2003年3月22日、体育の授業中に跳び箱から落下して第4頸椎を骨折、3週間後に死亡した戸塚大地くん(中3・14)の裁判の報告会が、国立のレストランで行われた。
原告の戸塚さんと国分寺市の和解が成立したのは昨年(2002年)の10月25日。報告会まで、なぜこんなに時間がかかったかというと、和解案に沿った損害賠償支払いに伴う補正予算案が12月に市議会に提出され、議案が通過するまでは確定できないこと、子どもを亡くしたことやその後の辛い裁判などの長い間の心労が裁判が終わった途端にほっとして一気に吹き出たのだろう、ご夫婦ともに体調を崩されていたということで、この時期になってしまったという理由が、お詫びの手紙に添えられていた。
民事裁判の地裁、高裁での経緯はこのサイトでも、事例と雑記帳にその折々載せた裁判傍聴報告でお読みいただける。和解のテーブルについてからは、当事者と代理人のみで、一般の人間は傍聴できない。また、その内容を途中で公にしないのがルールと言われている。私自身、戸塚さんからの手紙で初めて、和解の話し合いの経緯を知ることができた。同じような問題を抱えているひとたちのためにもぜひ、サイトに紹介させてほしいとお願いしたところ、快く掲載の許可をいただので、ここに紹介したい。(改行はTAKEDA)
2003.2.14
戸塚 弘・ひろみ
『中学校の体育の授業中における死亡事故』(戸塚大地の裁判)は
高等裁判所において和解が成立しました! |
拝啓
いつの間にか、梅の開花が伝えられるようになりました。
平素よりご支援下さいましてありがとうございます。
昨年の10月25日、高等裁判所において和解が成立いたしました。
2002年2月7日に東京地裁八王子支部にて、学校長・教諭の主張は合理的であるが、原告側の主張は信憑性がないと退けられ、全面敗訴いたしました。
その時は、教諭と生徒達だけの授業中におこった事故なのだから、一方的に生徒側の証言が否定されたので、どうすればいいか途方に暮れました。
控訴するにあたり、これ以上何ができるだろうかと考え込んでしまいました。しかし、地裁での判決は到底納得のできるものではありませんでした。
考えあぐんだ末、これ以上失うものはないとの判断から控訴理由書を4月10日に提出し、5月16日の高裁公判までにできる限りの準備をすることにしました。
地裁で陳述書を提出して下さった方に再度陳述書をお願いし、新しく陳述・証言にご協力いただける方を捜しました。
ティームティーチングが実際に実施されていたかどうかのアンケートをお願いし、鑑定意見書を依頼し、高裁の裁判官に対しては、生徒達の陳述書・証言について公平に吟味していただきたいという内容の署名を集めました。
5月16日、第1回目の公判では、私達の口頭陳述も採用されず、証言採用にあたっては、陳述書提出者を全員採用してほしい旨、強く主張しましたが、裁判所は頑として元生徒一名のみの採用しか認めませんでした。公判では、また地裁の時と同じ結果を連想させる重い雰囲気に包まれました。終了後の報告会では、証人が一人でも採用されたことをよしとして、最後の一人の証言にすべてをかけて準備をしましょうということになりました。
7月2日、第2回目公判では、元生徒の方の証言があり、自然体で臆することない見事な証言でした。証言の終わった後、原告側から新しい証人採用を申し出て、説明を始めた途端に、裁判長より発言を止められ、「職権により和解を勧告します。」と言い渡され、一瞬あっけに取られてしまいました。
地裁では、一度も和解勧告が出なかったこともあり、どういう和解になるのか話を聞いてみる価値はあるのではないかとの判断に至りました。
和解交渉の第1回目、7月17日は、双方とも和解の席につくことに異論はないかという確認がありました。
原告、被告が別々に呼ばれ、裁判官から私達には「学校側が非を認めるという方向でしたら和解に応じますか。」という問いかけがありましたので了解しました。国分寺市側は市長と教育委員会の了承が必要であるとのことで保留となりました。
8月19日、2回目には、双方とも和解の席につくことで合意し、裁判所が和解案を提示することになりました。
9月18日、3回目には、提示された和解骨子を双方持ち帰り、検討することになりました。
提示案は、損害賠償額の算出根拠が示されたものでした。弁護士の先生方から、和解では数字から過失割合を読み取ることになるのが通例のパターンであるとの説明を受けました。数字からは、大地本人に対しての慰謝料が起訴記載の額から一円も欠けていなかった点、また、事故のおこった日から利子が計算されていることは、事故後すぐ適切な対処がされなかったため、ここまで時間がかかってしまっていることを裁判所が認めているという点が評価できると説明を受けました。また、和解の場合に弁護士の費用を認めるというのもめずらしいケースだということでした。
