People's Plan Forum Vol.3 No.4 (Sept, 2000)


米軍政下にみる子どもと女性の人権ーー凌辱される生命……安里英子(基地・軍隊を許さない行動する女たちの会)


 復帰後も続く米軍占領

 九五年の米兵による小学生に対するレイプ事件以来、女性たちによる戦後のレイプ事件の掘り起こしがはじめられるようになりました。とりあえずは、これまでの新聞報道や、すでに証言の得られたものを集約したもので、本格的な聞き取り調査によるものではないのですが、それでも戦後のレイプ事件の一端が浮き彫りにされはじめてきたのです。「基地軍隊を許さない行動する女たちの会」による『戦後・米兵による沖縄女性への犯罪』によると、その数は一九四五年から九七年までに、およそ一八〇件。そのうち二〇才に満たない少女たちが二二人もいて、なかには生後九ケ月の乳飲み子まで含まれています。

 しかし、それらは氷山の一角で、軍隊が引き起こした犯罪は、実はまだまだ明るみに出されてはいないのです。沖縄で戦中・戦後おきた女性へのレイプの間遠はまだまだ封印されたままなのです。

 それは、兵士たちによる集団レイプが、沖縄の各地で起こつていたという事実です。戦後、男たちのいなくなったある村では女性たちがことごとく野獣化した兵士たちの犠牲になりました。また、戦時中も戦局が追い詰められた状態になると、アメリカの軍隊そのものが集団で村の女性たちを襲ったといいます。なかには夫の目の前で犯された女性もいます。沖縄の戦中・戦後の状況はだれもが、レイプされる状況であったといえるでしょう。

 米軍による事件・事故は復帰後もこんにちまで五〇〇〇件近くおきています。そしてそれらの事件はすべて一方的に米軍によって処理され、被害者が賠償を求めて提訴した例はほとんどありません。これは、米軍の沖縄支配がいかに沖縄の人権を無視したものであったのかということのあらわれです。提訴しなかったと、というより提訴できない仕組みであったというべきでしょう。

 このように沖縄に軍事基地が依然として存在し続けていることによって、沖縄はいまも戦争状態とみることができます。


  由美子ちゃん事件

 私が七才のころ、当時六才の少女由美子ちゃんが三一歳の米兵によってレイプされ殺害されるという事件がおきました。戦後一〇年を経過した一九五五年九月三日のことです。事件がおきたのは沖縄本島中部にある石川市で、殺害された由美子ちやんは市内の幼稚園に通っていました。その日は夜の入時ごろ一人で映画を観に行ったまま、行方がわからなくなりました。いまから考えると、六才の少女が夜の入時に映画を観にいくなどということは理解しがたいですが、当時の新聞によると、そのころの住宅は台所を別にすると一間か二間しかなく、日が暮れるまで子どもたちは表で遊んでいることが多かったのです。沖縄の夏は八時まで明るいですから。

 石川市はもともと二〇〇〇人ほどの静かな農村でしたが、終戦後は収容所ができ、人口も三万人以上にふくれあがっていました。戦後の行政機構である「沖縄諮詢会」が同地で発足し、戦後の一時期は政治の中心になりました。しかしながら、急速に都市化した石川市周辺の地域は米軍犯罪が絶えなかったのです。

 またこの時期は一方で五一年のサンフランシスコ講和条約以後、米軍による土地接収が暴力的に行われ、それに反対する住民の「島ぐるみの願い」が起こつた時期でもあります。

 しかも、戦後史上大きな事件であったにもかかわらず、まとまった記録もないことから、わずかな知識しかありませんでした。しかし、九五年に沖縄本島中部でおきた、三人の米兵による小学生レイプ事件をきっかけに、私はこれまでに起きた事件をより詳しく知りたいと思うようになったのです。

 「由美子ちゃん事件」の起きた当時の新聞(沖縄タイムス)によると、事件の起きた一九五五年九月三日の翌四日、次のように報じています。

 「嘉手納海岸近くの部隊塵捨て場に身元不明の少女が暴行を受け、殺されているのが発見された。四日朝入時一五分ごろ、嘉手納村旧兼久部落俗称カラシ浜の部隊塵捨場近くの原野で、八才から一〇才位と思われる少女死体が、あお向けになったまま捨てられてあるのを警ら中の米兵二名が発見、MP隊を通じ嘉手納派出所へ届出た。少女は暴行を受けた形跡がありシミーズは左腕のところまで垂れ下がり、口をかみしめたまま死んでいた」。

