<非暴力平和隊実現可能性の研究>
クリスティーネ・シュバイツアー
1.2 紛争介入が正当化されるのはいつか?
1.2.1 はじめに
紛争介入が正当であるか否かという問題は、この10年以上にわたってかなり徹底的に論議されて来た。 しかしこの論議はいつも、介入の普遍的正義の問題と、武力行使の正当化の問題を一緒くたにしている。どのような論議 においても、破壊的な武力行使は特別に扱うのが当然だ、ということは否定せずに、やはり、介入の正当化の問題をもっと一般的に持ち出すことが必要である。 他者の紛争に自分自身を関与させなければならないどのような権利を持っているのだろうか? この問題に対しては二つのアプローチがある。一つは国際法に関する法的なもので、もう一つは、純粋に倫理的で政治的性質を持ついろいろな問題に関連する倫理的なものである。
1.2.2 介入と国際法
国際法、特に第二次世界大戦後に発展して来た国際法として、国連憲章ならびにその 後に起草され批准された各種条約の中で成文化されている国際法は、主として国家間の関係に関わっている。紛争介入に関する文脈の中で重要なことは、すべての国家の主権をなおも是認する原理であり、その結果として他国の内政には介入しないというルール(国連憲章第1章、第2/7条)である。 国際関係の中で、ある国家を正当な人格であると考えて、1個の関係者として見ることは、国際関係の昔からの伝統であり、しばしば16世紀のジーン・ボーディンとアルベリコ・ジェンティリにまで遡り、「30年戦争」(訳注:1618年〜1648年)を終わらせたウェストファリア講和条約の時代から慣行の中に入れられている。 第二次世界大戦後の時代に対する新しい国際法は、戦争の全面的禁止(国連憲章第1章、第2/4条)、ならびに、紛争解決のための平和な手順の規定(国連憲章 第6章)である。 この禁止には、広く受け入れられている次の2項目の例外がある。
- 武力攻撃に対する自衛は、国連が措置を講ずるまでの間は許容されていると見なされる(国連憲章第51条)
- 国際平和あるいは国際的安全保障に対する脅威が存在するならば、国連安全保障理事会は、武力行使を含め「必要とされるあらゆる手段」の行使を決定することができる(国連憲章第7章、特に第39条と第42条)。国連安全保障理事会は、その決定の履行を、1994年のルワンダの事例でやったようにいくつかの加盟国(フランスおよびアメリカ)に、あるいは (1992-5年のボスニアや1999年のユーゴスラビアでのNATOのような) 軍事同盟に、委任することができる(第48条)。もしくは(1993年のソマリアのように)国連主導の派遣団により実施された決定を受け入れることができる。
国連が、関与している加盟国の意志に反する決定を強制する、さらに国際法違反を追求する、という可能性は限定されている。 もし外交交渉が失敗したならば、安全保障理事会の常任理事国5カ国が同意するならば、その手段は、制裁、介入作戦(通常は強力な軍隊)の開始である。そして将来的にうまく行けば、ユーゴスラビアとルワンダでの二つの戦争犯罪裁判所をモデルとして計画されている戦争犯罪法廷なのだが、これはまだ必要な数の国の批准を得ていない。国連は自前の警察を持っていないので、戦争犯罪人を逮捕するのが民事警察であれ、紛争に介入する軍隊であれ、その手段の提供を加盟国に依存している。
1989年のワルシャワ条約体制崩壊後、それまで凍結していた国際関係の中に新しい力学が入って来た。 国際法と国際政治のいわゆる現実主義派と呼ばれる一派(国家の主権こそ国際平和の最善の保証である、と強調する)は、国連の専制的武力による世界統治を目指す理想主義派と呼ばれる一派に敗北した。 国連安全保障理事会のいくつかの決定、特に1991年5月4日からの北部イラクに関する決議687と688およびソマリア に関する1992年3月12日からの決議 794は、国連が明らかに不干渉ルールを乗り越えようとしている例であると考えられる。一般的に目新しいのは、最近では冷戦の時代よりは安全保障理事会での拒否権行使が控えめになっていることにより、1989年以前には通常やることができなかったやり方で、1989以降国連が内戦に関与するようになって来たことである。最近の決議(1296/2000)の中で、安全保障理事会は、武力紛争において民間人を標的とすること、および戦争によって影響を受けている民間人に対する人道主義に基づく立ち入りを拒否することは、国際的平和と安全保障に対する威嚇であり、 安全保障活動理事会Security Action Councilに対する引き金となり得ることを確立した。
