People's Plan Forum Vol.3 No.4 (Sept, 2000)
沖縄の歴史と名誉を沖縄に取り戻すまで……平良修(日本キリスト教団うふざと教会牧師)
繰り返される「琉球処分」としての沖縄の歴史
私は自分の住所を書くのに「沖縄・大里村仲間96−1」とすることにしています。つまり沖縄県の「県」を省略しているのです。単純に日本国家の一員に組み込まれることへの抵抗からのことです。日本の中の沖縄にはつねに相反するふたつの流れがあります。ひとつは日本に同化していこうとする方向。他のひとつは異化、つまり日本から離れていこうとする方向です。沖縄は、「あなたは自分のことを日本人と思っていますか、それとも沖縄人と考えていますか」という奇妙な質問があたりまえに交わされるところです。「日本国民ではあるが、日本人というよりは沖縄人といった方がいい」との答えが返ってくるのです。このような対話がなされる特異な場所が他にあろうとは思えません。この思考傾向の行き先は、沖縄の独立論議にまでいたります。沖縄の日本からの独立がいいか悪いか、可能か不可能かは別として、また論議の濃淡はともかく、沖縄では何らかの形の独立論議が絶えることはありません。
沖縄のこの現象は何に起周するのでしょうか。それは一言にすると、沖縄がかつては琉球王国という独立国家であった事実、にもかかわらず、日本国家への武力による強制併合以来こんにちまで、国内植民地的な被差別の歴史を強制され続けてきたことからくる日本国家への不信と沖縄みずからの尊厳に対するプライドによるものです。
一八七九年、日本国は「琉球処分」と称して琉球王国を滅ぼし、沖縄県としました。世にいう第一次琉球処分です。
一九四五年、沖縄は天皇制国体と日本本土防衛のため、いけにえにされました。当時、本土を連合軍から防衛するための体制は六〇%しか立てられておらず、沖縄と沖縄住民は防衛体制づくりの時間稼ぎのため、捨て石作戦に供せられたのです。住民を巻き込んだ日本国唯一の地上戦場として、三ケ月余の激戦の結果、二〇万人が命を奪われました。その過半数は非戦闘住民でした。沖縄戦は、被差別の苦しみにあえぐ沖縄の人びとにとって、天皇と国家に命を捧げることをとおして日本国民としての認知を得るときでした。「動物的忠誠心」と酷評された人びとの国家への献身の背後には、その心情があったのです。しかし日本国は、沖縄住民よりも天皇制国体と本土を重視しました。私はこのことがらを「第二次琉球処分」と呼んでいます。
敗戦後七年間、沖縄をふくむ全日本は連合国の占領下に置かれました。そして一九五二年、対日講和条約によって占領が終了し、日本国家の独立主権が回復されたとき、沖縄の人びとの猛反対にもかかわらず、沖縄だけは米軍の統治下に残されたのです。これを「第三次琉球処分」と呼びます。
以後二〇年間沖縄は、独裁的米軍統治の下にあえぐことになりました。この苦境からみずからを解放する手だてとしては、現実的には新憲法下にある日本国への復帰しかありませんでした。住民の反米行動は年を追って俄烈になり、ついに日米両政府は、沖縄を日米安保体制下に組み込むことを条件に施政権返還を実現したのです。一九七二年のことでした。「日米安保体制下への組み込み」は、沖縄の住民意思に完全に反するものであったことから、このできごとを「第四次琉球処分」と呼びます。今年は「第四次琉球処分」二八年目にあたります。
沖縄戦の教訓 −− 軍隊は住民を守らない
「第二次琉球処分」と呼ばれる沖縄地上戦をとおして、沖縄住民が学び取った教訓は、軍隊は軍隊自身を守ることはあっても住民を守ることはしない、ということでした。沖縄に展開した日本軍第三二軍はみずからを「沖縄守備軍」と称し、したがって住民は日本軍に感謝し協力すべきであるとしました。しかし、前述のように、日本軍は沖縄住民守備のためではなく、真に守るべきものを他にもっていたのです。その結果、戦閣員を上回る非戦闘員たる住民が命を奪われただけでなく、実に守備軍と称した日本軍によって多くの住民が殺害されたのでした。
