のじれん・通信「ピカピカのうち」
 

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越年大阪・名古屋派遣団報告(承前)


黒田大介

 白川大通りは、戦後、焼け野原となった名古屋の復興の際、約一〇〇メートル 幅の市内を貫く大通りとなったとのこと(戦前は軍用道路だったらしい)。この 大通りの上に高速道路が走っている。高架下が広広としており、遊歩道やスケー トボート場、子供の遊び場などに利用されている。

 九七―九八年の白川大通り冒険砦の強制排除によって立ち退かされた仲間たち は、その後もこの高架下に、追い散らされることなく、それこそ立派な小屋を建 て、日々暮らしている。 

 冒険砦とは、高架下に作られた、木組の巨大なジャングルジムのようなもので ある。この冒険砦の下でダンボールやブルーシートで囲った小屋に野宿の仲間が 数十人暮らしていた。話合い拒否、問答無用の名古屋市は、ついに、行政代執行 法と言うなたを振り下ろし、マスコミ注目の中、警察を大動員して、仲間を排除 し、冒険砦を取り壊した。 

 強制排除に抗して、最後まで名古屋市の暴挙と厳しく対決した仲間たちは、す ぐ隣の高架下の広場に立派な小屋を建て、自治会を作り、仲間のコミュニティー を形成している。われわれが訪れた時ちょうど、冒険砦の闘いでの中心でもあ り、自治会の長でもある仲間がいたので案内してもらった。 

 高架下広場の左右に等間隔で整然と小屋が建てられている。廃材や、コンパネ などでがっちりと作られていて、押してもびくともしない頑丈さである。扉や窓 もあり、広さも三畳分くらいありそうで、中に入れてもらったら、寝床だけでな く、コンロやまな板などの炊事器具が整頓され、本棚、ロッカーなどが置かれ て、先にも述べたバッテリーを利用した室内灯が配備されているという有様だっ た。  

 転ばされてもただでは起きないという気迫がそこにはある。これはまさに「野 宿の達人」と言える。加えて、住居以外にこのコミュニティーには集会室という 別の小屋が建てられていて、そこでは定期的にミーティングが行われるとのこ と。集会室の前には、野宿労働者の団結と名古屋市を糾す旨の仲間の達筆な弾幕 が張られ、支援団体のビラや、関連新聞記事などが掲示板に張り出されている。 われわれの驚きも何倍で、派遣団一同感心しきりであった。 

 何といっても驚いたのはBSアンテナが建てられていることだった。地上波より 衛生放送の方が映りがいいのであろう。テレビは、バッテリーを何倍も食うか ら、バッテリー単体ではなく、並列につないで、効率よく消費する工夫もしてあ る。こうすることで、残量もまちまちなバッテリーを最後まで使いきることがで きるのだ。まったく恐れいった。  

 行政がダメで反動的な分、仲間がたくましく野宿生活をしている様に、行政に 頼らない民衆の底力を感じさせられた。この生き抜く力こそが、現状のシステム をも打ち破る力なのではないかと考えさせられた。  

 白川公園大通りを後にして、名古屋・大阪・渋谷の仲間で風呂屋に行った。裸 の付き合いをして、越冬越年の疲れと汚れを洗い流し、越年拠点のオケラ公園へ と戻った。ちょうど炊出し時で、腹ごしらえの後、夜回り(パトロール)に参加 した。  

 コースは車も使っての八コース。参加人数五〇名前後という規模であった。駅 回りコースを回ったら、やはり、厳しい状況の仲間が駅周辺で多数野宿してい た。八〇歳くらいの仲間が、毛布一枚で野宿していた。お茶を出して話してみ た。足が痛くてあまり歩けないとのこと。オケラ公園の医療用テントで寝ない か、と言ってみたが、気乗りしない様子。明日の元旦モチつきにおいでと言った ら来るとのこと。話しが戦争の話になった。なんでも東条英機の戦陣訓で「天皇 陛下のために死んで来い」と言われ、戦地に行ったとのこと。初めての戦場がノ モンハンで、こっぴどくソ連軍に負けた話しを聞いた。映画「戦争と人間」第三 部にそのシーンが出てくるが、まさに映画のような話しだった。熱くなった戦車 のエンジンに火炎瓶を何本も投げたけど、一発も炎上させることができず、皆死 んで、悲惨だったという話。「天皇にこの責任を取らせなきゃいかん」と言って いた。 