 また、由美子ちゃんの死体は「まるで鋭利な刃物で下腹部から肛門にかけて切り裂いたようだった」と言われ、きわめて残忍な事件を物語っていました。

 犯人は、事件から一週間後に逮捕されました。「ライカム情報部は九日夜入時、米国民政府新聞課を通じ由美子ちゃん殺し、について次のように最初の公式発表を行い、殺人、強かんおよび少女誘拐の三つの罪名で第三二高射砲隊B中隊アイザツク・J/ハート軍曹に対する起訴状が提出された。軍憲兵隊当局は事件発生以来これまで民警察が発揮した優れた提携と協力に対して高く賞賛している。なお現在ハートに係る軍事裁判については目下、予備審査の措置が講じられている」(五五年九月一〇日・沖縄タイムス)。

 一方、沖縄の各地では次々と怒りの声があがり「子どもを守る大会」が開かれました。この事件をきっかけに結成された「子どもを守る会」では、那覇で緊急会議を開き第二の由美子ちゃんを出さないために運動の方針と目標を協議しました。また地元石川市で開催された住民大会(九月一六日)には、一〇〇〇人が集まり、次のような裁判の公正を訴える声明を発表したのです。「この種の事件は人種国籍の如何を問わずいささかの酌量の余地なく死刑を以て処罰すること。治外法権を撤廃して琉球人に対する外人の部隊外での事件は民裁判で処刑する。公判の際は沖縄側の法務官を立ち会わし然して裁判現場の録音は全住民に放送聴取させること。米国が真に正義、人道、民主の歴史的伝統を誇る国なら、すべからく軍規を粛清し沖縄住民の福祉増進のために駐留するという本義に徹すること」。

 裁判の結果は同年一二月六日に出され、犯人のハートは死刑の宣告が下されたのですが、その後本国送還となり、うやむやにされてしまいました。

 それについて当時の新聞は法曹会や警察にコメントを求めています。ある検事は「われわれがタッチする余地は全然ない。軍法会議の模様を公開したところで、果たしてその判決通り執行されるかどうか知るすべもない。犯人を米国に送還したらおしまいだ」。また、外人事件の処理について、当時の刑事課長は「犯人が米人だと、事件は一さい軍に委ねられる。民としては事件捜査の権限がないので軍の捜査機関に協力するだけだ。例えばCIDには、住民地区の捜査権がないので民警察がそれをするといったようなもの。従来民警察が検挙した外人事件の処理結果は、なんの通知もなく、明らかにされていないが、住民が関心を寄せているこんな軍事事件になると、軍の方で積極的に知らしてくれるのではないか」と述べています。


  あいつぐ米兵による事件・事故

 「由美子ちゃん」事件を詳しく見るために、当時の新聞をめくったのですが、事件の起きた翌四日から一九白までのおよそ二週間の紙面を見て驚きました。由美子ちゃん事件の起きた一週間後に再び、九才の女の子が米兵によってレイプされているのです。当時は毎日のように米兵による事件や事故がおきており、以下に五五年九月四日から一九日の間におきた事件を列記してみます。
・九月六日 北中城村出身の女性F子さん(二〇才)が友人宅からの帰りに、外人が襲いかかり、暴行しようとしたが、通りかかったタクシーの運転手が駆けつけ難を免れた。

・五日昼二時ごろ、羽地村伊差川区の北方の畑の上空を南から北へ飛んで行く米ロケット機から演習用の爆弾が落下、爆発して白い煙をはき、一時大騒ぎとなったが幸い人命に被害はなかった。
・一〇日 宮古島近海に嘉手納航空隊B29が墜落。

・九月一一日 第二の由美子ちゃん事件が起きる。一〇日夜一二時頃、具志川村明道五班農業Aさん(四六才)宅の戸口をこわして開けようとする物音に、Aさんと妻Tさんが気づきAさんが戸を開けると黒人兵がクツのまま座敷に上がり込み女を出せと脅迫、いないと答えたがしつこく迫るので驚いたAさんは長女(一一才)を裏口から逃し、次女B子ちゃん(九才・小学二年生)と長男(六才)次男(四才)の三人を六畳間に寝かせたまま隣人の応援を得るため出たすきにB子ちゃんが拉ちされており、隣人と付近を探したところ、約二〇分後B子ちゃんが下腹部に血をあび泣いて帰って来た。

