南インドの子どもたち
その現実と可能性

庵谷 幸代



「カミサマ、カウカ?」の少年から



 沢木耕太郎原作の「深夜特急」というドラマをご存知だろうか。

 若き日の作家沢木耕太郎がインドからイギリスまで一人、バスの旅を続ける話なのだが、その旅の途中、バナーラスのカンジス河ほとりで、彼は12、3歳ほどの一人の少年に出会う。少年はガンジスにやって来る観光客を相手に、ヒンドゥー教の神々の小像を売り歩いている。沢木はここに数日間滞在するうち、この少年としばしば言葉を交わすようになった。少年が慣れた日本語で「カミサマ、カウカ?」と盛んに話しかけてくるからだ。

 ある日、いつものように少年と沢木が

 少年「カミサマ、カウカ?」

 沢木「いくら?」

 少年「500ルピー」

 沢木「高い!」

 という会話(?)を繰りかえしながら歩いていると、傍らを登下校中の小学生たちが楽しそうに話しながら通り過ぎた。それを見た沢木が、ふと思いだしたように少年に尋ねた。

 「Do you go to school?」

少年は、

 「No」

と首を横に振る。



 ブラウン管の中のこの少年は、私が南インドで出会った子どもたちを、再びまざまざと思い出させた。



 インドの人口は現在、約9億200万人で、そのうち約57%の人々がデリー、ボンベイのような大都市に形成されたスラムや路上に住んでいる。その多くが、豊かな暮らしを求めて農村から都会へ出てきた人々だ。私が訪れたチェンナイ(旧マドラス)の街でも、道端でぼんやりと座って通りを眺めていたり、寝転んだり、または物乞いをしているたくさんの大人や子どもたちを見かけた。日中は、喧騒の街中を悠々と歩く牛のふんを踏まないように注意して歩かなければならないのだが、夜ともなると、道端で寝ている人々を踏まないように気をつけなければならなかったほどだ。

 また、この国では約3万人のストリート・チルドレンが親元から離れて、スラムや路上で暮らしているという。農村から都市へ家族で出てきても、なかなか仕事が見つからないため、酒浸りになって子どもに暴力を振るう父親や、また、貧しさゆえに娘を売春婦として売ってしまう親もいる。こうして子どもは親から離れ、多くの子どもたちが路上で暮らすようになる。

 私が立ち寄った有名な寺院では、少年・少女からから老人まで、たくさんの貧しき人々が物乞いをしてきた。このような人が集まるところでは、売買春も盛んに行われていると聞く。

 このように子どもたちを取り囲む環境は劣悪である。しかし、この問題に立ち向かう努力は、インド国内でもさまざまに行われている。私は昨年、南インドの村で総合村落開発プロジェクトを実施しているRTUというNGOを訪問する機会に恵まれた。これはその旅のレポートである。


両親のいない子どもたち


 インドは南、チェンナイ(旧マドラス)から寝台列車に揺られバスを乗り継ぎ約12時間、タミルナード州、G.カルパッティーという村にRTU(Reaching The Unreached:「貧しい人々に救いの手を」の意)はある。ここでは、イギリス人の牧師であるジェ−ムス・キンプトン氏が始めた総合村落開発プロジェクトが行われている。

 160人近い子どもがこの村で生活しているが、その半分以上は両親が死亡したり、親に捨てられ街をうろついていたところを保護された子どもたちだ。彼らは村の中にある集合住宅に養母とともに暮らしている。養母となる女性は、夫に先立たれたか離婚した身寄りのない人々で、自分の子どもといっしょに親のいない子を引き取って育てている。これがフォスター・ファミリー・プログラムである。現在は35世帯がコミュニティーを形成している。

 もともと、ここG.カルパッティーは干ばつによる水資源不足が深刻で、それによる貧しさと高い乳児死亡率で知られている地域だった。ジェームス・キンプトン氏が40年前にこの村に訪れたときには、井戸もなく、人々は道に溜まった泥水で体を洗っていたそうだ。