この 文脈の中でもう一つの重要な展開は、多くの問題、特に環境的な問題は、地球規模でのみ解決できるという認識が広がっていることである。リオや北京での国際会議において、あるいはそれらに関連して作られた国際環境保護法およびこの分野や他の分野での国際合意の形成は、責任のあるグローバリゼィションを求める前進的な兆候であると、時には見られている。
しかしながら、国際法の支配を強めようとするこの風潮は、国連とその安全保障理事会が、ともかくも国際的な平和への脅威を立証できる唯一の機関であるとして重視することに対する反対運動に直面しているように思われる。1999年4月24日に採択された新しいNATO同盟の戦略構想は、それほどあからさまではないけれども、「最近の現実的な変化を統合し、保持する中で、あるいは現在の、そして、今後の安全保障への挑戦に対処する中で、不可欠な役割」を果たさなければならないと主張しながら、もし可能であれば国連安全保障理事会とともに、そして、もし必要とあれば国連安全保障理事会とは無関係に、行動できるようにNATOに要求しているものと解釈することもできる。国連からの委譲がなかった1999年冬から春にかけてのユーゴスラビアへのNATOの攻撃は、いわゆる「新世界秩序」と呼ばれるものの最初の例であり、何人かのオブザーバーは、強力な国家が戦争を始める時に自分たちで決めていた国際連盟条約以前への逆戻りである、と見なした行動である。
紛争介入に対する重要な国際法の二つ目の重要な側面は、「世界人権宣言」そしてさらに「経済的、社会的および文化的権利に関する国際規約」および「市民的および政治的権利に関する国際規約」(両方とも1966年から)、ならびにその後の諸宣言の中で公式化されたような、人権の定義である。これまで考えられて来た規則とは違って、人権は、個人が自分たち自身の国家に対抗する権利である。上述の規約の前文の中には、すべての個人が権利を持っているばかりでなく、人権の推進を確実にする責任も持っていることを明確に謳っている。 この権利と責任は、その個人自身の国内での活動だけに限定されるものではない。人権を守るためにどこにでも介入するというある種の権利は、この責任から導き出されたものであろう。もちろん、この解釈はこれまで世界のほとんどの政府に受け入れられるものではなかったし、この解釈を法的に主張する途もまだない。実際的な状況において、国外で人権問題にかかわっている人権活動家たちは、彼らが活動している国の法律による保護に加えて、国際的な圧力を喚起する手段を持っていることならびに自分たちの国の大使館からの支援に依存している。1998年に国連の 人権問題理事会は、人権擁護者の保護に関する宣言の草稿を提出した。その草稿は一国の、あるいは国際的な枠組みにおける人権の保護ならびにその実現のために、いかなる個人も単独で、あるいは他と共同して活動する権利を主張している。もしこの宣言が通過して批准されたならば、国際的な活動に関して個人とNGOに対しかなりやりやすい立場をもたらすことであろう。
第三の要素として、国際人道法は、戦争中の非戦闘員の保護の基準となるものとして挙げられる必要がある。国際赤十字委員会(ICRC)および赤新月協会の活動は、ここで特に言及する価値がある。何故ならば、ICRCは戦争地帯において活動する権利についてはNGOよりも公式な組織としてなぞらえられる地位を持っているからである。
要するに、紛争当事者のすべて、または片側の意志に反して、国家あるいは国際的政府組織によって実行されるいかなる紛争介入も、国連憲章によって厳しく制限されている。国連安全保障理事会の決定の執行は、国際的な平和と安全保障が脅威にさらされている場合に限って認められる。これは、いくつかの解釈に対して最近明らかにされたルールである。この条項は、非武装の介入団体に対しても、軍隊に対しても等しく有効である。
これらの条項は、NGO介入には有効ではない。国際法を破ることなく、いつでも望む時に介入して差し支えない。一方、NGOは本質的に国際法によって保護されていないので、彼らが活動しようとする国の政府が受け入れるかどうかにかかっている。
1.2.3 倫理的側面