・黒人兵三名、女子ホームを襲う。一二日午前三時ごろ越来村胡屋区在の女子ホームに三人の黒人兵が侵入しようとしたが、騒がれて逃走した。

・具志川村の前原署内管内で一〇日から一一日にかけて、米兵による強盗や放火など五件が続出した。

・一四日晩一一時ごろ、那覇市ペリー区大川花子さん宅に、二人の黒人兵が侵入、寝ていた花子さんの着衣をめくり、暴行を加えようとするのを夫が発見。止めたところ、首を絞めて顔を殴り、ナイフで右手を刺して逃走した。

・タクシー運転手Aさんは、泡瀬ビーチに通じる道路で黒人兵二人に車を強奪されそうになった。

・一九日真和志市(現那覇市)のYさん方に米兵三人が靴のまま侵入。女を出せと脅し、家族に騒がれて逃走した。最近同一帯ではこうした外人の住居侵入事件が絶えない。

・一九日那覇市内で、ハーバービュウまでの約束で乗せた外人兵三人に首筋にドスをつきつけられて脅かされた。

 このように、アメリカ軍の占領丸出しの沖縄支配は、しかしその後も続き住民や子どもたちの犠牲は絶えることがありませんでした。

 由美子ちやん事件のショックから、まだ癒えぬ石川市で再び大惨事はおきました。


 宮森小学枚ジェット戦闘機墜落事故

 一九五九年六月三〇日午前一〇時三〇分のことです。沖縄本島中部の石川市にある宮森小学校にジェット戦闘機が墜落しました。事故による死者一七人、重軽傷者一二一人、建造物全焼(民家一七棟、公民館一棟、三教室)、半焼(民家八棟、二教室)という大惨事になったのです。当時の教師の証言によると「すべて、アッという間の出来事であった。ガソリンをかぷった子どもたちが、全身火だるまになって水道の蛇口のいたるところで水をかぶりながら、先生たすけて、お父さん、お母さん、戦争だ、戦争だと泣きわめきながら、一二〇〇人余の子どもたちは校庭を駆けめぐり助けを求めていた」と語っています。また「黒煙が石川市上空をおおい街中が焼けるのではないかと市民は半狂乱におちいった。軍民全消防、警察が出動して約二時間後に火災をくい止めた。米軍は事故の完全補償をする旨発表したがその解決は、立法院石川事件対策特別委員会や琉球政府の努力にもかかわらず難航した。(中略)賠償問題の完全解決には事故後三年近くもかかった。児童に対する賠償額は、死亡者が約四五〇〇ドル、重傷者が最低二三〇〇ドルから最高五九〇〇ドルが支払われた」(『石川市制施行五〇周年記念・市制要覧』)との記録もあります。

 同事故についても、まとまった資料はなく、事故の内容を詳しく知るには県立公文書館に収められている、琉球政府時代の当時の記録や議事録のなかから事件の詳細を捜し出すしかありません。少なくとも犠牲になった生徒は私とほぼ同世代であり、今後聞き取りをおこなっていく必要を感じています。


【資料】日米軍事同盟の不平等と暴力の根絶−日米地位協定と米軍のハーグ陸戦法規違反

1 地位協定の動き

(1)九五年沖縄県による「日米地位協定の見直しに関する要請」
・要請内容の要約
「米軍人等による犯罪は、復帰後四七一六件、うち凶悪事件が五〇九件も発生し、県民の基本的人権さえも脅かされている。これらの基地問題の解決促進に資するため、在日米軍基地の法的根拠となっている日米地位協定の問題点について検討、見直しが必要であるとの結論に達した。また九月四日に発生した児童暴行事件を契機に協定を見直すべきとの声が高まり、主要一入団体の呼びかけによって『米軍による少女暴行事件を糾弾し、日米地位協定の見直しを要求する沖縄県民総決起大会』が開催された」。

(2) 二〇〇〇年「日米地位協定の見直しにかんする要請」(案)
・主な要請内容
「米軍施設の環境汚染を想定した立ち入り権の明記や、浄化責任の所在を明確に示す条項を新たに加える。軍人・軍属と県人女性間の子供への養育費支払いの責任。被疑者の身柄引き渡しなど」。
・基地の環境調査および環境浄化についての法的比較
 1 日本の環境関連法
 2 米国の環境政策・・・国家環境政策法(NEPA)=PCB汚染の浄化義務
 3 ドイツにおける基地環境にかかわる政策
  一九五一年 NATO軍地位協定
  一九五九年 ボン補足協定
  一九九三年 ボン補足協定改定

2 米軍によるハーグ陸戦法規違反を裁く

      

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