『ピープルズ・プラン研究所ニュース』 創刊準備号 (1997/04/26)


【巻頭言】

言い出し人の一人として

 

武藤一羊

 

 昨年なかごろから何人かの人々と話し合っているなかから、ピープルスプラン研究所というものをつくろうというところに話が進み、とりあえず1年を準備期間として出発することにしました。さまざな背景の人々が問題意識を共有するためのならし運転の期間です。研究所とはいかめしい名称ですが、あまり硬くとらないでください。パロデイのようなところもあり、大まじめなところもあります。

 ではいったい研究所で何をしようとするのか。メンバーの専門や関心領域はとても広く多様なのですが、言い出し人の一人としてのわたしの意図は、市民運動をふくむ社会運動のなかでこのごろあまり正面からとりあげられなくなった(と思われる)テーマをめぐって、新しい角度からもう一度議論を起こしてみたい、そのような場としたいということにあります。議論のための議論ではもちろんありません。運動の死角に置かれがちだけれど、それを日向に持ち出すことが、わたしたちの考えと行動の活性化に不可欠と思われるいくつかのテーマです。

それはどんなテーマか。詳しいことは趣意書を見てほしいのですが、個人的な経験に即していうと例えばこういうことがあります。最近開かれるNGOの国際的な集まりでは必ずといっていいほど、90年代になってから加速した自由市場、自由貿易を旗印とする「グローバリゼーション」が女性、民衆全体、社会、文化、環境にいかに破壊的な影響を与えているかについて報告され、議論されます。そしてこの全体の枠組み(パラダイム)が破滅的であるということで一致します。そこまでは議論は説得力があり、充実し、活発です。しかしではどうすれば、この状況全体を変えることができるか、という道筋となると、議論はとたんに行き詰まります。そして当面なしうること、なすべきことが列挙され、合意されます。それは一方では、個別課題あるいは個別国家をめぐる抵抗・活動の強化であり、他方では国家や国連への政策提起とロビー活動と概括できるでしょう。それが必要な実践上の結論であることは疑問の余地がありません。しかし一方でわれわれは、支配的なパラダイムが破滅的であると言っているわけです。そうである以上、この支配的パラダイムを覆すことはいかにしてできるのか、という問題が突きつられてきます。当面焦眉の急である問題ととりくんだり、このパラダイムの許容範囲で政策変更をかちとることが、パラダイム全体の変更にどのようにしてつながるのか、あるいはつながらないのか、という問題を正面に据えて知恵をしぼることが避けて通れないはずです。しかしこの肝心な部分は、大きく空白になっていると感じられます。

20世紀の「大きな物語」(grand narrative)としての社会主義が崩壊した状況のなかで、「大きな物語」自身を否定する声がしきりです。そのなかにはあきらかに新しい現実への新しい洞察が含まれています。しかしひとつの「大きな物語」が崩壊してできた空白はからっぽではなくて、そこにはフランシス・フクヤマの「歴史の終焉」から藤岡信勝とかいう人の「自由主義史観」まで、支配的パラダイムを合理化する粗雑で居丈高な「大きい物語」が横行していることも事実です。「大きい物語」は死んだわけでなく、対抗者が消えたので、一つになったに過ぎないとわたしは思います。それに対抗するために何か単一の「大きい物語」をつくる必要があるという立場にわたし自身はくみしません。「大きい物語」の理解自身が、これまでの経験の批判を通じて作り直されなければならないのです。新しい「大きい物語」とは恐ろしく多様性に富むひとびとの集団・潮流が、たくさんのストーリーを含む共通の物語を現実の中で編み上げていくダイナミックなプロセスであるとわたしは考えています。それは、そのまま支配的なパラダイムを覆し、乗り越える主体が出現するプロセスでもあるでしょう。

このことは、変革の主体についてあらためて考える必要を示唆します。それは社会・政治運動についてあらためて考えるということでもあります。世界的にも、アジアについても、また日本でも、ひとびとは新しい形で行動し、新しい考えが生まれています。そのなかでわたしたちは、運動そのものをもう一度反省的に検討してみる必要に迫られていると思うのです−われわれの経験をくぐらせ、また世界的に議論されてきた運動についての新しい議論(理論)からも学びながら。わたし自身はこの研究所をつうじて、さまざまな分野の活動者の協同作業として、これまでの運動を総括し現状をおさえる作業にとりくんでみたいと考えています。総括とは後ろ向きに聞こえるかもしれませんが、そうではないのです。未来を志向する視点がなければ総括はできないし、過去を切り捨てては未来へ向かうことができない、とこのごろ強く感じています。オルタナテイブな世界を構想するためには、社会主義運動の総括を避けて通れないことは明白です。とくに戦後日本の場合、運動の歴史は分断されてきました。例えば、労働運動では、戦後期の産別の運動、その後の総評の運動、連合の運動、それぞれの間には切り捨ての関係しかなかったように思いますし、60年代後半-70年代のラデイカルな運動と、その後の運動―「生活者」とNGO運動−との連続と断絶も十分に検討されているとは思えないのです。総じて戦後の運動についての反省的議論・理論は大きく空白になっているように思えるのです。(運動の総括についての議論が活発なのは恐らくフェミニスト運動だけではないでしょうか)。

 準備期間の1年間、わたしたちは、開かれたラウンドテーブルという形で、問題の焦点化をはかり、共通の土俵つくりを進めるとともに、趣意書の諸領域、できるところから研究会、研究グループの形成を促したいと思っています。そしてそのなかで、さまざまな分野の運動団体、研究者との共同の場をつくり、広げてゆきたいと願っています。関心を同じくする多くの方々の参加、支援、協同を心から期待しています。


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