 この村の活動地域は大きく4つに分けることができると思われる。1つは、フォスター・ファミリー・プロジェクトの行われている、養母と子どもたちが暮らすコミュニティー、2つめは、フォスター・ファミリー・プロジェクトとは関係ないが、この村で暮らしている家族たちのコミュニティー、3つめは職業プロジェクトが実施されている地域で、ここには織物工場や瓦を製造する施設などがあり、1つめと、2つめの地域に住む人々がいっしょに働いている。そして4つめは子どもたちの通う学校がある地域である。この4つの地域はそれぞれ隣接しており、相互に強く結びついている。

 RTUの事務所を訪ねると、その壁のあちこちに、笑った顔、泣いた顔、何かをじっと見つめている顔などをした子どもたちの似顔絵が飾られてあった。キンプトン神父がみずから、子どもたちをモデルにして描いたのだそうだ。キンプトン氏の子どもに対する愛情が直に心に伝わってくる、美しい絵だった。

 私たちはこのRTUのゲストハウスに一晩泊まらせてもらった。夕食後にはフォスター・ファミリー・プログラムのコミュニティーの広場で、養母や子どもたちとの交流会が行われた。子どもたちがリズミカルな楽しい田舎のダンスを披露してくれたので、私たちはお礼に折り紙を実演。そして子どもたちといっしょに折り鶴を作ることになった。まるで幼稚園の保母さんにでもなったような気分だ。いざ始めてみると、折り鶴というのははなかなか難しくて、あっちを折ったりこっちを折ったり、てこずりながらもみんな真剣だ。つい教えるこちらも夢中になる。

 ところが、折り始めてから20分もたった頃である。ようやく、もうすぐ鶴の羽が完成するという時になって、突然子どもたちがわっと立ちあがり、できかけの折り鶴を握り締めたまま、母親たちといっしょにあっという間に彼らの家に帰って行ってしまった。約80名ほどいた子どもたちと母親が、一瞬のうちに一人もいなくなってしまったのだ。まったく不意をつかれた出来事に私たちは唖然としたが、後から聞くところによるとその時消灯の鐘が鳴ったのだそうだ。もっと遊びたかったのに残念だった。もしあの中に物持ちのよい子がいたとしたら、今ごろも折りかけの鶴を眺めて、「いったいこれは何じゃ?」と思っていることだろう。

 次の日の朝、朝食までの少しの時間を散歩にでようと、フォスター・ファミリー・プロジェクトのコミュニティーを歩いた。公園のような広場では、子どもたちが元気に走り回っていた。私が近づくと10人くらいの子どもたちがすぐに走り寄ってきた。

「何ていう名前?」

と私が尋ねると、

「ガネーシャ!」「キャサリン!」

と元気な答えが返ってきた。

 これをきっかけにしばらく子どもたちとわいわい話していると、一人の少年が、私のボールペンと小さなノートを指さし、貸して、という。私が素直に渡すと、ノートの余白に自分の名前をきれいなローマ字で書いてよこした。この文字はRTUの学校で教わったものかもしれない。その得意げな表情は、「上手に書けるでしょ、エッヘン!」といわんばかりだ。当然、他の子どもたちも、われもわれもと次々に書き出した。こういう心理はどこの国の子どもも同じなのだろうなあと思いながら、そんな子どもたちが愛しく思えた。

 この元気な子どもたちの裏の顔を私は知らない。彼らの複雑な心理状況など、私には到底尋ねられるものではなかった。しかし、短いふれあいを通して、彼らが最も必要としていることは自分自身の存在を誰かに認めてもらうことなのではないか、ということを感じた。そして、助け合い補い合いながら暮らす「家族」がいる今、「この自分」を見てくれる親がいることが、彼らの生きる力になっているのではないかと思った。


キャサリン、元気?


 日本に帰国後しばらくして、タミル語をたくさん教えてくれたキャサリンという少女に手紙を書いた。キャサリンは私たちが出発の日、自分は心臓病でこれから病院へ定期検診に行く、と話していたので心配に思ったからだ。私は手紙の返事を期待して、返信用の切手も同封して送ったが、だいぶたった今も返事はまだこない。

 RTUの活動は、インドで増え続ける路上生活者やストリート・チルドレンの数を見てしまえば、ため息が出てしまうほど小さなものかもしれない。けれども、少なくともここは、子どもたちが自分の存在価値を、自分自身で認められるようになる可能性を秘めている。

 RTUの子どもたちは、インドの現実と、それでもなお、したたかに生きる強さを、私に教えてくれた。


 キャサリン、元気?




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