わたしの雑記帳

2002/2/8 体育の授業中の事故死・戸塚大地くんの裁判判決(2002/2/7)。


2002年2月7日、戸塚大地くんの裁判の判決が、八王子地裁で出ました。「原告の訴えを棄却する」あまりにあっけなく、そっけなく、ただ茫然としてしまいました。
3年4か月、遺族が断腸の思いで闘ってきた結果です。お母さんに、お父さんに、かける言葉が見つかりませんでした。

正直なところ、今の日本の裁判の流れからいって、全面的には原告の言い分は認められないだろうと、ある程度は予想していました。しかし、全面棄却されるとは思いませんでした。
津田玄児、坪井節子、飯田丘、小笠原彩子・弁護士(敬称略)の4人からなる弁護団の用意した最終準備書面は、私たち素人にもわかりやすく、得心のいくものでした。これを読めば原告の言いたいことは伝わる、学校のミスは明らかであると市民感覚では思えました。しかし、司法は私たちには理解の及ばないところで、棄却の判決を言い渡しました。
こんな理由づけでなければ、もう少し納得ができたかもしれません。しかし、遺族でなくとも、このような司法の考え方、あり方には納得がいきません。これはもはや個人の問題ではなく、私たち一般市民が子どもたちを安心して学校に預けられるかどうかの問題だと思いました。

裁判所は、学校の言うこと、担当教師の言うことを全面的に採用しながら、生徒の証言は全て「信用できない」としたのです。
法廷では、本件事故を一番近くで目撃した生徒3人が証言してくれました。彼らは異口同音に、K教諭の日頃の授業を「K教諭の授業は束縛されないで、けっこう自由にやっていた」「K教諭はいつも座っていた」「手に何か持っていた」「授業の初めにやることを指示したあとは、いすに座って何か書き物をして、生徒たちに全然、注意を払わなかった」「複数の生徒が授業中に抜け出して体育館の舞台裏や倉庫で遊んでいたが、教師は気付かなかった」と言っています。

その時、教師はマット運動のテストの採点をしていて、事故を目視していませんでした。それも、事故が起きて、生徒に呼ばれてから初めて気付いたのです。K教師が作成した「事故報告書」には、事故直後、大地くんは仰向けに倒れていたとあります。しかし、裁判所が行った現場検証に立ち会った生徒の話から、うつぶせに倒れた大地くんをこの生徒が仰向けにしたことがわかりました。その後に、生徒に呼ばれて教師が来たのです。

事故は2度目に起きています。その日、初めて出された8段という高さの跳び箱。その上に大地くんは立ち、1回目、ムーンサルトという大技を決めています。生徒たちの間から歓声があがったと言います。そして、リクエストに応えようと再び跳び箱の上に立ち、シューティングスタープレスをやってのけようとして失敗、事故になったのです。

この時の授業の様子をK教師は、「今日の法廷のように静まり返っていました」と表現しています。だから、異変に気付かなかったと。そして、自分は日頃から、生徒指導を厳しくしていたと証言しています。
生徒たちがウソの証言をするのは、大地くんの友だちであること、日頃、生徒指導を担当し厳しくしていた自分への恨みからだろうと言いました(生徒たちはK教諭から叱られたり、注意されたことはないと言っています)。

裁判所は、生徒たちの証言が微妙なところで食い違っている(現場検証で立った位置と証言した位置が少しずれているなど)ことを理由に、「信用できない」としました。そして、何人もの生徒が消えても教師が気付かないそんな授業があるはずがないと否定したのです。一方で、K教師は仲間の教師からも、学校からも信頼されて、生徒指導を任されている教師であるのだから、その言動は信頼にたるとしています。
事故が起きたときの状況も、教師は全体を見渡たせる位置に座って注意を払っていたにもかかわらず、みんながシーンとして普通に課題をこなす中、大地くんだけが教師に見つからないよう目を盗んで(そのために教師は事故を目視することができなかった)、課題以外のことをしていて事故にあったと認定しました。

また、安全面への注意義務についても、通常のオリエンテーションをしているということで、中学3年生にもなっているから個別にする必要はない中学3年生なのだから自分で安全配慮できたはずと、自分で教師の目を盗んで危ないことをしたのだから、教師に責任は問えないとしました。

また、当時ティームティーチングのために加配の教師がいたにも関わらず、女子のみにつけ、K教師の授業につけなかったことや、一時間に鉄棒、マット、跳び箱という3つの種目を次々にローテーションのようにこなしていくというやり方を事故の前も事故の後も続けたことに対しても、それらを改善していたとしても、事故を防げたとは思えないとしました。
学校の報告義務にしても、たとえ遅まきながらでも報告したのだから、義務は果たされたとしました。
原告側が主張した「安全配慮義務」も、「事前注意義務」も、「事後報告義務」もすべて学校側は果たしていたと認定し、棄却したのです。