沖縄住民が沖縄地上戦をとおして学習したもうひとつは、沖縄に日本軍がいなければ、これほどの被害を被らなかったであろうということでした。軍隊と軍事基地のあるところ、そこは「敵軍」の第一の攻撃目標となることを住民は身をもって知りました。日本軍と住民混在の慶良間諸島で「集団自決」が多発していたとき、目と鼻の先の前島では、日本軍が皆無であったため、米軍の上陸にもかかわらず住民が一人も命を失わなかった事実がその証左です。
さらに沖縄の人びとは、軍隊は本質的に構造的破壊集出であるということを学習しました。軍隊は、生かすことをではなく、殺すことを本質的な役割としています。したがって軍隊との共生はありえません。
最後に、そして命をかけた最大の教訓として、沖縄地上戦で住民が学びとったことは、「戦争と軍隊の拒絶」であったといえます。二〇万人の死にもかかわらず生き永らえた生存者たちの生きることの意味は、まさにその真実を証言することにあったのです。
日本「復帰」と日米安保に利用される沖縄
しかし悲しむべきことに、沖縄戦から生還した人びとを待っていたのは、もうひとつの構造的暴力装置である米軍の支配でした。戦勝者・占領者としての支配力をもった米軍は、沖縄を「太平洋の軍事的要石」と位置づけ、手当たり次第に住民の土地を収用して、恒久基地化していきました。しかし沖縄戦の教訓に立った住民たちは、一九五〇年代の島ぐるみの土地を守る闘争によって激しく抵抗し、正当に人権を主張しました。しかし、主権在米軍、人権無視、軍事優先主義の圧力の下、住民の苦悩は深まるばかりでした。
住民には三つの選択肢がありました。ひとつは米軍の支配下に甘んじること、ひとつは独立をめざすこと、ひとつは主権在民、人権尊重、非武装平和主義を標横する新憲法下の新しい日本に復帰することでした。住民は日本復帰の道を選んだのです。とくに、非武装平和主義は住民の渇望を満たすものと期待されました。日米両政府は、沖縄の施政権返還にともなう軍事的マイナスを恐れる米軍の強硬な反対をおさえ、返還による政治的なプラスを優先して沖縄の施政権返還を実現しましたが、それは、沖縄を日米安保体制の最大の要として固く組み込むことを条件としていました。日米両政府は沖縄住民の意志に反する軍事共同支配を敢行したのです。
日本政府は日米安保体制を維持し、その最大拠点としての沖縄の現状維持を基本方針としてきました。その結果、全国土面積の〇・六%にすぎない沖縄が、米軍専用基地の実に七五%を強要されてこんにちにいたっているのです。日米安保条約が国の基本方針として必要なものならば、それに基づく在日米軍基地は、日本全国が公平に分担してしかるべきです。にもかかわらず、この現実。冷戦構造が終結した後も、アジアの軍事的不安定要素に対応するため、日米安保体制維持の必要性はいささかも変わらないとする日米両政府の共通見解に立って、日本政府は沖縄住民に「基地との共存共生」を強要しっづけています。軍事基地は本質的に軍事力による破壊の装置であり、「共存共生」とは根本的に相入れないものです。その矛盾を沖縄に押しっけて、日本政府には恥じるところがありません。この差別的国政に抵抗する沖縄住民に対して、日本国は立法、司法、行政の三権をあげて集団リンチをくわえ、「国定差別」をほしいままにしているのです。
「戦争と軍隊の拒絶」から「万国津梁」の地位をとりもどす