倫理的な問題は、政治問題から切り離せないので、国際法の問題よりさらに複雑である。 私は五つの主張の流れを区別したい。キリスト教徒の「義にかなった戦争」という原理に由来する主張、メアリ・アンダーソンのプロジェクトが、その活動の核心においている「少なくとも有害なことをしない」という主張、覇権主義と新植民地主義(誰の利益? 誰の価値観?)を巡る政治的主張、主義に基いている非暴力の理論家と実務家により提案されている倫理的な意見、そして最後になるが決して忘れてならないのは、世界中の市民社会の活動家たちによって守られたような連帯の中で行動しようとする慣習的権利の五つである。これらの流れの大部分は、その介入が許される条件(あったとしても)の基本的な問題を、どのようにして、という問題とともに結びつけている。事実上、1番目は2番目(義にかなった戦争を教える時のように)に依存しているように見えることが多いので、これらの二つを切り離すのは極めて難しい。
ある戦争が「義にかなった戦争」であると見なされるために満たされるべき条件を明らかにしている「義にかなった戦争(bellum iustum)」の原理は、戦争を制限するためではなく、むしろ戦争を正当化するために用いられて来た、としばしば指摘されて来た。そればかりでなく、核兵器による相互破壊が確実な現代にあっては時代遅れだ、と言われているにもかかわらず、「義にかなった戦争」の評価基準が今もなお脈々と生きていることは明らかだ。政治家や哲学者あるいは政治学者たちが、戦争と人道的介入について議論する時、繰り返し繰り返しこれに言及しているばかりでなく、平和主義者の多くもまた、「他のすべての手段が試されてはいない」/「軍事的介入への代替策があっただろう」(最後の手段の原理)、「お前は自分の領分のためだけに戦っているだけだ」(大義名分の原理)、あるいは「お前が犯した残虐行為、いかにお前が紛争を激化させたか、そして良いことを何もしなかったか、を見よ」(義にかなった手段の原理)というような基準に言及している。
イギリス人の政治学者のリューワーおよびラムズボタムは、「義にかなった戦争」の条件と人道援助組織によって展開されたいくつかの行動規範の両方から得られた人道介入についての10項目の原理の枠組みを提案している。 これらの原理は、軍事的介入と非軍事的介入のどちらにも等しく有効である、と彼らは言明している。
- 「最低限の人道主義的基準の原則」(正当な理由)
「人権に対する容認できない否定あるいは侵害が、実際に、あるいは脅しとして存在するところでは、国際社会は、その原因を取り除くことを試みる義務を有し、介入する明白な権利を有する。ただし原則-9に記述された条件にしたがうこと。」
- 住民繁栄の原則 (正当な結果)
「そのような介入の目的は、影響を受ける地域全域での持続的な住民の繁栄を公平に促進するべきである。」
- 「適切な手段の原則」
「用いられる手段は適切であるべし、すなわち、a)必要であってb)十分でありc)釣り合っていてd)合理的であるべし」
- 地元で可能な原則
「介入は、その地域の中で理解され、受け入れられる条件で実施され、かつ、地元で紛争を解決して、平和を構築するために活動している人々を力づけ支持するようなやり方で実施されるべきである」
- 言行一致の原則
「介入は、いろいろな紛争の状況にわたって首尾一貫しているべきである。また、関連性のある経験は一本化して伝達するべし」
- 反省の原則
「介入者の動機と以前のふるまいは、明言されている介入目的と矛盾していてはならない」
- 相互補完性の原則
「介入者の行動は相互に補完的であるべし」
- 説明責任の原則
「介入者は、彼らの介入する権限の由来が国際社会なのであるから、彼らの介入について国際社会に対して説明責任を持つべし」
- 不測の事態と漸次的対応の原則
「できるならば、介入は予防的であり、非暴力的であって、すべての当事者の合意を得るべきである。しかし、これが不可能ならば、結果に対する先入観を持つことなく、追加される評価基準は、適切な意志決定時点において適切なものであるべし」
- 普遍性の原則
「正当な人道介入を管理する原則は、国際社会によって保証されるべし」
出発点において介入する権利についての疑問を持っていたので、これらの評価基準には、介入が合法的であるためにはどのように実行すべきなのかについて提案されたルールを含んでいる。 この「どのように」については、多くの行動指針およびNGOの介入に関する他の出版物の中で見つけられるだろう。特に、「招聘によってのみ活動に入る」という原則、「最初は地元の活動家に委ねる」という原則、「国際的な人権の原則によって導かれる」という原則が、現今の紛争に介入するコミュニティの合意点であると考えられているのであろう。紛争に関わっている人々だけが紛争を解決することができるのだ、そして国際的介入の役割は、この解決策を見つけようとしている地元の活動家たちを支援することなのだ、という事実の認識が広がっている。
