今日、東京地方裁判所八王子支部の401号法廷で、戸塚大地くんの裁判「中学校の授業中の事故死に対して国分寺市にその安全義務の責任を問う裁判」の第16回法廷が開かれた。
平成6(1994)年6月8日に体育の授業中、跳び箱から落下し、第4頸椎を骨折して亡くなってから7年になる。
前回(5/17)、大地くんのお母さんのひろみさんへの証人尋問が終わりきらず、今回に持ち越された。
この裁判の証人尋問の最後となる。
原告側の弁護士の質問に、ひろみさんがひとつ、ひとつ答えていく。
K先生の体育の授業はできることをやる授業だった。2年生にやったのと同じことを繰り返すだけの授業が、子どもたちに魅力的であるとは思えない。テストもやれることをやる、復習だけでよいという。当然、子どもたちにも、真剣味が薄れるだろう。
一方で、下の子の中学の授業参観でみた光景。女子の体育の授業だけでなく、男子のバレーボールにもT.T(加配教諭)がついていた。体操の授業はメリハリがあり、キビキビしていた。教師の目配りも行き届いていた。難しい技の練習のときには、必ずT.Tがついて安全に配慮されていた。
当時すでにT.Tは導入されていた。しかし、なぜかK教師の授業にはつかず、女性の教師の体育の授業にのみついていた。陸上、器械運動、水泳などの能力別、技術的な授業につけたいと申請が出されていながら、K教師の授業にはつけられなかった。
生徒の安全確保のためにグループ体制をとっていたとK教師は法廷で証言している。しかし、当日はテストであったために、そのグループ体制は取られていなかった。
教師はマットのテストに全神経を集中させ、その間にテストが終わった生徒たちには、鉄棒と跳び箱の2種目を自由練習をさせていた。その日、初めて出された8段という高さの跳び箱。
もし、加配の教師がついていれば、事故は起こらなかったかもしれない。
そして、どうして事故が起きたのか、原因が不明の間も、同じように授業は続けられた。せめて、原因がはっきりするまでは、事故再発防止のために跳び箱の授業は中止されるべきだったのではないか。生徒の命にかかわる重大な事故が発生したにもかかわらず、そうした措置さえ取られなかったことに対する安全配慮への認識の甘さを原告は指摘する。
7月13日に教師4人が揃って戸塚家を訪問した。それまでは1人か2人ずつだったにもかかわらず。
その間、遺族はずっと、学校から事故当時の様子や原因について詳しい説明があるものと信じて待っていた。しかし、ろくに調査さえされなかった。それが、大地くんの同級生から聞いた言葉を元に父親が教師に火葬場で、「事故原因は先生方が言っているのと違うのではないですか」という言葉からようやく、教師たちは事故原因にたどりつく。つまり、両親は教師たちから聞く前にすでに直接の事故原因を知っており、ヒントを与えたのはむしろ遺族だった。
4人で訪れた教師は、「今まで正規の授業で跳び箱から落下したと思っていましたが、間違った事実をお知らせしたことをお詫びします」と言った。学校側はその時の様子を報告書に「事実を知らされた母親のショックは非常に大きいものだった」と書いている。
しかし、両親はその時すでに事故原因を知っていた。ひろみさんは、課題以外のプロレス技が2度もできてしまうような授業、その中で生徒を死なせてしまったという詫びの言葉ではなかったことに、むしろショックを受けたという。遺族の悲しみ、親の苦悩への共感を欠いた教師たちの言動にひどく傷つけられたという。
大地くんが事故にあって亡くなるまで、3週間あった。この間のことを、家族の間でも今まで1度も話題にすることはなかった、誰にも話したことがなかったという。辛い記憶として封印してきた。そのことを法廷で、ひろみさんは証言した。
大地くんは事故にあってまず、のどを切開され、声を奪われた。そのため、「つらい」とか、「どうしてほしい」ということを言葉で伝えることができなかったという。しかし、目と口の動きで看護している家族には意志が伝わった。足に触ってほしいと要求されて、母親が触った。そのことで、彼は首から下の感覚がないこと、首から下が動かないことを悟ったようだったという。大地くんはスポーツ好きの少年だった。まだ14歳。このことを、どう受け止めただろう。
集中治療室にいながら、意識はしっかりしていたらしい。「今日はどう?」と問いかけると「だいじょうぶ」と口の形で答えた。「おばあちゃんは元気?」とか、仲のよい友だちのことを聞きたがった。友だちからの手紙を読んだり、テープを聞かせると喜んだという。
要求があるときは舌を鳴らして、看護婦さんを呼んで意志を伝えた。生きる意欲は強かった。
眠れないようなので問いかけると、「目をつむると、もう二度と目があけられないのではないかという気がして、眠れない」と答えたという。それほど、3週間という期間、生きることあきらめなかった。せいいっばい生きようとしていた。
その大地が生きられなかったことをどれほど悔しいと思っているだろうと、ひろみさんは大地くんにかわって訴えた。
