精神の自立をめざして

 パアララン・パンタオ
   ゴミ山の学校で体験したこと

太田 誠一



ある日の授業


 「世界は不思議であふれているよね」。私の問いかけに子どもたちの目が輝いた。

 1996年、フィリピンに留学していた私は、マニラ首都圏の郊外にある識字学校「パアララン・パンタオ」でボランティアをしていた。「パアララン・パンタオ」とは、『人情味のある学校』という意味のタガログ語だ。経済的に貧しく、公立の学校に通えない子どもたちのために、地域住民が力を合わせてつくった小さな学校だ。

 学校は1989年につくられた。94年からは当時のユニセフ・マニラ事務所の職員の紹介で、フィリピン大学で学ぶ日本人留学生が出入りするようになった。このときの留学生が自作の紙芝居を披露し大ウケした。翌年、経営難に陥った学校をお手伝いしたのも、入れ替わりで来た日本人留学生たちだった。給料が払えず、教師が次々と辞めていくなか、女性校長のレティシア・B・レイエスさんは、娘と高校生の孫ふたりを呼び寄せ、何とか学校を切り盛りしていた。そこで留学生たちは、週1回の授業を担当するという試みを始めた。

 私もこの伝統にならい、週に1回授業を受け持っていた。その日は科学を担当し、子どもたちに発見の喜びを教えようと必死だった。

 私は言った。「どうして夜になると、空には星が輝くの」。「どうして朝には太陽が昇るの」。10歳前後の子どもたちである。考え込む子もいれば、手を挙げて発言する子もいた。初めての科学の授業にしては上出来だ。調子に乗って次の質問に移った。

 「どうして秋になると、もみじは紅く染まるのだろう」。今度は何の反応も返ってこない。ぽかんとした子どもを前に一瞬動揺しながらも、一番手前に座っていたシェルウィンという男の子に意見を求めた。

 恥ずかしそうにシェルウィンは言った。「もみじって何ですか」。それを聞いてはっとした。他の子に聞いても誰も知らない。急いでレイエス校長を呼んだ。

 1年中暑いフィリピンの気候。「マニラ周辺ではもみじはないなぁ」と校長は言った。「代わりに」と言って彼女が持ってきたのは、裏の畑から採ってきたばかりのサツマイモの葉っぱだった。「なぁんだ、サツマイモの葉っぱのことか。でも紅いのは見たことないなぁ」とシェルウィンは真顔で言った。真っ赤に染まったのは私の顔のほうだった。

 日本にあってフィリピンにないもの。実にたくさんある。その逆もまた様々だ。日本では冬になれば雪が降るが、フィリピンではもちろん降らない。だから、タガログ語には雪を表現する単語がない。英語の「スノー」を使っている。

 もみじを例に挙げ、発見の喜びを教えようとした私だったが、逆に子どもたちに教えられた。今となってはいい思い出だ。

 子どもたちの多くは、英語をうまく話せない。私は、タガログ語で授業ができるほど流暢ではなかったので、授業では担任の先生が私の拙い英語を通訳するという面倒くささだった。それでも私に授業をさせてくれていたのには、ちょっとした理由がある。

 レイエス校長は言う。「子どもたちは英語ができない。でも、同じように英語の苦手なお前が授業をすることで、子どもたちにも勇気が湧くだろう。努力すれば、いつかはうまくなるってね」。褒められたのか、けなされたのか。でも、そう言って私の下手な授業に価値を見出してくれる校長の姿勢が一番温かかった。生きていて本当に良かったと思える瞬間、それは「あなたには、あなたにしかできないことがあるんだよ」こう言ってもらえるときではないだろうか。パアララン・パンタオには、人間の可能性を育てようとするレイエス校長の信念が宿っている。