これらの指針を比較する中で、さらに控えめなのは、リューワー/ラムズボタム他によって提案されているように、平和プロジェクトの提案に対するメアリ・アンダーソンの「地元の能力」による「害を加えないアプローチ」をおこなうことである。 彼女が、人道援助と発展援助のために概説したことは、一般的な紛争介入に直接移しかえることができるであろう。アンダーソンは、最低限の目標は医師の誓約「まず無害なことをやれ」であるべし、と主張する。そのようなプロジェクトが加えるかもしれない害がどの程度かについての事実(アンダーソンのプロジェクトによって委任されたケーススタディは十分な例を与えてくれる)があるので、このルールは軽々しく捉えるべきではない。「まったく害を及ぼさない」ということはそれほど簡単なことではないことがしばしばである、そして、肯定的な結果と意図されている効果について話すことはさらに容易ではない。
その一方で、人道的行動を究極的に合法化するものとして「ドゥロワ・ダンジャンス(Droit d'ingerence,介入権)」と呼ばれて来たものがある。「人道的行動は、普遍的な定義によるものである。人道的責任には国境はない。世界中のどこであれ、貧苦のあることが明らかであれば、人道主義者は使命感によって対応しなければならない。」というものである。この「介入する義務」が倫理であると考えられる、そして、その倫理が、たとえば、少なくとも「国境なき医師団」の目には、必要あれば、中立性を放棄するという帰結となる。
紛争介入の合法性を巡る議論の四番目の路線は、介入者が関わることのある政治的利害関係に集中する。そこには、平和植民地主義という言葉と、私たち(西側/北側)の社会の中に横たわっている本当の紛争原因を扱おうとしないことに対する非難がある。非暴力介入の支持者は、その本当の紛争原因に対峙しようとしていることに気づいている。とりわけ、反帝国主義者の解説者や活動家は、最初に彼らに干渉した人々が、戦争での介入をほとんど引き起こしている、と主張している。したがって、そのような戦争に反対する合法的活動は、むしろ北側諸国の主導権の中でおこなわれるべきであり、政府側と国際的ビジネスに反対することを目標にするべきである。
非暴力介入の大部分が、莫大な国際的宣伝と利害関係の設定の中でおこなわれたことは事実である。統計がないので、不確かな想定に止まらざるを得ないのだが、紛争介入のNGOプロジェクトと、国際メディアの中で、さらに政府筋/国際社会のレベルにおいて、紛争が注目されている度合いとの間には直接の関係がある。しかしもしあなたが、ユーゴスラビアのような事例と、リベリアかコンゴの事例をくらべて、一つは広く注目を集め、もう一つは地域的な限られた注目しか集めていないことを見れば、この関係がわかるだろう。 何故に、ある事例が公式の注目をより多く集めるのかという理由は、マスメディアの影響はもちろんだが、これと共に政治的利害関係も同じくらい多く持っている。 非暴力の紛争介入者が同じやり方を優先する限り、真剣な分析ではなく、マスメディアによって導かれているのではないか、という非難に身をさらすことになる。
その一方で、非暴力介入者には、いつ介入するかの決定をすることを考慮しなければならない、という政治上の目標がある。私は、軍事的な介入軍との共同作戦なのか、軍隊とは協力しないのか、という問題のことを言っている。これは複合的平和作戦(第2.5章参照)と呼ばれることになる作戦の中に包含されているNGOの大部分にとっては問題ではないが、明解な非暴力のアプローチを用いるグループや組織にとっては問題である。あらゆる武力の行使を拒絶し、戦争と軍隊を撤廃することを目標としている人々にとって、軍事的平和維持軍と共に手を携えて活動する、彼らの保護を受け入れる、戦後の再建課題に参加する、ということは倫理的ジレンマをもたらすことになるだろう。そこには三つの見方がある。一つはそのような作戦の市民側の役割を強化して行くことが、究極的に軍隊をまったく不要にすることにつながるかも知れない、という見方であり、二つ目は、共同作戦は軍隊と武力行使を正当であると認めるものだ、したがって避けなければならない、という見方である。ドイツの市民平和サービス・フォーラムは、この論議の中の3番目の立場をとっている。それは、市民平和サービス・フォーラムを軍隊と比較することを明確に拒否している。何故ならば、彼らの目には市民による紛争解決はもう一つ別な論理にしたがっており、軍事作戦とくらべることはできないからである。軍事介入とのいかなる比較も軍隊が正当であるという見方に通じるだけである。