目下の日本政府の対沖縄政治課題は、危険度のもっとも高い老朽化した普天間米軍基地を返還し、代替基地として名護市キャンプシュワブ東海岸辺野古沿岸域に、より強力な新基地を建設しようとする計画です。その受け入れを条件に、政府は多大な地域振興策を実施するとしています。沖縄県知事と建設予定地の名護市長は、住宅密集地の普天間より危険度の少ない予定地への、その上面積が縮小された基地、しかも振興策つきという政府方針を現実的対応として承諾したのです。その結果、沖縄の人びと・名護市民の世論は賛否両論まっぷたつになりました。去る六月一一日の「県」議選の結果、知事の「現実的対応」を支持する与党の圧勝(琉球新報、沖縄タイムス)によって、沖縄の人びとの意思は新基地の建設にゴーサインを出したように見えます。
沖縄の人びとが沖縄戦から得た「戦争と軍隊の拒絶」という教訓は、ときの流れとともに風化したのでしょうか。「ぬちどぅたから(命どぅ宝)」は、振興策による「じんどぅたから(お金こそ宝)」にほんとうに変わってしまったのでしょうか。私は、沖縄戦体験は、学習などによる追体験者は別としても、少なくとも実体験者においては、風化するはずはないと思っています。「かんぽうぬくぇ−ぬくさ−(艦砲射撃の食い残し)」の人びとが振興策というお金と引き替えに「戦争と軍隊の拒否」の信念を心底から売れるはずはない。しかし基地経済の生活が長引けば長引くほど、本来あってはならない非人間的経済生活に慣れてしまい、本心にかすみがかかってしまうことはあり得ると思います。基地はそのような悪魔的人間破壊をひき起こすものなのです。
若い世代にとっては、基地は生まれたときからそこにある山や野原と何ら変わらない自然の一点に過ぎないものに見えるのでしょう。本来あってはならないものが自然なものに見えてしまうほどに、基地との抱き合わせの生活は人間性を破壊してしまうのです。もしそうならば、その人が受けている基地被害は、それだけ深刻だということになります。にもかかわらず「戦争と軍隊の拒否」の刻印は、人びとの魂の一番深いところに残っているに違いないのです。沖縄では少なくとも「基地の整理縮小」を標傍しない政治は、まったく存在しえません。私は厳しさのなかにもそこにひとつの曙光を見るのです。
沖縄住民の平均年間所得は、全国平均の七〇%にすぎません。完全失業率は全国平均の二倍です。この現実の最大の要因のひとつが、広大な有用地を占拠している軍事基地にあることを人びとは知っています。軍事基地の存在が、沖縄の自立経済への阻害要因になっていることを人びとは知っています。にもかかわらず、日本政府がその要因を存置することを求めるのであれば、それに見合うだけの、またはそれ以上の特別振興策を政府に要求することは当然の権利だと考えているのです。その意味において振興策要求は、本来的かつ抜本的な方策ではないこと、緊急対応策にすぎないことを人びとは知っています。
私個人としては、日本政府の沖縄への振興策は、一般的国庫補助的な性格のものではなく、特別恩恵的なものでもなく、第一次琉球処分以来の沖縄に対する賠償でなければならないと考えています。当然の権利として、沖縄が要求し受け取るべきものであって、その代りに沖縄が本当に望むところを水増ししたり、曲げたり、とり下げたりする性質のものではないと考えています。
沖縄県民の心底の要望は、「太平洋の軍事的要石」 であることではなく、「万国津梁(ばんこくしんりょう)」の名誉ある地位をとりもどすことです。琉球王国の昔、沖縄は、日本、朝鮮、中国、その他東南アジアの国々との貿易国交によって国際平和の橋渡し役をつとめ、繁栄していました。それを「万国津梁」というのです。沖縄はまさにその名誉ある地位を回復することをこそ切望しているのです。武器の代りに三線(さんしん)を身にまとい、「いちやりばちょ−で−(出会ったものはすべて兄弟)」の心根で国づくりをした昔の琉球をいまに再現したい。これこそが、日本史のなかで苦難の歴史を歩まされてきた沖縄の「人間」復権の叫びなのです。