<非暴力平和隊実現可能性の研究>

第2章 介入における戦略、戦術、および活動

ドナ・ハワード、クリスティーネ・シュバイツアー、カール・スティーレン


2.7 向けられた銃口の前に立って:何時、非暴力が失敗したか

1960年南アフリカのシャープビルで、警察が平和集会における5、000人の非武装の黒人に発砲し、67人のデモ参加者を殺した。1964年ミシシッピーでは、三人の非暴力公民権活動家が白人のクークラクスクランのメンバーと地元警察に殺された。1989年の天安門では、中国人民軍が非暴力抗議者に発砲し、300人から1700人を殺した。1991年、東チモールのディリにあるサンタクルス墓地でインドネシア軍が平和行進に発砲、270名の平和デモ参加者を殺した。
然し、これらの暴力行為は非暴力の失敗を意味するであろうか。シャープビル大虐殺は世界中に報道され、それから33年もの間、自由が訪れたわけではないが、南アフリカを孤立させ、経済制裁を発動をもさせた。ミシシッピーの殺人はアメリカ議会の1965年の投票権法の通過に拍車をかけた。このことがミシシッピーと南部アメリカのどこでもアフリカ系アメリカ人の投票権獲得の助けとなった。中国では、然し、天安門虐殺のあと12年も、学生デモ隊が求めた民主的改革は一つも達成されていない。ディリのサンタクルス墓地虐殺も世界中のニュースとなり、親インドネシア武装組織による多くの市民の死という高い代償を払うこととはなったが、東チモールの独立を導き出すプレッシャーの一部となった。
非暴力的であることは、暴力の犠牲にならないであろうとは必ずしも言えない。そのリスクは全ての非暴力活動家が向き合い、甘受してきたものである。
我々は、非暴力の失敗を非暴力介入者や非暴力活動参加者の死と定義してはおらず、そのような死が非暴力活動を阻止するようなケースを失敗と見做している。

非暴力の失敗はどのように定義されるのか
銃弾の飛び交う中、直接の暴力に直面しての失敗の定義は基本的に下記のようなことを含む。
a) 非暴力活動家の死で、彼らの死が非暴力運動の活動を停止するような場合
b) 抗議者のうち第三者非暴力同行者の死で、彼らの死が非暴力運動の活動を停止する様な場合
c) 闘争を継続している社会運動が非暴力を放棄すること、ないし、敵対する暴力運動によってが非暴力が影響力を失うこと
d) 多様な結果に対処する為の十分に吟味された戦略がなかったために、非暴力介入が尻すぼみに終わること

上記の定義の何れも失敗に正確な評価を与えるものではない。然し、非暴力人権活動家やその同伴者の死を回避し、非暴力運動を非暴力のまま維持していくことは、非暴力平和隊にとって、成功の最低限の定義である。

二種類の非暴力活動
全ての非暴力の失敗のケース・スタディーは以下の二つのいずれかに分類される。
1)非暴力運動
2)第三者非暴力介入

非暴力運動の失敗例
非暴力運動の顕著な失敗例が幾つか存在するが、それらは何れも、非暴力運動の阻止や、非暴力運動の目標達成の失敗に繋がるような参加者の死を伴ったものである。