第2スモーキー・マウンテン
         パヤタスの現実



 こんなに素晴らしい学校でも、そこを取り巻く環境は厳しい。学校は、マニラ首都圏ケソン市のパヤタスという地域にある。15年ほど前からゴミの搬入が始まり、マニラ市のスモーキー・マウンテンが閉鎖された今、マニラ最大のゴミ捨て場となっている。

 朝から夜中まで、毎日、延べ1000台近いダンプカーがゴミを搬入する。分別されていないゴミが積み上げられ、ふたつの巨大な山となっている。生ゴミが腐敗し、メタンガスによる自然発火で1年中煙が立ちこめる。山に登ってゴミのなかに足を踏み込めば、無数のハエが飛び上がる。腐敗臭が鼻につき、灼熱の太陽と共に脳みそを攻撃する。慣れないうちはすぐに頭がクラクラしてくる。

 この山から50メートルほど離れたところに、パアララン・パンタオはある。辺りには、ゴミ山を囲むように家が建ち並んでいる。ブロックを積み上げた立派な家もあるが、ほとんどは廃材を組み立てただけの小屋のような建物だ。トタン屋根の上には、風に飛ばされないように古いタイヤを載せてある。住民のうち、特に貧しい人々は、毎朝小さな家からこの山に登る。ゴミの中からリサイクルできるものを拾い集め、回収業者に売って生計を立てているのだ。

 男も女も、大人も子どもも、皆が入り乱れてゴミを拾う。生活をかけての真剣勝負だ。頻繁に出入りするダンプカーと整地用のブルドーザーが、ゴミを拾う人々にかまうことなく行き来する。下敷きになって命を落とした人も少なくない。

 パアララン・パンタオの生徒も、ゴミ山で働いている。午前中に授業のある子は午後に山へ登り、午後の授業に出る子は朝からゴミ拾いをする。多くの子どもが家計を支えながら、パアララン・パンタオへ通う。

 入学金50ペソ(約250円)、授業料なし。貧しい子どもが一人でも多く学べるようにお金はもらわない。レイエス校長は、知人に頼り、NGOなどの一時的な資金援助に支えられながら、10年近くこの学校を運営してきた。


地域に根ざす学校


 1987年、レイエス校長が地域の人々に頼まれ、子どもたちに勉強を教え始めたことがこの学校の原点だ。はじめは5人だった生徒が、1カ月後には40人になった。翌年には、ゴミ山周辺の住民240世帯で組織するDNO(ゴミ処理場隣人組合)のプロジェクトで多目的センターが建てられ、そこで教えるようになった。このプロジェクトには、フィリピンのいくつかのNGOが出資した。

 DNOの代表を務めているのもレイエスさんだ。彼女は、82年にパヤタスに引っ越してきて以来、住民同士のトラブルの調停役や、けが人の応急処置などをしていたため、周囲の人々から絶大な信頼を集めている。

 何度も学校を閉じようかと考えたこともあった。運営資金の問題もあったが、住民組織の代表との兼務が彼女を多忙にし、精神的にも肉体的にも疲れ果てていた。レイエスさんは今年の6月で58歳になる。それでも、「子どもが来るから閉じるわけにはいかない」と自分の体に鞭打って奮闘している。現在、生徒の数は200人を超えている。

 彼女は言う。「子どもを教育するってことは、その親が教育されるってことなのよ」。貧困の故に引き起こされる悲劇、子どもへの肉体的、性的暴力が子どもたちの未来に暗い影を落としている。パアララン・パンタオの生徒にも虐待を受けた子どもがいる。そのため、読み書きや計算を教えるだけではなく、問題を抱える子どもたちの心のケアや親の意識改革にも献身的に取り組んでいる。

 新学期を迎える直前の昨年6月、パアララン・パンタオでは保護者を対象にしたセミナーが行われた。チルドレンズ・ラブというNGOの代表、ビン・バギオロさんが講師を務めた。制服も授業料もいらない学校でバギオロさんは訴えた。「使わなくて済んだ制服代や授業料をギャンブルに使ってはいけませんよ。子どもたちに栄養のあるものを食べさせてください」。笑いとともに照れくさそうな親たちの顔があった。

