『ピープルズ・プラン研究所ニュース』 No.4 (1998/06/27)
アジア・太平洋戦争末期に大本営を移そうと工事が進められ、総延長約一一キロにおよぶ地下壕が掘られました。その「松代大本営」の跡が残る長野市松代町。公開されている象山地下壕には、年間約一〇万人におよぶ見学者が訪れています。大本営に関わる施設は、長野市の善光寺平一帯に計画されていましたが、その主だった施設が舞鶴山、皆神山、象山の三つの山を刳り貫いて造った三つの地下壕です。そして、その工事で七千人とも八千人ともいわれる朝鮮の人々が酷使されたのです。
「ろくな食事も与えられず、冬でも夏服のような作業着で、地下足袋は半日ももたないような粗末なもの。ダイナマイトで砕かれたカミソリのように尖った石の上を、ほとんど裸足で作業した。体の弱ったものが倒れると、労務係が殴る蹴るで働かせた。ダイナマイトの爆破時や落盤で死んだ者も居たが、どのように葬られたのかもわからない。」戦後、松代に移り住んで証言を続け、一九九一年三月に亡くなった崔小岩(チェ・ソアム)さんの証言です。松代大本営造営工事が始められた一九四四年の秋、その工事にともなって「慰安所」が設置され、朝鮮から連れてこられた女性四名が「慰安婦」とさせられました。この建物は、元は製糸工場で働く女性たちの娯楽施設として造られたものでしたが、その後買い取られ蚕室として使用されていました。その建物を、嫌がる所有者から「国策に協力できないのか」と脅して半ば強制的に官憲が借り上げたのでした。
一九九一年春、ほぼ当時のままの姿で残されていたその建物が取り壊されるということを知り、なんとかして残したいと思う者たち数名で活動を始めました。それが、この会の前身である「松代・朝鮮人『慰安婦』の家を残そう実行委員会」の活動です。所有者よりその建物を譲り受け、募金活動を行い、その年の八月には建物を復元できる形で解体を終えました。その後は、その建物を資料館として再生させるために資料を保管し、募金活動、調査活動、写真展や学習会等を企画しての広報活動などを行ってきました。
一昨年、一九九六年の春、資料館建設のための土地約八〇坪を確保し、それを機に資料館建設に向けて具体的に一歩前進する意味で、また、それまで地元で協力してやってきてくれた人たちと同じ会のメンバーとして共に活動していくという意味で、組織を改組・拡大し「もうひとつの歴史館・松代」建設実行委員会と名を改め、現在に至っています。
「もうひとつの歴史館・松代」の「もうひとつの」の言葉に込められた意味は、支配してきた側の視点でとらえた歴史でなく、支配された側の視点に立って歴史を伝えて行きたいということです。例えば「慰安婦」の問題を伝える時、「慰安婦」をつくり、性の奴隷として使役した側の視点で歴史をとらえるのか、「慰安婦」にされた女性の側の視点に立ってとらえるかでは伝え方が大きく違ってくるのは当然のことです。私たち実行委員会の立場は言うまでもなく後者です。「同じ日本人だから」という理由で前者の立場に立つことを拒否します。そして、後者の立場に立とうとする時、人種や国籍や性別を越えて、人間として連帯することが出来ると信じています。
「もうひとつの歴史館・松代」建設実行委員会
千葉事務局 043(276)0715
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