  1. ホワイトローズ−1943年のナチ政府によるヒトラーへの反対者6人の殺害
  2. シャープビル大量虐殺−1960年の南アフリカ警察による非暴力反抗者67人の殺害
  3. 天安門広場−1989年、北京における中国人民軍による抗議者300人から1700人の殺害
  4. イブラヒム・ルゴヴァ対KLA −1999年のコソボ自由軍による非暴力の敗北
  5. ケベック市−FTAAサミットにおけるグローバリゼーションへの非暴力反対運動が、施設を破壊し、そのため、報復的暴力を喚起した反体制派の行動により支持を喪失したこと。
相当の死にも拘らず成功した非暴力運動
非暴力運動の顕著な成功例も幾つか存在する。それらは何れも、 参加者の死があったものの、その死が非暴力運動を阻止するには至らなかった。
  1. ティモソアラ大量虐殺−非暴力が多くの犠牲を払った勝利−1989年ルーマニアにおいて一週間に97人が、翌週には60人が殺害された。
  2. サンタクルス大量虐殺−多くの犠牲を払った非暴力勝利のもう一つの例:1991年、東チモールのディリにおいて270人のデモ隊が占領インドネシア軍に殺戮された。
白バラ−非暴力の失敗例
1942年6月から1943年2月の間、ミュンヘンをベースとする学生、兵士、と一人の教授の小さな抵抗グループが「白バラ」という名の地下抵抗細胞を動かしていた。彼らは、全ドイツ都市に1000から10000枚の謄写版印刷のビラを撒くことに成功した。このビラはヒトラーと彼の戦争の放棄を呼びかけていた。彼らの五番目のビラに載っていた言葉は、“新しい開放の戦いが始まった。大部分の人が我々サイドで既に戦っている。犯罪者集団などがドイツの勝利をもたらすことはあり得ない。国家社会主義と決別しよう、まだ間に合う。”
彼らの六番目のビラは、最後のビラとなってしまったが、1943年2月にドイツのラジオで報道されたばかりの事実であるスターリングラッドStalingradの戦いでのWehrmachtの敗北のニュースに呼応するものであった。1943年2月18日に、ハンスHansとソフィーショルSophie Schollは、非番の突撃機動隊員(Storm Trooper)であったミュンヘン大学の用務員により、大学の階段にビラを投げているところを見つかった。彼らとその友人であるクリストフChristophは人民法廷で裁かれ、死刑の宣告を受けた。三人を公開の絞首刑執行とすると言う現地の地方長官の計画は、ハインリッヒ・ヒムラー Heinrich Himmlerにより急遽止められた。彼は、ハンザー Hanserによると、殉教者を望まず、そのような行為で世論が自分たちに不利に動くことを恐れた。万一公開処刑が行われており、結果的に公開処刑がドイツ国民をナチ政府への明らかな反対への動きとなっていたなら、彼らの死はこの非暴力行為の成功の先触れとなっていたであろう。然し、ナチ政府は、公開処刑に直面することなく、牢獄の壁の向こうで抗議者をギロチンにかけてしまった。アレックス・シュモレルAlex Schmorellと哲学の教授カート・フバー Kurt Huberは死刑判決を受け、1943年7月13日に処刑された。裁判官ローランド・フレイスラー Roland Freislerの判決文を見れば何を国家社会主義者が恐れていたかが分かる。「アレックス・シュモレル、カート・フバーとウイルヘルム・グラフWilhelm Grafは戦時中に武器産業の操業妨害と国家社会主義的生き方の放棄を煽り立てるビラをつくった。彼らはまた敗北者的思想を広め、(ヒットラー)総統を著しく中傷した。これら全てがドイツ帝国の敵を助け、煽動し、わが国の戦闘能力を蝕んだのである。彼らに、従って、死刑を宣告する。」死刑宣告を受けた6人のうちの最後はWilli Graf(グラフ)であり、彼は1943年10月12日に処刑された。
非暴力運動・白バラは、その指導者(とほとんど全ての同志)の死で中止されたという事実によって、そのメンバーの名誉を傷つけられるものではないが、非暴力が失敗した一例ではある。例えば、何千ものドイツ国民が白バラのメンバーであり、大規模な公然たるデモを行っておれば、それは成功していただろうか?それは誰にも分からない。

シャープビルSharpevilleの虐殺−非暴力の失敗例
南アフリカで、かの有名なトィリーソン裁判Treason Trialが行われている間に、1960年3月21日、アフリカ民族会議(ANC)のライバルである汎アフリカ主義者会議(PAC)が国民に職場からの離脱を勧めた。PACはアフリカ人たちに、警察署に行き「自分たちは通行証を持ってない。これからも所持する心算も無い。どうぞ逮捕して」と言うように勧めた。
メレデスMeredithによれば、「それまで5000人のアフリカ人と300人の警察が対峙していた午後1時15分に、警察構内の門の一つの近くで乱闘が始まった。一人の警官が押し倒された。群集は何が起こったのかを見ようと前面に押し寄せた。警察は、彼らに投石があった、と証言している。発砲せよとの命令は発せられなかった。すぐパニック状態になり、警官は群集に向かって無差別に銃火を浴びせ始めた。群集は退却し、逃亡したが、銃火は続いた。67人のアフリカ人が殺され、1286人が負傷した。殆どの人が背中から撃たれていた。」
シャープビルの虐殺は、もし参加者に訓練と規律があったとすれば、多分防げたかも知れぬ非暴力の失敗の象徴となった。例え、警官達が人数的に圧倒されたり、威圧されていると感じていなかったとしても、警察は発砲していたかどうか、確かではない。この殺戮にも拘らず、非暴力運動は成功の可能性はあったかもしれないが、政府の無情な行動がそれを圧倒した。シャープビルの虐殺に続いて、アフリカ民族会議とその他のグループは禁圧された。1961年12月に、ANCは人種隔離政策の政府に対し武装抵抗を開始する決定をした。1964年、ANCの指導者であったネルソン・マンデラは終身刑を宣告された。
南アフリカにおける非暴力組織の禁圧を含め、政府による野蛮な抑圧の代償は高くつい。1994年まで民主的な選挙は行われなかった。総括して、シャープビルの虐殺は非暴力の失敗を象徴するものである。