 その日、セミナーを終えたバギオロさんは、近くの市場で数人の親たちに出会った。ある人は、左の肩に肉や野菜の詰まった袋を載せ、右手には文房具の入った袋を持っていた。その光景を目にした瞬間、バギオロさんは叫んだ。「サバイバル・アンド・ディベロップメント、これこそいきる芸術だ」。生きることと事態を打開すること、現実と理想とは決して矛盾するものではない。バギオロさんの胸に感動があふれた。

 確かにパヤタスの人々は、その日を生き抜くことで精一杯という環境に置かれている。台所用品を買えないほど貧しい人々は、自炊ができないので割高な食堂での食事を強いられている。収入のほとんどは食費で消えてしまう。食べて、働いて、食べて、寝る。まるで、生きるという現実が人間自体を食いつぶそうとしているかのようだ。昨日、今日、明日と流れていく時間のなかで人間は本当に無力な存在なのだろうか。幼くして死んでいった子どもや生活苦を紛らわすためにギャンブルに興じる大人たちは、過ぎていく時間のなかで埋もれていくだけの存在でしかないのか。

 レイエス校長はそうではないと思っている。ひとりの人間に宿る無限の可能性を彼女は信じている。だからこそ、彼女は立ち上がった。学校を開き、子どもたちの可能性を拓くことで、その親たちに未来への希望を持たせようと。現実を変えるのは並大抵のことではない。しかし、レイエス校長の地道な努力が確実に親の意識を変えようとしている。


共に生きる未来へ


 96年の11月から翌年の3月まで、私はパアララン・パンタオに住み着き、ここから大学へ通った。現地で生活するようになってからは、ゴミ山に登るのが私の日課となった。生活者の視点になってゴミ山を眺めてみると、それまでとは違ったものが視界に飛び込んでくる。

 ある日、ゴミ山を歩いていると、足もとに作りもののオレンジが転がってきた。拾い上げて転がってきた方向を見ると、ふたりの子どもが手を振っている。ひとりは棒きれを持って、眩しいくらいの笑みを浮かべている。「一緒に遊ぼうよ」そう言われているようだった。子どもたちに駆け寄り、私がピッチャーになって野球が始まった。作りものの果物のボールに、拾ったバット。戦場のように思えていたゴミ山が、急に近所の空き地のように思えてきた。辺りを見渡せば、拾い集めたばかりのゴミをかけて真剣に的当てをする子ども、ゴミ山の中腹に陣取った粗末な食堂でコーヒーをすすりながら談笑する男たち、煙と悪臭に包まれながらも、喜怒哀楽を分かち合う人間の姿があった。

 留学する前の私は、自分があの学校を支えるんだという気持ちだった。今思えば、そこには驕りがあったような気がする。現地で生活し、言葉の壁、文化の違い、そして貧困という現実を目の当たりにして、あまりに無力な自分に気付かされた。私は厚顔無恥な自分を恥じた。

 パヤタスの人々は、本当によく笑いよく泣く。苦しい現実があるからこそ、感情を素直に表現し、今この瞬間の自分たちの存在を確かめ合っている。みんな、ありのままの自分で私に接してくれた。こんな愛すべき人たちに囲まれ、知らず知らずのうちに抱いていたパヤタスの人々への優越感が吹き飛び、自然と友情が芽生えていた。レイエス校長の言葉が胸に残る。「あなたはここで一緒に生活し、もう私たちの家族同然です。どうかパヤタスの現実を日本の人に伝えてください。あなたにしかできないことがあるのだから」。

 人はたったひとりでは無力な存在かもしれない。しかし、相手の可能性を信じ分かり合おうとするなかで、たとえひとりであっても立ち上がる勇気が湧いてくる。地球の片隅で孤軍奮闘するレイエス校長の人生が、私にこのことを教えてくれた。




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