私達は、数字から読み取るということは、こういうものかと思いながらも今一つしっくりいかないという思いがありました。
そうこうしているうちに、10月16日に裁判所より「和解案についての考え方」というFAXが送られてきました。これには、裁判所の考え方が示されたもので、「学校側に非がある」という説明があり、私達にもはっきりと分かるものでした。
弁護団としても、結審まで行ってもこのままの内容で結審するであろうとの判断もありました。
このような経緯で10月25日、第4回目の席で和解が成立しました。
成立直後に、この種の学校問題を抱えている方たちのためにも、たとえ地裁判決全面敗訴からの出発でも高裁で逆転する場合もあるということで、あきらめないでほしいということを伝える必要があるのではないかとの弁護士の先生方の勧めもあり、記者会見を行いました。翌日26日の朝日、毎日、東京の各新聞の朝刊多摩版に掲載されましたので、ご覧下さった方も多いかと思います。
もし不幸にして、同じような事故がおこってしまった場合、私達の結果を土台にして始めることができるのではないかと思いました。
以上のような和解交渉の経過のもとに、和解成立となりましたが、正式には12月の国分寺市市議会を通過してからの条件でした。
訴訟を起こしてから約4年の長きに渡り、ここまでたどり着くことができましたのは、本当に皆様のお陰と心から感謝しております。
大地の友人が事故から9年目になろうとしているにもかかわらず、陳述書・証言に惜しみなく協力して下さったこと、アンケートに回答して下さったこと、これらのご協力がなかったら、決してここまで来られなかったと思っています。
法廷まで来て傍聴して下さった方々、学校裁判をすでに始めている方からのアドバイス、関係する資料を貸して下さったり、コピーを下さった方々、切手やカンパをして下さった方々、インターネットに掲載して下さった方、署名をして下さった方々、折りに触れ元気づけて下さった方々、全国から応援して下さった方々、本当に多くの方に支えていただきました。心からお礼申し上げます。
また、4人の弁護士の先生方とめぐりあえたことは、大変ラッキーでした。これ以上望むべくもない最高の弁護団でした。
私達はこの裁判を通して、得たものがたくさんありました。あきらめずにやってみて、本当によかったと思っています。応援して下さった方には、お世話になりっぱなしですが、皆様のお気持ちを強く心に受け止めて、残りの人生をしっかりと過ごしていこうと思っています。本当にありがとうございました。
なお、和解金の一部は子どもに役立つ所へ寄付させていただこうと考えています。
最後にあたり、お一人お一人にお目にかかってお礼を申し上げなければならないところですが、それはかないませんのでこの手紙に代えさせていただきます。すべての皆様に重ねてお礼申し上げます。
また、和解成立の連絡が大変遅くなりましたことをお詫びいたします。
敬具
追:和解案についての考え方
和解案骨子
等、同封させていただきます。ご覧いただければ幸いです。
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戸塚さんの言う「最高の弁護団」とは、津田玄児氏、小笠原彩子氏、坪井節子氏、飯田丘(きゅう)氏の4人の弁護士。いずれも、子どもの人権に日夜取り組んでいる方たちだ。遺族の思いをまず受け止めて、共に闘いぬいてきた。
報告会で、小笠原弁護士は当時のことを振り返ってこう話した。遺族が裁判をはじめるまで3年を要した。最初は、お子さんを亡くした直後に相談にみえた。子どもに対する思いがいっぱいで、自分たちにも、どう受け止めて良いかわからなかった。学校の授業中、見ているのは学校の教師と生徒。親は見ていない。全ての情報が学校にあり、しかも十分に開示されない。親は(子どもの死と)二重のトラウマを抱えることになる。時効ぎりぎりでようやく裁判に踏み切ったと。
また、民事裁判では、原告である親が学校の落ち度を立証しなければならない。しかし、全ての情報は学校にあって、親にはほとんど何もないのだから、ひとたび学校で事件や事故が起きたときはむしろ、学校側が落ち度がなかったことを立証しなければならないと思うと。