天安門広場−非暴力の失敗例
民主主義を求めた学生デモは1989年4月17日、天安門広場で始まった。その日、北京の大学からの学生は直前に死亡した考えを異にする学生に寛容であった共産党の前書記長Hu Yaoban胡曜邦に追悼の花輪を供えるために広場に来た。4月27日までには、100000人以上の学生が400000人の中国市民と一緒になって「学生たちは共同謀議を目論んでいる」との4月26日の人民日報での非難に抗議して広場を行進した。
1989年6月3日、中国人民軍が天安門広場を一掃する折、300から1700人の抗議者が中国人民軍により殺害された。皮肉にも、北京の多くの学生グループは、政府が広場の一掃のために軍隊を行使するとの兆候があったため、6月3日までには去っていた。然し、ハンガーストライキとデモに参加するために中国の他のところから来ていた学生グループは、そのニュースに接していなかった。軍隊が襲ってきたとき、これら北京以外市外からの学生が天安門広場の学生グループの大部分を占めていた。
1989年の天安門広場の大量虐殺から今日(2001年9月)まで、中国では民主主義のための非暴力運動に見るべきものは無かった。1992年に創設され、中国政府からは反抗党派と呼ばれ、信奉者からは瞑想実践集団と呼ばれた法輪功Falun Gong或いはFalun Dafaメンバーの何件かの焼身自殺を含め、ほとんど個人的な、小さな抗議は幾つかあった。天安門広場大量虐殺は、少なくとも12年間、非暴力活動を止めた。

イブラヒム・ルゴヴァIbrahim Rugova対KLA−非暴力の失敗例
コソボのユーゴーソラビア地区のアルバニア少数民族の間のイブラヒム・ルゴヴァを指導者とする強力な非暴力活動がコソボ解放軍(KLA)に敗北し、1999年のコソボ戦争の中で消滅した。アルバニア国籍のコソボ人はユーゴーソラビアの指導者スロヴォダン・ミロシェヴィッチSlobodan Milosovicに放逐され、そして、アメリカ、カナダ、オランダ、スペインからのNATO機がコソボの都市とユーゴースラビアのその他の場所を爆撃した。
逮捕されユーゴーソラビアの刑務所に4日過ごしたコソボへの訪問から帰還したピースワーカーズのデイヴィッド・ハーソーは1998年7月のソノマ郡ピース・プレスでの記事の中でコソボにおける暴力の危険性を警告していた。
“国際社会はなぜ、コソボにおける抑圧を終わらせてくれとのアルバニア人の緊急要請への注意を払うこと留意をこれまで拒否してきたのか。コソボの人は益々武器を取ることを考えつつある。同時に、我々が話をした多くの人たちは、国際社会が、最終的にDaytonで結ばれた国際調停による解決を、戦争の後ではなく、戦争の前に強要するものと期待していた。クリントン大統領は最近のアフリカ旅行の折に、ルワンダの大量虐殺を阻止すべく国際社会が迅速に行動しなかったのは悲劇的なことだと述べた。いまやコソボで行動すべき時ではないか。”
2000年12月のBrandeis大学でのフォーラムで、南アフリカの憲法裁判所の判事であり、コソボに関する独立国際コミッションの議長である、リチャード・ゴールドスタイン判事は、NATOの介入は戦争そのものであると述べた。国際社会が早期の予防に向けた必要なステップを踏まなかった為に、コソボにおける事態はエスカレートした。国際的な支持の欠如がコソボにおける非暴力運動の失敗と、結果的にKLA側の暴力の高まりに道を開いた。
ハワード・クラーク(『コソボの市民抵抗』Civil Resistance in Kosovo , Pluto Press,191−192頁、ロンドン、2000年、266pp、ISBN 0-7453 -1596-0)はコソボにおける非暴力運動の失敗の原因となった二つの大きな要因を明確にしている。
1)非暴力手法が機能するまでの時間:「一般的に市民抵抗は遅効性の戦略となり易い。コソボのアルベニア人は、1989年の「人民の力」事件のイメージと、ユーゴーソラヴィアの4つの共和国が独立を与えられた、そのスピードに惑わされた。」
2)軍事的な選択肢の存在:「コソボの指導者は常に忍耐を勧めたが、この戦略を人々が圧倒的に受け入れたのは西欧の介入の時間枠とその可能性に幻想を持っていたからである。」