紛争介入についての倫理的な含意を討論している時に考察すべき五番目の要素は、ガンディー主義者が言わなければならないことである。 国際的(軍事的)介入に関する論議はしばしば「我々は何かをしなければならない」という路線と、全体に対する責任を引き受けずに、自分の手を汚したくない、ということだけに関心を持ち「何もしない」ことを選択する平和主義者に向けての非難の路線に沿っておこなわれた。ガンジーとその信奉者たちからの回答はいつも、非暴力は、暴力と「何もしない」ことの選択を超越した第三の道なのだ、というものだった。これは行動の、そしてそれ故に非暴力介入の、倫理的正当化以外の何ものでもない。それにもかかわらずそこには、特にガンディー主義者の側から、「介入主義」に対する強い批判があった。 ウェーバーは「軍隊を維持している国の市民には、他の国においてサチャグラハ運動をおこなういかなる権利もない」と信じているブノバ・ブハベについて言及している。これは極端な声明ではあるが、私の目には、これは不適切であるとして退けるべき見解ではない、と考えられる。 NGOが、彼らのもっとも身近にあって、影響を及ぼせる可能性がもっとも大きい問題について取り組まずに、むしろ自分の国から遠く離れた国の問題に集中する時、そこには少なくとも信頼性の問題が衆目にさらされる。
この議論における六番目の最後の点として、私はこの報告書の中でしばしば参照して来たある事柄について言及したい。私の知識ではこれ以上の理論的作業に立ち入ることはできなかったのだが、それは私が、世界中の市民社会の活動家たちによって守られている連帯の中で行動する慣習的権利と呼ぶことにしたいものである。例を挙げれば、戦争反対者インターナショナル(WRI)の3年次総会の論議の中で、この8〜9年間以上にわたっておこなって来た紛争介入に関する論議の中で、介入はしばしば連帯と対比された。その議論はこのように進められた。非暴力活動家の役割は、他の場所で同じ目標を持っているグループや個人を支援することであり、公正と平和のために共に闘うことであろう。同じではないにしても、似たような言葉遣いの中で、これらは世界中のほとんどの活動家のネットワークの目的である。または、言い換えれば、何かをやろうとするための基本的な合法性として求められているものだ。同じ目的のために国境を越えて共に活動しようとする市民たちの権利は、しばしば彼らの政府がそのような活動をすることを望んでいないのにもかかわらず、活動家たち自身によって問われることはほとんどなかった。しかしこの権利は、国際的な真の民主主義の基礎的な原則の一つであると言って差し支えない。
紛争介入の倫理的合法性という条項の中で、これらのいろいろな議論が私たちに任せるのはどの点か? 明確にされた第一の事柄は、そこには簡単ですぐに使える処方箋はない、ということだと私は考える。何故ならば、先に概説したいくつかの考え方はお互いに調和しているが、調和していないものもあるからだ。いくつかの一致点を持つ考え方から始めること。最低限度として、危害を加えない、という規則がある。次にそこには、介入が適切であるかどうかを決定するために満たされなければならないかもしれないいろいろな評価基準がある。リューワー/ラムボサムはこれらの評価基準を介入権の原則に基づく10原則の中に表現しようと試みた。
人道組織や紛争解決組織によって展開されたいくつかの行動規範がやったように、これらの原則のいくつかが、介入の方法についての評価基準を明確にしている。非暴力の活動家によって企てられた介入が、紛争の中で彼らの国(国々)が持っている政治的な、戦略的な、あるいは経済的な確定権益を事実上支援することになるかも知れない、という政治的問題は、正当な原因と結果という原則の労作として見られることであろう。
しかしながら、上述の最後の二点は、むしろこの絵の内面に隠れている刺だ。どこかで活動する権利を持つことについてのビノバ・バベの声明ばかりでなく、連帯して活動するという問題もまた、一般的な評価基準の枠組みの中ではで容易には扱われていない。これらのいろいろな議論を評価した結果は、調査研究の及ぶところではない。共通の価値観を共有できる人たちだけが、倫理的声明のいずれにも合意することができるであろう。確かに、求められていたのは介入に対する必要条件であって、十分条件ではなかった、と考えられるべきである。何故ならば、世界のいかなる国においても市民社会(および国家)の活動家たちの多様な利害関係があるので、あなたを招聘するだれかを見つけるのは通常簡単だからである。しかし、それだけでは、その介入が有害であったり、不正であったり、まったく無用であったりするかもしれないことを排除してはいない。
<前へ> <次へ>
<目次に戻る>