わたしの雑記帳

2003/2/11 上越市のいじめ自殺・伊藤準(ひさし)くんの裁判(2003/2/6)傍聴報告。

1995/11/27 「生きているのがこわいのです。あいつらは僕の人生そのものをうばっていきました」と遺書を残して自殺した伊藤準くんの控訴審(被告は学校設置者である上越市)の第2回目が、東京高裁818号法廷で、午前10時から行われた。(日程、時間等が直前まではっきりわからなかったため、インフォメーションに掲示することを控えた)

2002/3/29 新潟地裁高田支部にて棄却判決(me020401参照)後、4/10に控訴して、第一回口頭弁論後、ずっと進行協議が続いていたという。
その第2回目の口頭弁論の席で、石垣君雄裁判長は開廷中に、原告側(原告と代理人弁護団)と被告側(代理人弁護団)を別々に時間差で別室に呼んで、和解協議が可能かどうかの聴取を行った。
その間、傍聴人は法廷に残されたまま。通常であれば、法廷の場で双方に和解の意思があるかを問う、もしくは和解勧告を裁判長が裁判所の権限として出し、次回の日程を決めて非公開で、和解の話し合いを持つ。あるいは、津久井の場合は、閉廷してからその後に和解を考慮する気があるかどうかの話し合いの場を設けた。
傍聴人の多くが、新潟からわざわざ裁判の傍聴支援に来ていた。そのことを考慮してのことかもしれないと私には思えた。

戻ってきた裁判長は法廷で、「将来の解決につなげるような和解ができないか」「知恵を出しあいましょう」と、和解のテーブルにつくことを宣言した。
その言葉には、人としてのぬくもりが感じられた。高裁にこんな裁判官もいるんだと、結果はまだわからないまでもうれしくなった。
もっとも、準くんの裁判をずっと支援してきたひとの話では、地裁の裁判官もけっして雰囲気は悪くなかった。でも、判決では裏切られたと言っていた。
ただ、他でも書いたが、一審で棄却のあと、高裁で裁判長が和解を進めるのは原告にとってそう悪い傾向ではない。悪い結果を出すつもりのときは、和解勧告も何もなく、充分に審議されることなく、門前払いの形ですぐに棄却の判決が下る。半年以上も進行協議にかけたことも、少なくとも、この問題に取り組もうという姿勢が感じられる。

ここのところ、裁判の効率化ばかりが叫ばれて、充分な審議が行われない事例が増えてきている気がしただけに、ほっとする。あとはただ、まさかこの4月に、この裁判長が移動なんていうことになりませんようにと祈る。(報告会でその懸念を口にしたところ、弁護団もそれを心配して調べたところ、まだこの裁判官は移動してきて間がないので、たぶん大丈夫だろうということだった。)

次回からの和解の話し合いは非公開で行われるために傍聴はできない。話し合いといっても、通常1回では終わらない。特に市の代理人は、慰謝料の賠償金に議会の承認が必要だったり、様々な機関と協議しなければ返事ができないことが多い。私の知っている範囲で言えば、月1回から2月に1回のペースで話し合いが進められ、長いと一年前後もかかる。

「生きているのがこわいです」。学校が子どもたちを脅かす場所になっている、生きていることさえ辛くさせる場所になっているということの反省は、政府に、文科省に、学校に、未だみられない。



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