ケベック市−非暴力の失敗例
2001年4月20、21日、環境と労働者の保護を含まないグローバリゼーション協定のが計画に反対する大規模な抗議行動があった。アメリカ自由貿易圏協定は、キューバを除く全ての国からの34人の北半球の国家元首によりケベック市で交渉されていた協定である。
2001年4月20−21日に対決は最高潮に達し、その時、市警察、カナダ騎馬警官隊とケベック警視庁は催涙ガス4700発と刺激性噴霧を数千人のデモ隊に発砲した。4月21には30、000人を超す非暴力抗議者が対峙区域から行進して去ったが、2−3000人のデモ隊が警官と対決し、国家元首と官僚とを抗議者から隔離するために設けられた壁の一部を引き倒した。数百のデモ隊は投石をし、警察に火炎瓶が投げられたとの未確認報道もあった。
4月21日の朝、非暴力行進者は対抗のための会議であるピープルズ・サミットでのラリーの為に集まった。メディアと世論に関する諸課題は、デモの日までピープルズ・サミットにより指示されていた。事態が変わったのは、警官に石や火炎瓶を投じる“Black Block"からの黒覆面デモ参加者たちのイメージによってであった。世論は抗議者への味方は 75%から25%と変わった。4月21日のラリーでは、非暴力支援グループの一つであるCouncil of Canadiansの指導者である二人の演説が曖昧なメッセージを出した。Maude BarlowとTony Clarkeの二人は暴力を否定しないデモ参加者を支持しようとして、例の壁が抗議者により引き倒されて然るべきであったかどうかにつき曖昧なメッセージを語った。それから、非暴力行進が始まった時、デモ参加者たちに選択肢が与えられた。左に向きを変え、催涙ガスと暴力の可能性が濃厚な壁の近くの抗議者に合流するか、或いは、工業地区を通り抜けて行進を続けて、工業地区を通り抜けて行進を続け、結局は駐車場で疲れきったデモ参加者となるか、であった。最終的に、非暴力抗議者は自分たちが非暴力に徹しておれば維持できた立場を失った。反資本主義者戦闘集団(Convergeance des Luttes anti-capitalists、CLAC)を含む、少数の小さなグループを否定するのを拒んだことが、その運動に非常に高くつくものとなった。それ以降、自由放任グローバリゼーション主義者と環境と社会的なゴールを推進するデモ隊間の対決はエスカレートしてきた。2001年7月のイタリア、ジェノアでのG8国首脳の会議は更なる抗議者を引きつけ、この時は、警官で満員のジープに消火器を投げつけようと振り上げた一人のデモ参加者が警官に射殺された。投獄されたデモ参加者による拷問と打撲の告発、ジェノア市における警察国家的な手法への告発はこのような対決の危険性を強調するものとなった。デモは、2001年9月のアメリカ、ワシントンDCでの世界銀行/IMF会議、2002年6月のカナダ、アルバタ、カナナスキ公園でのその次のG8サミットでも計画された。

