後もM氏による子どもへの暴行があり、反省の色が見えないこと。現在は以前のようなことはない、今はいい施設になっていると証言してほしいことなどを頼まれたという。

被告代理人からの反対尋問では、Oさんが盗ったと聞きながら、どの場所から盗ったのかや、なぜ金を盗ったのか、その金の使い道などをなぜ聞かなかったのかと追及があった。
佐々木さんは、Oさんの気持ちを考えたら、それ以上、聞けなかったという。Oさんは、自分がしでかしたことで、Aさんが犯人に仕立てられ暴行を受けて、一生残るような傷を負わされたことを申し訳ないと思っていたのだと思う。事件の時のことを他の誰よりも詳しく記憶していたのは、その気持ちがあったからではないかと思ったと話した。
裁判長からも、補足尋問として、その時に何故、Oさんに対して何もアドバイスをしなかったのか、Oさんは切羽詰まって佐々木さんに相談したのではなかったかと質問があった。佐々木さんは、「そうだとすれば、その時の私は、Oさんの気持ちをそこまで汲み取れませでした」と神妙に話した。

最後に、佐々木さんは言った。施設内で行われていた虐待が、本を出版しなければ続いていたと思うと。本の出版で虐待がなくなればいいと思ったと。

今回で証拠調べは終結するが、裁判所のほうから和解の場を持ちたいとの提案があった。
判決前に、和解に向けての話し合いがなされることになった(非公開)。そこで歩み寄りがなければ、いよいよ判決になるだろう。

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事後の報告会では、佐々木さんがつい最近まで40度を超す熱があり、それでも仕事を休むわけにもいかず土日も働き、体調不良のなかで今日の証言に立ってくれたことが話された。
そして、今回、真犯人についての証言が主になったことについて、説明があった。裁判官は進行協議のなかで、他の寮生に対する職員の虐待や佐々木さんに対する暴力は本件とは関係ないというスタンスだったという。佐々木さんの証人尋問も実現しない可能性があった。実際、被告側からも他の元寮生の証人尋問などが申請されたが、必要ないとして却下された。そのなかで唯一、裁判官は真犯人についての証言がなされるということに興味を示し、佐々木さんの尋問が実現した。

被告弁護士は、佐々木さんへの反対尋問のなかで、誰が金を盗ったかは、この裁判のなかで非常に重要なことであると言った。しかし、原告弁護団の考え方は違う。誰が盗ったにせよ、尋問と称して暴行を加えることは許されない。まして、子ども同士に制裁を加えさせるなどということは、絶対にあってはいけないことなんだと話した。
ただ、暴力によって、無実の人間がウソの告白せざるを得なかった。それだけ、ひどい暴力であったこと、子どもにとって恐怖であったのだということは、この事件を理解するうえで重要だろうと話した。

いよいよ裁判の終結に際して、改めてこの裁判の意味が、支援者の間で問われている。
本当は、千葉恩寵園の国家賠償訴訟のように、神の国寮で起きた子どもたちへの虐待全てを不当なものとして問題にしたかった。元寮生たちに対して、働きかけもなされた。しかし、現実には訴え出たのはAさんひとりだった。個人の訴え。そのことでの限界はある。しかし、Aさんの勇気ある訴えによって、施設内虐待にひとつの歯止めがかかった意味は大きい。M氏はまさか裁判沙汰にまでなるとは思わなかっただろう。少しは懲りたのではないか。そして、これだけ悪評が広がった今となっては、施設はM氏を職員として雇いたがらないだろう。

子どもたちは無力だと多寡をくくっていた。自分たちの虐待がいずれ問われることになるとは思いもしていなかっただろう。今回のことは、施設の子どもたちの暴力を振るえば、いずれ子どもが大人になったときに、指弾されるかもしれないという怖さを施設の職員たちに知らしめた。私たちには、施設内で起きている虐待の現実を知る、きっかけをくれた。これを単にAさん個人の闘いとはせず、社会全体の教訓にしていくのは、Aさんの仕事ではなく、私たちのなすべきことなのだと思う。

後遺症により仕事もままならない。それでなくとも、施設出身者に世間の風当たりは強い。施設を放り出されたあとは頼れるひともいない。世間の荒波に揉まれて、なんで自分ばかりがと腐る気持ちもあるだろう。
そんななかで、Aさんがこれからの人生を自信をもって生きていけるための糧となるような和解なり、判決なりが出ることを心から願う。

今回の裁判とは関係がないが、ある児童養護施設の元職員から先日、私のところに電話があった。かつて、自分がいた園の生徒の消息が久しぶりにわかったのが、その葬儀のときだったという。
卒園して何年もたっていた。昨年、ひとりの元園生が自殺し、そして今年また、その親友だった元園生が自殺したという。その間、何があったのかはわからない。2人の自殺の関連もわからない。しかし、その元職員は何もしてやれなかったことを嘆いていた。自分を責めていた。

私は、そういう思いを持つ施設職員がいるにもかかわらず、それがシステムとして作動していないことをとても残念に思う。
親からの虐待から生き延びてなお、彼らにはあまりに試練が多い。個人の努力だけではどうにもならないものもある。彼らが当たり前の幸せ、当たり前の人生を獲得するためには、支援する仕組みづくりが必要だと思う。子どもたちに衣食住をただ与えるだけではダメだと思う。


※これまでの経緯については、検索・索引の「せ」の欄「生長の家 神の国寮」の項目からたどれます。




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