People's Plan Forum Vol.3 No.5 (Nov, 2000)
20世紀の最後の年、とか、あと何日で21世紀、とかいう陳腐なコピーが氾濫していて、見るのも嫌になっているのだが、そこに働いている政治の威力を考えれば目を塞ぐわけにはいかない。政治とは広い意味の政治、社会関係や思想や文化まで含めた権力関係のことである。
このスローガンがはめ込まれている文脈はフランシス・フクヤマのそれ、「歴史の終焉」である。21世紀は、市場原理が貫徹する時代、IT革命によって地球が一つになる時代、と表象され、人間社会は、そのなかに進歩・進化してゆく。むろん世界には遅れた部分があり、多様性もある。しかしいずれその理想像に収斂してゆく以外に展望はない。むろん進歩に犠牲はつきものである。紛争も避けられない。地球環境の破壊は大問題だが、それは科学技術と環境ビジネスの発展で対処できる。マイナス面を最小限に抑えつつこのプロセスを進行させるために国際的公共財の動員が必要だ。米国を中心とする「先進国」同盟など。
およそこういったものが「21世紀まであと何日」式の政策やら標語やらが前提にし、また撒き散らす歴史観である。奇妙なことに、とっくに破産したとされていた単線的発展の歴史観が大規模に復活し、多数派の人びとの頭に住みついたのである。多様性はこの展史観の邪魔にならない。かつての帝国がいくつもの「人種」を包摂することで、それを帝国の威信の証としたように、新しい単線発展史観も、その背後の地球的複合権力も、多様性をまるごと抱きとるのである。「進んだ者」と「遅れた者」の差別を組み込んだ位階制構造のなかにではあるが。
私たちが見つけ、つくり出すオルタナティブとは、この全体にたいするオルタナティブである、と私はいまでも考えている、というよりいまだからこそ強調したいと思う。
大手証券会社の元役員だった紳士に、どうしてプロたちは、バブルが永久には続かないこと、土地価格は永久に上がり続けないのを忘れたのか、と質問したことがある。誰でもそれは分かっていた、でもそれを言い出せる雰囲気ではまったくなかった、そのうち考えなくなった、という答えであった。
PP研は小さい。非力でもある。だが「そのうち考えなくなる」傾き、「考えない方がいい」とする論証にはけっして組しないだろう。
フクヤマ式未来を立てれば、過去は捨て去るべきゴミになる。この未来から見返せば、過去は不十分で醜い未来に過ぎないからである。頑固な過去は20世紀中に、粗大ゴミ回収の手続きをとる必要がある。その他は忘れた方が未来への仕事に集中できる。最近流行の「未来志向」の外交その他は、歴史の忘却を含意している。「戦争論」は戦争の現実への忘却を促すためにこそ戦争を論じる。
来年度、PP研では、二つのことをやりたいと思う。(1)忘却に抵抗し、フクヤマ症候群を解毒するために、戦後日本の社会運動の総括をまとめる共同作業(2)全体へのオルタナティブという観点から、改憲による日本国家の変容へのオルタナティブの議論を刺激すること。
会内外からの積極的な参加を期待します。
武藤一羊(むとういちよう)