ティモソアラ虐殺−高くついた非暴力の部分的な成功例
1989年12月17日、ルーマニア警備隊が、ティモソアラTimosoaraの町で97人の平和的なデモ参加者を殺害した。彼らは、ニコライ・セウセスクNicolae Ceausescuの共産主義政府によるプロテスタント聖職者の追放に抗議していた。9日後、警備隊と軍隊がティモソアラの100000人の群集に発砲し、160人を殺害した。ルーマニアは、1989年の東ヨーロッパ革命における、唯一の大規模暴力紛争国であった。当初の報道では1000人が殺されたとの事であった。その後、フランスの人道活動省の大臣、バーナード・クシュナーBernard Kouchnerの推計によると、1989年12月26日において、その数は700名であり、半数がブカレストにおいてであった。
その殺戮が起こった主たる理由は、軍がデモ隊の側に立とうとしたのに対し、警備隊員はセウセスクに忠誠であったことで、彼は警備隊をデモ隊に対抗するために使った。警備隊員は発砲して殺戮した。殆どの暴力は1989年のクリスマスの日にセウセスク一家が処刑されて終わった。“当面した問題、―絶望した個人個人の殺人的な鋭い射撃―、は市民抵抗運動がこのケースでは対処しきれない問題であった。”
このケースでは非暴力運動が阻止されることはなかった。セウセスク一家の処刑と警備隊による抗議者やその他の人の死が自由な選挙と民主的政府の樹立を妨げることはなかった。多数の死と、交渉に応じるか、降伏するかの警備隊への説得の失敗が、この勝利を非暴力にとって非常に高くつくものにした。それは人命以上に手痛いものであった。それは、武装勢力の弁護者がこの様な結果をもって、“見ろ、運動が武力を使っていれば、死者の殆どは被迫害者ではなく迫害者となっていたでろうに”と主張するからである。

サンタクルス虐殺−非暴力の手痛い部分的な成功例
1991年11月12日に、インドネシア軍が東チモールのディリの サンタクルス墓地で平和的デモ隊に発砲し、270人を殺害した。サンタクルス墓地虐殺のイメージは、英国人写真家、マックス・スタールMax Stahlがビデオカメラを持って現場にいた為に、世界中に報道された。二人のアメリカ人レポーターがインドネシア軍に打撲された。それはパシフィカ・ラジオからのレポーターであるエーミー・グッドマンAmy Goodmanとザ・ニューヨーカーの記者のアラン・ネイーンデッタAllan Nairndeatta。1992年2月27日の上院外交関係委員会での証言で、ネイーンデッタは、ディリで起こったことを下記のように述べた。
「人々はシュプレヒコールをし、Vサインを出し、お互いに話していた。墓地に到着する頃までには、集団は非常に大きく膨れ上がっていました。多分3000から5000人いたでしょう。あるものはセバスティアノSebastiaoの墓の方に繰り出しましたが、そのほかの多くの人は、路上で墓地の壁に囲まれて、外に留まっていました。その時点で、人々は、立って、お互いに活発に話あっていました。そのとき、出口への道の一つがインドネシア軍のトラックにより封鎖されているのに誰かが気づきました。
「それから、右を見ると、長く、ゆっくりと行進する制服の軍隊の一縦隊が道を此方に向かって来るのが見えました。彼らは濃い茶色の制服を着、統制の良く取れた編隊で移動していました。彼らは行進しながらM-16銃を前に抱えていました。その縦隊は終わりの無いくらい、前進を続ける間、人々は息を飲み、あとずさりを始めました。私はWBAI/パシフィカ・ラジオのエーミー・グッドマンと、兵士とチモール人たちの間の角に向かって行き、そこに立ちました。もし外国人がそこにいるのを見たら、インドネシア軍は行進を中止し、群集に攻撃を加えないだろうと考えたのです。
「しかし、兵士が我々の目の前まで進んで来るのを見守りながら立っていると、信じられないことが起こり始めました。兵士たちは、足並みを崩さずに角を曲がって来、ライフルを上げて、群集に向かって一斉射撃を始めました。チモール人たちは喘ぎながら、逃げようと後退しました。然し、たちまち、彼らは霰のような銃弾によりなぎ倒されました。人々は路上で倒れ、度肝を抜かれ、おののき、血を流していました。インドネシア兵士たちは撃ち続けました。兵士たちが人々の背中を狙って撃っているところや、まだ立っている人を追い詰める為に死体を跳び越えているのを見ました。彼らは女生徒、若者、年寄りのチモール人を殺害し、通りは血で濡れ、死体はいたるところにありました。」
ネイーンデッタは、軍隊地区の司令部の前で、一人の兵士が行軍中に一人のチモール人に刺殺されたとインドネシアがその後主張していると述べた。Nairn曰く、45秒くらい続いた乱闘は見たが、誰も刺殺されたのは見えなかったと。その日、そこにいた西側からのレポーターで刺殺された兵士を見たという報告をした者は一人もいなかった。非暴力抗議へのこの虐殺を受けて世界中のマスコミは然るべき反応を示した。東チモール連帯ネットワークと共に、この残虐行為の報道はやがて東チモールに自由を与えた国際的な圧力を呼ぶこととなった。8年後、1999年8月30日、東チモールの有権者の98%以上が独立の国民投票に投票するために投票場に行った。78%が独立賛成のために投票した。
この抗議は、抗議者の死はあったが、それが起こした国際的な関心と支持のために、非暴力による勝利となった。