裁判のあとの報告会でお父さんが言った。「3週間の間、誰も大地が死ぬとは思っていなかった」と。退院したら、車いすの生活が始まる。そのために家の改築もしなければと思っていたという。
両親は訴える。どうして死ぬような事故が起こってしまったのか、と。
1度に3種目やる授業の方式、当日初めての8段の跳び箱、TTが使える環境にありながら活用しなかったこと、1度目に跳んだときに教師が気付いて注意していれば・・・。
全部が行われていたならば、死ななくてすんだのではないかと。そして、教育委員会はなぜ、大地くんの過失責任を7割としたのか。学校からの報告を鵜呑みにしたのではないか。
そして、不幸にして事故が起きてしまったならば、学校主体で事故を調査し、親に報告していただきたい。そうするべきだと。原因がわかったなら、二度とこのようなことが起こらないようにしてほしいと。
今でも命日の6月29日には、何人もの同級生たちが線香をあげにきてくれるという。22歳。忘れずに訪ねてきてくれることを嬉しく思う。一方で、何も事故が起こらなかったら、大地も生きていたら今頃・・・と思うと無念だと心情を吐露した。
今回の裁判で、原告は、大地くんのかわりに、その苦痛と生きたかったという思いを訴え、そして親としての思いを訴えた。封印していた思い出を話さなければならなかった。とても辛い証言だったと思う。涙を押さえながら、法廷で最後まできちんと冷静に証言することができたお母さんは、本当によく頑張った。前回、女性の弁護士さんが、「裁判というのは、遺族にとても過酷なことを強いる」「また、自分たちも仕事として、遺族にとても辛いことを要求しなければならない」と言っていたことの意味がわかった気がした。
亡くなるまでの3週間、大地くんの意識はなかったのだろう、痛みも苦しみも、死の恐怖も知らずに逝ったのだろうと勝手に思いこんでいた私は、今日の証言を聞いて、涙をこらえることができなかった。
このお母さんの証言を体育のK教師にもぜひ聞かせたかった。大地くんの思い、遺族の思いを彼はどう聞くだろう。
当時の校長は法廷に来ていたという。どんな表情をしていたかはわからない。しかし、かつてひろみさんが、「お子さん、いらっしゃるんでしょ。もし、自分の子が大地と同じ目にあったらどう思いますか」とぶつけたことがあるという。「そうなったら、それは仕方がないことでしょう」と校長は答えたという。
裁判のあとの報告会に、25年前、息子が体育の授業中の事故で車いすになったという父親が参加していた。25年間ずっと車いすの生活で、ものを握ったり、字を書いたりすることもできないという。
教師は子どもの命を預かっている。人の命の大切さを認識したうえで先生になってほしい。それがわからない人は先生になるべきではないと言った。その通りだと思う。
62年に勝訴の判決が出たという。「税金をお前ひとりでそんなに持っていっていいのか」と誹謗中傷されたりもしたという。しかし、その金で息子はようやく生活している。そして、賠償金はたくさん取ったほうがいいと言った。事故を起こすと、こんなにたくさん取られるから、事故を起こさないようにしようと思うからと。以前に、同じことをある裁判の原告から聞いたことがある。彼も言っていた。「やつら(学校の教師や教育委員会)は、金を取られることでしか痛みを感じないのだから、できるだけたくさんとってやったほうがいい」と。
この裁判そのものが、もしも、学校側が遺族の悲しみに寄り添ってさえいれば起こらなかった訴訟なのだ。そのことを遺族から何度も私は聞いた。最初から訴訟を起こす気などなかった。ただ、学校側のあまりに理不尽な態度に怒りが収まらなかった。訴訟を起こすしか道は残されていなかったと。
次回(10月25日)が最終書面となる。結審も近い。
「もしも勝訴したら、市はきっと控訴してくるでしょう。敗訴なら・・・あまりひどい判決ならば、最高裁にいってまでも争うしかないと思っている」とお父さんは言った。この裁判が終わっても、それがすべての終わりではないことを遺族はすでに覚悟している。この先、まだ何年、こんなことが続くのだろう。遺族が悲しみから解放されることはない。
「わたしたち、この先、どうしたらいいんでしょうね?」ひろみさんが寂しく笑った。家族を一人失っただけで、もう二度と昔のようには戻れない。十字架を一生背負い続ける。
「こんなことがなかったら、わたしたちはずっと学校を信じていた。ばかな親のままでした」そうも言った。
何度か裁判を傍聴しにきたという大地くんの同級生だった女性が言っていた。「学校や市、みんなが信頼できる場所のはずなのに、なんでこうなったんだろう」と。
そのことをもっと多くのひとが気が付かなければ、きっと、世の中を変えることはできない。裁判はたとえ負けたとしても、そのことを多くのひとに問いかけるきっかけとなるだろう。
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