1995年11月27日にいじめ自殺した伊藤準(ひさし)くんの裁判の新潟地裁高田支部の判決が2002年3月29日に出た。加藤就一裁判長は、遺族の請求を「棄却」した。
まさかの判決だった。なぜならば、準くんの場合、「僕はもうがまんできなくなりました。学校に行っても友達はいますがその友達に僕を無視させたりしていそうでとてもこわいです。生きているのがこわいのです。あいつらは僕の人生そのものをうばっていきました。」と、加害生徒の名前を明記しながら、いじめがあったことを遺書にはっきりと書いているからだ。
そして、もうひとつの驚きは、報道の取り上げ方があまりに小さいこと。
6人の加害生徒と遺族は裁判前にすでに示談が成立している。一方で、学校側(上越市)は、遺族からの一定額の賠償金支払い等を内容とする和解の申し出を拒否して、今回の訴訟となった。
遺族はお金が欲しかったのではなく、学校にきちんと非を認めてほしかった。その形としての誠意が賠償金であり、やむを得ず命に値段をつけたのだと思う。しかし、学校側は拒否した。遺族は裁判を起こさざるを得なかった。
この裁判の最大の争点は、いじめの開始時期にあるという。
夏休み頃からいじめがあったと主張する原告と、死の約1か月前の10月29日頃から始まったとする被告側。約3か月もの開きがある。そして、裁判長は被告の言い分を採用した。それ以前の服脱がしなどの行為は「悪ふざけ」とした。
裁判官はいじめというものがわかっていない。「悪ふざけ」の連続がいじめである。そして、いじめは隠されるという性質上、表面に現れるのはごく一部であること。加害者側からすれば大したことはなくても、被害者は深く傷つくことがある。6人にやられれば、加害者の罪悪感は6分の1かもしれないが、被害者の苦痛は6倍であること。加害者に罪悪感は少なく、自分たちの行いを正当化するために、いろいろな理屈をつけたがること。
この事件の場合、少年らは警察の事情聴取に対して、「水をかけられた」「服を脱がされた」とされる点については「掃除の際に水は誤ってかけた」などと供述。遺書の「5千円近く金をとられている」との記述について警察は事実を確認できていないとした。そして、少年たちの行為を警察は、「意図的な度合いは少ない。遊び半分的な要素もあったのでは」「感受性の強い子だっただけに、友人から無視されたことなどが主因に違いない」とした。また、学校連絡帳の記載や友人の証言などから「夏以降、成績が下がったことも関係しているのではないか」との見方を強めて、非行事件と「無視だけでは立件できない」とした。上越南警察署は、いじめの事実が確認されたこと並びにいじめが自殺の要因であったとの見解を発表し、遺書に名前のあった5人のうち2人と、遺書に記載はないがいじめに関与した生徒の計3人を補導処分にした。(13歳以下は犯罪としての事件処理はできない)
多くのいじめ自殺がそうであるように、死人に口なしで、加害者の言い分だけが通る。
本人がどう思っていたかが司法によって、平然と無視されている。
「そうじの時間はトイレで服を脱がされたり、水をかけられたりしました。いたずら電話もよくありました。」「またお金のふんしつはしょっちゅうありました。五百円玉を2枚持っていくと、帰りには1枚になっています。このようなことがつづき、今では五千円近くうばいとられました。まだまだありますが、僕はもうがまんできなくなりました。」と準くんは遺書に書いている。そしてその結果、「学校に行っても友達はいますがその友達に僕を無視させたりしていそうでとてもこわいです。生きているのがこわいのです。あいつらは僕の人生そのものをうばっていきました。」と訴えている。この悲痛な叫びはついに学校にも、警察にも、裁判官にも、届かなかった。
少年法で処罰されることはなく、加害者の親たちも、ある父親は、「いじめとは限らないのでは・・・。子どもならあのくらいのことは・・・。学校の先生も『いじめじゃない』と言っていた」と言い、別の親は「うちの子は大したことはしていない」として、警察の補導に不満を漏らす。
そして学校側は、最初「いじめは自殺の遠因にすぎない」との見解を表明。いじめていた5人の談話や電話の会話を録音したテープの証拠を前にはじめて、「自殺はいじめが主たる要因」と変わる。
しかしそれでもなお、道義的責任のみを認め、法的責任、教育的責任については認めようとしない。学校側はいじめの事実について、準くんが死亡するまで全く気づかなかったとした。また、当事者の話と全く違う報告書を持ってきた。ノートや教科書に書いてあった落書きをもとに、準くんが家庭に対して不満を持っていたと主張した。
いじめ自殺があると、周囲の大人たちは必ず、「自殺の原因はいじめだけではなかった」と言う。
成績が落ちていた?いじめられて、死ぬことを考えている子どもが勉強に身が入るわけがない。
親のせい?中学生、高校生の思春期に親に不満を持たない子どもがいるだろうか。
今回の判決でも、準くんの家庭環境について、「苦悩を支えるべき家庭が機能を十分に果たしていなかった」とした。誰よりも、親が一番、そのことをよく知っている。後悔している。だから、最初からは提訴を考えなかった。裁判のなかでは、自分たちの非を含めて、真実を明らかにしたいと考える。だから、名前もプライバシーもあばかれることを覚悟のうえで提訴している。