第三者非暴力介入の失敗例
第三者非暴力介入が、その運動の中で参加者複数の死を伴うか、ないしは、抗議者の目標の達成に失敗した顕著な失敗例が2、3ある。
  1. ワールド・ピース・ブリゲイド−1960年、北ローデシアにおける行進が脅された後、消滅してしまった。
  2. ミル・サーダ−1993年、ボスニアへの大規模非暴力介入の崩壊
第三者非暴力介入の成功例
第三者非暴力介入が、その運動の中で参加者複数の死を伴うか、ないしは、抗議者の目標を達成に失敗したが、顕著な成功例が2、3ある。
  1. ミシッシッピ・フリーダム・サマー−1960年の市民権活動家3人の殺害
  2. 1980年のエルサルバドルにおけるアメリカの修道女の死

ワールド・ピース・ブリゲイド World Peace Brigade ―非暴力介入の失敗例
1960年代の初期からWPBが消滅していったことが1981年にPBIが作られた理由であった。WPBが活動停止で消滅する前に3つの失敗した或は失敗とも成功ともどちらともいえないような活動があった。最初の活動は、入植者の政権によるアフリカ人の権利の否定に抗議して1962年にタンザニア国境から北ローデシアに向けて行われるべく計画された行進であった。この行進は政治情勢の変化により行われなかった。次のプロジェクトはインド−中国間の国境紛争を沈静化するために1963年インド人のグループによって始められた。
計画されたデリーから北京への行進は中国国境にまで着かなかったし、両国政府からの敵対的な反応を招いた。1981年PBIを作るために集まった人達の結論は小さく始め、あまり目立たないが持続可能なレベルの活動を奨励し、大規模な非暴力介入を組織して最初からすべてを賭けるようなことはしないということであった。

WPBのアフリカでの退潮は、国際情勢の変化と、Roy Welenskyが一方的な独立宣言に対する白人入植者の10パーセント以上の支持を得ることに失敗してDar-es-Salaamからザンビア国境までの非暴力行進がキャンセルされてから始まった。「最悪だったことは、非暴力は話し合いが主であり、政治活動の厳しい現実においては非暴力はほとんど関係がないとのアフリカ人の疑念を証明したことであった。」

二番目のプロジェクトは1962年10月のEverymanV号によるロンドンからレニングラードまでの航海であったが、キューバミサイル危機が勃発した為、彼等はレニングラードでの上陸を拒否された。デビ・プラサードDevi Prasadによると、この航海は「WPBの指導体制や、加入希望者のメーリングリストや事務所さえも」できる前に実施された。

三番目で最後のプロジェクトは、1962年10月インド−中国間の国境での衝突後のデリーから北京までの平和行進であった。この行進は1963年3月1日に始まったが、中国への入国許可が拒絶されて不満な形で終息した−インドの新聞では中国よりであるとの非難もされた。

ミル・サーダ ―非暴力介入の失敗例
国境をまたいだ第三者による最大規模の非暴力介入は1993年に起きた。1992年12月、イタリー、フランス、アメリカ、日本、ドイツ、英国、ベルギー、オランダ、ポーランド、ギリシャ、スウェーデン、ノルウェー、チェコ共和国より2000人から3000人の人達がサラエボへのキャラバンのためにクロアテイアのSplitに集結した。この活動はミル・サーダとも「ピース・ナウ」とも呼ばれていた。