 白川公園大通りの小屋持ちの仲間に比して、駅周辺の仲間の状態は概して厳し いものであった。福氏行政が全然ダメな名古屋市の現実である。しかし、パトロ ールに参加してわかったことは、名古屋の夜回りは仲間との話込みを通じて、き っちりと結びつきを強いものにしているなということだった。回ってみて、仲間 の反応が非常によかったからだ。日常的なしっかりしたパトロールがなければ、 このような反応はなかなか作れないものだからだ。 

 パトロール集約後、年越しイベントで花火を打ち上げ、皆で盛り上がり、新年 の挨拶を大阪・渋谷の仲間から各々行う。大変ウケがよくて、ともにトキの声を あげて、大いにはしゃぎ、野宿の仲間の全国的な団結への一歩を確かめた。ウー ン、名古屋の仲間はノリがいい。  

 あくる元旦は、早朝からモチツキ大会である。朝八時前から準備。起きぬけか ら石臼運びを頼まれる。渋谷一の肉体労働者が一人で運んで、皆が度肝を抜か す。三四人で運ぶつもりの石臼を一人で運んだからである。運んだ仲間曰く、 「寝ぼけてたからできたんでしょうね!?」まあそんなこんなで朝からバッチン バッチンもちつきました。出来次第みんなで食べ、夕方まで続けるという。蒸し 器も壊れ、臼も割れ、杵も折れよとつき続けるのだという。いやはや。 

 しかし、名古屋の越年は本当に皆各々、自主的自発的に楽しんでいる。カラオ ケ好きはカラオケ前で、話好きは焚き火の前で、モチツキこそわが仕事という仲 間は朝から晩までモチツキにつきっきりで、将棋・マージャンを囲む仲間も皆、 越年闘争・新年を楽しんでいるのだ。 

 そんな元旦にお客さんが来た。無実の元死刑囚、赤堀政夫さんである。名古屋 の仲間はおなじみのようで、挨拶のあと皆とカラオケを楽しんでおられた。メー デーや越年闘争等節目にはいつも顔を出されるとのこと。思わず握手をして、カ ラオケを一緒に歌った(ミーハーにも)。歴史の証人との予期せぬ対面に感激も 一入であった。余興がてら、越年実の人々と労働歌などを歌ったりして大いに楽 しんだ。越年闘争でこんなに楽しくはしゃいだのは初めてのことで、越年闘争の イメージも東京都はずいぶん違うものだった。 

 そんなこんなで大阪・名古屋との越年闘争東西交流をやりぬき、大阪・名古屋 の仲間を連れて、東京・渋谷の越年闘争へ帰還し、今度は遠方からの仲間を渋谷 で出迎え、お互い興奮の交流の成果を報告しあい、幕締めとなった。 

 最後に、この交流会が各地にその後多大なる影響をもたらしたことを報告した い。越年交流を担った仲間たちはその後いずれも各地の軸となり精力的な活動者 となる。たとえば、名古屋の夜回り(パトロール)は、確実に参加する仲間が増 え、大阪では越冬後、拠点である扇街公園で追い出しの大規模工事が行われた が、越年交流を担った仲間がまさに先頭に立ち、工事の計画自体覆せなかったも のの、公園内一角を野宿拠点として認めさせ、仕事と生活をお互い融通し合い、 小屋を次々と建てて力強いコミュニティーの形成と団結を作りだしている。 

 この短期間だけれども、厳しく、そして楽しい越年交流は、東西の仲間が決し て一人ぼっちではないことを気づかせてくれた。のみならず、各地が各地の実情 の中でたくましく生き抜いていることを、闘いと団結の中から己の未来が切り開 かれていくことを、教えてくれた。全国の仲間の団結が本当に互いに顔の見える 交流をし、互いの経験と蓄積に学び合いながら全国の仲間の力に変えていける。 そんなこれからに向けて、今回の越年交流が一つのきっかけになったことを確認 し、締めくくりとする。 

 


(CopyRight) 渋谷・野宿者の生活と居住権をかちとる自由連合
(のじれんメールアドレス: nojiren@jca.apc.org