大地くんのお父さんは、「事故を見ていなかったことで責任をなしとするのは納得できない」と言います。見ていなかったこと自体が問題なのだと。
そして、弁護団も言います。この裁判は社会にどういう意味を残そうとしているのかと。ここで棄却することの意味は何なのかと。教師の言い分だけ通って、生徒の証言がすべて否定されるような裁判では、学校で何が行われようと、生徒側が勝てるはずがありません。第一、考えればわかるはずです。教師には利害があります。自分のミスを認めるかどうか。場合によっては職業生命にすら関わります。過失が認められれば、せっかく教頭にまでなっても、今後の評価はけっして芳しくないでしょう。しかし、すでに卒業している生徒たち、友人である大地くんは亡くなっている子どもたちに、大人たちに囲まれた法廷の場で、わざわざウソの証言をしたからといって何のメリットがあるというのでしょう。

そして中学3年という年齢。反抗期でもあり、まだ大人になりきれていない。一番、事故の多い年齢でもあります。彼らの発言を信じられないと言う一方で、もう中学3年生といえば分別のある年頃だというのは矛盾していないでしょうか。そして、人間の記憶、証言というのは、小さなところまで辻褄があっているなどということは現実にはほとんどないのではないでしょうか。印象が強くて、よく記憶している部分もあれば、あやふやな部分があって当たり前で、それこそが彼らが正直に話している証拠ではないでしょうか。

この判決がまかり通るなら、学校は、特に中学、高校ともなれば、安全は自分自身の責任であって、どんなに学級崩壊をしている状況であろうと、危険が伴う課題を与えている最中であろうと、教師に生徒の安全を指導したり見守る責任はないことになります。教師は何もしなくても、ただ知識を与え、採点さえしていればよいことになります。
そして、学校で子どもが死んだとしても、細かく原因を特定する必要も、家族にどのような状況で亡くなったかを伝えることもしなくてよいことになります。
学校は、子どもたちの命と心を預かりながら、好き勝手にできて、何の責任も問われないのです。そうなったときに、今以上によい教育が行われると誰が思うでしょう。
ひと一人が亡くなったときに、その原因を厳しく追及し、責任を問うてこそ、二度と同じ事故がおきないよう、みんなが真剣に考えるのではないでしょうか。もちろん、その責任には本人も、その家族も含まれています。そのことを十分承知のうえで、遺族は子どもの死を教訓として活かそうとしない学校の責任を問う裁判を起こしたのです。

今日の判決を聞いて、いじめ自殺した前田晶子さんの裁判を思い出しました。裁判所は、勇気をもって法廷に立ってくれた子どもたちの証言を全て否定し、学校の言い分だけを採用しました。子どもを信じない大人のことを子どもたちが信用するでしょうか。見え透いたウソが平気でまかり通る司法の世界をどう思うでしょう。子どもたちは裁判から何を学びとるでしょう。そして、どんな思いをかかえて大人になるでしょう。

裁判官が途中で変わりました。現場検証を許可し、立ち会ってくれたあの女性裁判官であったなら、また別の判決が出たでしょうか。お母さんが、今まで一度もひとに話したことのなかった、家族の中でさえ話題にすることを避けていた、辛い記憶を呼び起こして、大地くんが亡くなる3週間のことを法廷で話してくれました。傍聴席で涙がとまりませんでした。そのとき、涙ひとつ見せなかった男性の裁判官(名前がわかりません)は、大地くんが亡くなってもその死の悲しみを共有しようとしなかった学校と同じなのでしょう。「もし、あなたのお子さんが同じ目にあったらどう思いますか?」お母さんの質問に、「その時は仕方がないと思うでしょうね」と答えた校長と同じ答えをするのでしょう。大地くんは、様々な要因を含む事故で死に、学校でその存在を抹殺され、そして司法にその責任を全て負わされて、少なくとも3度、家族の前で殺されたのです。
もし、器械体操の危険性をもっと教師が認識して、厳しい指導をしていたら、きちんと目配りが行き届いていたら、死なずにすんだかもしれない命だったとは、学校は考えないのでしょう。
今朝、元気に学校に行った子どもが、夕方には遺体になって戻ってくるかもしれない。そして、その原因を遺族は詳しく知ることができない。そんな学校に私たちは子どもを預けているのです。

抗告は2週間以内となっています。裁判の苦しさを知る人びとは、こんな判決は認められない、抗告してほしいと願いつつ、お金も、時間もかかる、そして何より心的負担の大きい裁判をこれ以上がんぱって闘えとは言えません。ただ、静かに家族の決定を待つだけです。
でも、ひとりでも多くの人に、このことを個人の問題とは考えずに、自分たちの子どもにも起こりうる問題として考えてほしいと思います。子どもたちの未来、学校の未来、司法の未来に、そして、この国の未来にかかわる訴訟だということを理解してほしいと思います。
棄却されたのは、子の安全を願う親の思いです。



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