このアピールは壮大な響きであったが、グループが次のような目標をどのようにして達成しようとするのかについての具体的な説明はなかった:
このプロジェクトは二つの団体によって行われた: Beati i costruttori di paceとフランスの人道的団体であるEquilibreである。グループはProzorまで行ったが、その先はクロアテイアとボスニア(“ムスリム”)軍の間で戦闘が行われていた。「我々のキャンプから、手榴弾がボスニア支配地域のGornji Vakauf方向に撃たれているのを近くで見ることができた」とクリスティーネ・シュバイツアーは書いている、「この戦闘で活動の指導者達はサラエボ行きを当初は疑問に思い、その後キャンセルした。」

シュバイツアーは、彼女の分析の中で、プロジェクトの失敗の理由を次のようにリストアップしている:

ミシッシッピ・フリーダム・サマー … 非暴力介入の成功例
1964年、学生非暴力調整委員会(SNCC)はミシシッピーの黒人が投票の為の登録を手助けするためのために数百人の北部の白人の青年を動員するプロジェクト、ミシッシッピ・フリーダム・サマーの立ち上げを手伝った。ーその時までは、これはミシシッピーの黒人を危険にさらす活動であった。

1964年6月21日、当日の朝逮捕されていた三人のミシッシッピ・フリーダム・サマーの活動家は夜になって釈放された。彼らは一団のク・クラックス・クランのメンバーとCecil Price副保安官に追跡され捕らえられ射殺され、死体は、陰謀者の一人の所有地にあるダムに埋められた。

公民権活動家の理論は大規模な投票権登録運動は成功する可能性があり、外部のプレゼンスは、さもなければ加えられるであろう地域の黒人に対する暴力を抑止するとの考えであった。彼等の理論は間違っていた。北部の白人“外部の扇動者”は南部の白人から嫌悪されていた。そして、北部の白人がユダヤ人なら憎悪は倍増した。即ち、それはミシッシッピ・フリーダム・サマーの一環としてのミシシッピー州Meridianのコミュニティー・センター設立に助力したニューヨークのユダヤ人社会福祉活動家Michael Schwenerに起因したものであった。Schwenerを何も妨げを受けず活動を続けさせることは地域の白人人種差別者達にとって想像すらできない降伏を意味した。殺人がクランのリーダーによって命令されたとの証拠があった。「(クー・クラックス・クランの)白い騎士の帝国魔術師Sam Bowersが北部白人の公民権活動家に南部のことには口出しするなと言うメッセージを送る為にSchernerの‘抹殺’を承認した」。Bowersはこのケースでは罪に問われなかったが、1998年一人殺害された1966年の爆破を計画した罪で終身刑を言い渡された。

エルサルバドルにおけるアメリカ人修道女の死―非暴力介入の成功例
1980年12月2日、三人の修道女、Ita Ford, Maura Clarke, Dorothy Kazel と Jean Donovan と言う一人の修道院の信徒が国際空港からサンサルバドルに行く途上で殺害された。彼女達の死体は1980年12月3日ラパスのSantiago Nonualcoで発見された。彼女達の殺害はオスカー・ロメロ大司教が同年3月24日ミサの最中に背中を打たれて殺害されたのに続くものであった。修道女たちの殺害に対しては5人の国家保安部隊の要員が有罪とされたが、これは人権侵害に対するサルバドール国軍要員に対して明らかとなった始めての有罪判決である。不幸にして上層部の関与については調査されなかった。1989年、6人のイエスズ会の神父がサンサルバドルの中米大学でサルバドル軍の兵士によって殺害された。199_年2名のサルバドル軍仕官、Benavides大佐とMendoza中尉がイエスズ会の殺人で有罪となった。

修道女がアメリカ人であることは彼女達を保護するに十分ではなかった。Americas Watchによるとエルサルバドルで1972年から1991年の間に23人の神父、修道女、宣教師が殺害或は行方不明になっていた。4人のアメリカ人の比率は18%であった。宣教師への憎しみ、特にカトリックの神父への憎しみは中米においては殺人部隊によって助成された。グアテマラでは一時期「国家の革新―神父を殺せ」とのスローガンが壁に貼られていた。