いじめ自殺で、一番辛い思いをしたのは誰だろう。一番損害を被ったのは誰だろう。それは準くん本人ではないか。そして、次に愛する子どもを失った親、そして兄弟、親戚、友人たち。
この判決を聞いたら、準くんはどう思うだろう。
「家族のみなさん、長い間どうもありがとうございました」と遺書のなかで、何度も家族への気遣いを覗かせている。その両親のみを司法は責めたてた。
そして、「それがどれだけ悪い事なのか分かっていないようなので僕がぎせいになります。」と書いている。いじめが、どれだけ心を傷つけるものであるのか分かっていないのは、子どもたちだけではない。学校の教師たちも、警察も、裁判官も、みんなわかっていない。
この事件の場合、加害生徒らは他の同級生やバスケット部員らに対しても、準くんと同様のいじめを加えていた。被害生徒の1人は同グループのいじめが原因で不登校ぎみになり、父親がクラスの学級担任が登校を促すため自宅を訪れた際に、子ども自身がいじめの事実を記したノートを示して知らせたが、学校側は直接生徒に指導せずに、状況を観察していた。その間に準くんが自殺している。
また、準くんの同クラスは授業が騒がしいことで問題になっており、騒ぐのはいじめグループの4人で、授業が始まっても、すぐには教室に入らないことなどもあった。授業中に机を蹴ったり、立って歌ったりしても、教師が呼び出して注意したことが一度もないという生徒の証言もある。その担任は今回の準くんの死に対しても処分を受けなかった。そして、裁判官もまた、いじめを放置し続けた学校側に責任なしとした。
裁判官は「第三者からの発見が困難だった」などとして、自殺の予見性、学校の責任を否定した。
「学校は知らなかった」から責任はない?知らなかった、気付かなかったことを最大の過失と認定しなければ、いじめは絶対になくならない。知らなかったことが免罪符となるならば、教師たちはこれから更に、生徒の声に耳をふさぐだろう。見えていても、見なかったことにするだろう。ウソをつきつきとおすだろう。
さらに、「教師はいじめの前兆行動を注意深く把握することが要求されている」としながらも、「中学校は生徒の自主性や自立心をはぐくむという目標を持ち、事実を見極めることなく生徒間の関係に安易に深く介入することは妥当でない」とした。
ここに至っては、1986年2月1日にいじめ自殺した富士見中の鹿川裕史(ひろふみ)くん(中2・13)の実質敗訴した一審判決(1991/3/27東京地裁(村上敬一裁判長))を思い出す。
“葬式ごっこ”も「鹿川くんがいじめとして受け止めていたとはいえず、むしろひとつのエピソードとみるべきだ」と述べた。「いじめをなくすことは、学校教育の理想ではあるが、その実現は至難のこと」「『子供のけんかに口を出す』べきではない」とした。その後、この考え方は高裁(1994/5/20)の原告勝訴で否定されたが、11年たって、あれほど批判された判決と同種の判決が再び出ることに驚く。
いじめ自殺が続出し、また少年犯罪やひきこもりなど、青少年の大きな社会問題の背景にいじめがあることがこれほどはっきりと言われるようになって、教育界や司法でのいじめ認識も以前とは違ってきたと思っていたにもかかわらず、学校のやっていることは変わらない。そして、それを司法が後押ししている。
いじめに関する事件の一覧をみてほしい。この一覧での最初のいじめ自殺は1975年11月20日。
新潟県加茂市の公立加茂農林高校の男子生徒(高4・19)が、同じ学校の非行グループ5人から度重なる暴行や嫌がらせ、リンチ、恐喝をされて生物部部室で自殺している。
そして、1981年10月27日に新潟地裁は、「自殺は自殺者の内心に深くかかわることであり、他人が予見するためには、自殺するという意志が具体的な言動となって認識できなければならない。このケースではそれがなかった。したがって、予見できなかった学校側に過失はなかった」として遺族請求を全面的に棄却している。
27年も前のいじめ自殺事件。それも同じ新潟県で。そして棄却判決。もし、この時、司法がきちんと学校の責任を追及していたら、その後の何百か、何千かのいじめ事件は大きな被害を出す前に防ぐことができたかもしれないと思わないだろうか。準くんもあるいは死なずにすんだかもしれないとは思わないだろうか。ひとりの子どもの死を大人たちがきちんと受け止めきることができなかった。その罪はあまりに重い。今また再び繰り返すことで、この先、どれほどの犠牲を出したら、大人たちの認識は変わるというのだろう。
責められるべきは子どもたちだろうか。いじめた子どもたち?自ら命を断った子どもたち?見て見ぬふりをした子どもたち?
「いじめはいけない」と言いながら、大人たちが真剣に取り組んで来なかった。いじめられる側の立場に立ってこの問題を考えて来なかった。加害者の言い分、放置する学校の言い分や都合ばかりを優先させてきた。大人たちに、子どもたちは今も殺され続けている。
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