私もそう思う。原告が立証しなければならないから、学校はますます情報を外に出さないように、出さないようにして、遺族の動きを封じ込めようとする。もっと、学校の説明義務や報告義務が法的に認められていたとしたら、学校側が自分たちに過失がないことを立証しなければならないシステムになっていたとしたら、少なくとも学校は今より、事実をまず自分たちの手で知ろうとするだろう。立証するための情報を積極的に出してくるだろう。
もちろん、自分たちに都合のよい出し方をするだろうことは目に見えているにしても、何も出さずにすんでしまう今の体制よりは少し、親は事実を垣間見ることができるのではないだろうか。
坪井弁護士は、子どもを亡くした親がどういう気持ちになるのか、自分の子どもを亡くすことはどういうことなのか、自分には経験がないのでわからないがという前置きで話された。
朝、元気に学校に行った子どもが夕べには遺体となって戻ってくる。突然、自分たちの見えないところで、何が起きたかわからないところで子どもが亡くなる、命が奪われる。親にとってどれほど辛いことか。何が起きたのか明らかにならなければ、そこから先へは一歩も進めない。そして、今回の裁判では、一審では結果はどうあれ、謎解きのように、事実が少しずつ浮かび上がってきた。裁判官が立ち会っての実況検分が行われた。この段階でも、今までわからなかった様々なことが初めてわかった。勝ち負けとは別に、真相を明らかにするという意味はあった。そして、わかってくれる裁判官もいるのだということは、同じ立場の人たちの希望にもなると話された。
津田弁護士は、裁判の現状を嘆く。現状学校事故の大半は学校側が事実をなかなか認めない。今回、負けるはずのない裁判が一審で負けた。1から10まで原告が立証しなければならない。しかも、裁判官は強いもののほうしか見ない。子どもや被害者など弱いものに目を向けてくれない。子どもたちの言っていることをきちんと受け止める姿勢を裁判官が持っていない。本来は、子どもの言葉の足りない部分、表現できない部分を大人たちが補ってやらなければならない。子どもたちが本当に言いたいことを受け止めていかなければならない。それを一審では、子どもたちの言うことは断片的で信用できないとして認めなかった。これでは、教師と生徒しか目撃者のいない学校の裁判で、原告側が勝てるはずがないという。
飯田弁護士は、報告会当日、ほかの用事と重なって欠席。くじけそうになったとき、大地くんが書いたというトドラゴンボールの悟空の絵に「オラ、負けないぞ!」と誓った、大地くんと悟空が、飯田弁護士のなかでは重なっていたとのメッセージが寄せられていた。若いが、とても切れ味の鋭い質問をする弁護士さんで、こういうひとが経験を積み重ねて、どんどん育ってくれることを切に願う。
この裁判で、お母さんのひろみさんをずっと見てきて、本当に強くなったと思う。いつもいつも、こんなことをしたら相手に迷惑なんじゃないかと、周囲に気兼ねばかりしていた。子どもを亡くしてさえ、ただただ泣くばかりで、ひとを責めることなど知らなかった。それでも、学校側のあまりの仕打ち、失った命への共感のなさに、どこがと言われてもわからないけれど絶対におかしい、何かが間違っているという素朴な疑問が、裁判のはじまりになった。そして、子どもへの思いが、この裁判を負けられないとして、彼女を強くしていった。裁判でも、報告会でも、いつも熱心にメモをとり、自分に何かできることは残されていないかを、常に探っていた。情報を自分の足で集め、私などのほんの思いつきの提案にさえ真剣に耳を傾け、即、実行に移した。
ほんとうによくがんばったと思う。大地くんもきっと、天国でほめてくれていると思う。
一審の原告全面敗訴から、天と地ほどの差もある、ほとんど勝訴と言える和解。うれしいはずの報告会で、なぜか涙があふれて止まらない。どんなにいい結果を得られたとしても、大地くんは二度と生き返らないというむなしさ。それでも、ようやくここまでこれたんだね、一方的、全面的に事故の責任の全てを押し付けられた大地くんの名誉をご両親が守ったんだよ、よかったねという思い。うれしいんだか、悲しいんだか自分でもよくわからなくなってしまった。
全ての裁判が終わって、ご両親にとってこれから新たに、生き方の模索がはじまる。今までは、忙しくても、どんなに大変でも、やるべきことが目に見えていた。はっきりしていた。これからは、また自分で一から捜していかなければならない。遺族にとって、裁判の終わりが、全ての終わりにはならない。亡くなった子どもをきっと一生抱き続けるだろう。その子どもをどう生かしていくのかが、これからの課題になるのだろうと思う。
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