殺害は非暴力への変換の為に働いている人々を止めることはなかった。1992年のサルバドール政府とFMLN(武装反乱グループ)の間の平和協定はエルサルバドルのゲリラ戦を正式に終結させ、FMLNは政治集団に変更され、エルサルバドルで二番目に大きな政治団体となった。(出典:http://www.pbs.org/enemiesofwar/timeline2.html

アメリカ女性議員の談判
1986年6月26日 Doonesbury comic strip by Gary Trudeau
1986年 Universal Press Syndicate
漫画の内容:アメリカ下院の女性議員 Lacey Davenport が反政府軍司令官と談判、司令官は最初 Laceyが修道女であり殺して良いと思った。しかし、アメリカの議員は殺してはいけない!


エルサルバドルの人々を支援する為無防備で出かけていった教会に奉仕する女性の勇敢さは他の人々の参考となった。彼女達の殺害は世界的な関心を呼び彼女達の殉教は非暴力の失敗と言うよりむしろ成功である。

結論
非暴力の失敗が抗議者や同行者の死や負傷をもたらした時、二つの重要な設問がある:
1)武装犯罪者が発砲する際の交戦のルールがあったのか?もしそうなら、どのようなルールであったのか?
2)意図的に或は意図的でなく、暴力の犯罪者にパニックがあったか或は抗議者による挑発があったか?

上記のケースでは、非暴力の訓練と行き届いた行動が暴力を防ぎえた事態があったのではないか。シャープビル虐殺の前、300人の警官は5、000人の抗議者に囲まれて恐怖を感じた。一つの掴み合いが、群衆を更に前に押し上げて、警察が指示なしに打ち始めを引き起こすに十分であった。

白バラ、米国修道女の殺害、サンタクルス虐殺やティモソアラ殺戮のケースでは、非暴力訓練は殺戮を防ぐことはできなかったであろう。彼等の交戦のルールが殺人であったので、たとえデモや抗議者が100パーセント非暴力行動を取ったとしても犯罪者達に殺害をやめさせることはできなかったであろう。サンタクルス殺戮では、アラン・ネイーンデッタは「アメリカ、アメリカ」と叫び、エーミー・グッドマンは彼女のパスポートを見せた。この二つの行動が二人のジャーナリストの命を救ったかもしれない。しかし西欧のジャーナリストのプレゼンスはインドネシア軍が群集に発砲するのを防ぐことはできなかった。

第三者に非暴力介入については、より優れた訓練と組織がWPBを支えたであろうし、ミル・サーダを成功に導いたかもしれない。もし組織団体が他の証人達―多分一団の大人数の監視員のプレゼンスとかーを擁していれば、米国修道女や三人の公民権活動家の殺害が防げたかもしれない。

その様なアクションが十分手助けにはなっていただろう。しかし最終的には、正しいことを言い、最善の行動を取れば常に暴力が防げるとの保証はない。

このことがNPに意味するものは

1)如何なる非暴力介入の前にも、武装勢力の交戦のルールが、国際的な反対があっても殺害を行う可能性があるかどうかについての十分な評価がなされねばならない。もしルールが非暴力の状況下でも殺害を承認するのであれば、介入者―危険地域にいる人達やグループの指導者達―が殺されるリスクをとる用意があるか、或は殺されるリスクをとることにより最初のグループが殺戮された後に更なる介入者を送り込む用意がなければ、殺害を阻止するする目的で非暴力を用いることはその目的を達し得ない。

2)NPの介入が機能するには、非暴力行動について現地のグループによる十分な訓練が必要である。群衆による軍や警察や民兵に送る誤ったシグナルは銃を持った人達をパニックに落としいれ発砲を誘発する。

3)非暴力を成功させるにはNPチームの個々のメンバーが注意深く選抜されねばならないし、単に武器を持たないボデイガードをはるかに越えた訓練を受ける必要がある。エルサルバドルでのKaren Riddの経験や武装警官が人権グループを襲ってパスポートや携帯電話を要求したコロンビアにおけるPBIチームの経験は、十分なスキル、説得力を備えた訓練の行き届いたチームメンバーが後退を防ぎ、殺人さえも阻止する為に必要であることを明確に示したケースである。


<前へ>   <次へ>


<目次に戻る>