路上脱却
(タナボタ)の記
岩城
私が児童会館前の集団野営に世話になるようになったのはのじれんが毎週日曜日に行っている就労相談に顔を出したのがきっかけでした。相談員から「寝場所が決ってないならどうぞ」と誘われたのです。それまで中野区の公園のベンチで寝ていた私は仲間に入れてもらう事にしました。野宿を始めて7日目、これから梅雨も本格化しようという6月初めの事でした。
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それからの毎日は、「エサとり」(ホームレスの捕食行動)、「並び」(ダフ屋のチケット入手バイト)、「本屋」(駅周辺で100円で売っているあれです)、「生保」(生命保険にあらず生活保護)、「ナカマ」(仲間ではありません、野宿者の事です。他人の荷物を置き引きしたり、いつもトラブルの元になるような奴でも野宿者なら“ナカマ”です)などという業界用語を学習したり、渋谷周辺の暑さをしのげる場所(図書館、デパートなど)を教わりながら一人前の野宿者たるべく精進していたのです。収入が無いため銭湯に入ることも出来ず、シラミやノミに棲みつかれたり、体が悪臭を放つなど大いに不快なことも多かったのですが、カンパン(災害時用の非常食。区役所が賞味期限切れのため廃棄する分を野宿者に配布している)、炊き出し(支援団体や宗教団体が実施)、エサ(会館前にはエサとり名人が多くいます。MG、IG、NG、本当に助かりました)でとりあえず飢える事はありませんでした。だんだんと諸先輩方とも親しくなり、退屈ではあっても孤独を感じる事もない日々が過ぎて行ったのです。
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そんな8月のある日、美竹公園(会館のすぐ隣、野営は朝6時45分までに撤収しなければならないので私たちは朝メシをここでとっている)に毎朝ハトに餌をあげにくるおじいさんが仲間の一人に声をかけてきたのです。
「こんな所で毎日ブラブラしているなら、私のところで働かないか?やる気があるなら面接に来なさい」
その人は会館のすぐ目の前でビル・メンテナンスの会社を営んでいる社長だったのです。
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「社長、ホームレスが…」 A人事部長が社長室に入るや否や言った。
「おお、早速きたか、面接してあげなさい」
故郷の新潟を後にして半世紀、一代でこの会社を築いたオーナー社長はゆう然と答えた。「しかし、公園のハトに餌付けはいいとしましても、何もよりによってホームレスに餌付けしなくても…」と17年前の9月13日、奇しくも自分の眼前にいる老人の誕生日に入社した初老の男は採用後の社内の反応に思いを致し暗い気持ちで反論しようとした。
「ヤツらとて好きでホームレスをやっとるわけではない。この不況で仕事がなく行政は全くあてにならず、頼れるものは何もない現状で野宿を“余儀なく”されておるだけぢゃ」
「ハア、そのような知識を一体どこで…」
「バカモン、そんなことは常識だろうが、さっさと面接してきたまえ」
と部長を一喝した社長は、後手に隠し持った昨日公園で拾ったのじれんの寄り合いビラを握りしめた。
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階上でこんな会話が交わされているとはツユ知らず(会話はもちろんフィクションです)、私は2階の応接室で部長の帰りを待っていた。
「ああ、待たせたね。まあ、仕事自体は誰にでも出来る簡単なものだから問題はないけれど、採用となると住民票、身元保証人、給与振込のための口座が必要になるけれど大丈夫かね」
「ナニ、何もない、何ひとつない。おまけにカネもない」
私の返答に固まってしまった部長を見て私は、もう15年も前、捜査情報を漏らす見返りに賄賂を受け取りながらいけしゃあしゃあと先頭を切って店に踏み込み、従業員を風営法違反の現行犯でパクり、事情聴取で意に沿った供述をしない私を前に調書を書く手を止め、じっとこちらをにらみつけていたN署生活安全課の刑事を思い出していた。オイ、M岡、お前の事だよ、お前の…。すみません、取り乱してしまいました。
「まあいい、そういう事は後で考えよう」と部長は野宿者に対し何の偏見も見せず、また何の理解も示さず答え、また次週詳しく話しをしよう、君も44才でまだまだこれからだからと励まされて1回目の面接は終了した。
2回目の面接に際し、実は私はこの話を断わろうと思っていました。給料が安いので長く続けることは難しいと判断したのです。(まあなんてゼイタクをと思ったそこの貴方、それが野宿者に対するヘンケンとサベツです)
「おお、来たか。じゃあこれを持って健康診断に行ってきて」
詳しい話しも何も、住民票その他の問題もそのままに私の採用は決っていたのでした。
「はあ、有難う御座います。すぐ行ってきます」
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優柔不断な私は断わりを言う機会を逃がしてしまいました。
「ところで、現場では今までのクセを出さないようにね」
「ハア?」
今までのクセって何ですか?落ちてるものは何でも拾う事ですか?行列を見たらとりあえず並んでみる事ですか?自販機のおつり返却口に指を突っこんだり、下をのぞいてみたりする事ですか?電車に乗ったら各駅で降りてゴミ箱から新聞や雑誌を拾う事ですか?ついでに使用済みテレカを拾う事ですか?改札口で日なが一日じっとしていて釣り銭のとり忘れを期待する事ですか?排除の口実を与えないよう公園をきれいに清掃する事ですか?それはいい事ですか、そうですか、そうですね。一体、あなたは私の“クセ”についてどれほど知悉しているというのですか、何て調子で詰問なんて出来ません、ええ出来ませんとも。
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こんな風にバタバタと就職は決まってしまいましたが肝心の寮があいてないのでしばらく路上から通勤してくれとの事。この事が東京近郊のとある大規模団地の清掃という職を得た私が事件を起こす引鉄になりました。
「社長」、と10日前の社長誕生会の司会を無事務めた人事部長が言った。
「何だね」と75才の誕生日を迎え、100才まで陣頭指揮をお願いしますなんて社会報に提灯記事を書かせ一人悦に入っていた社長が応じた。
「彼のことですが、現場から苦情が来まして」
「何があったのかね」
「いや少し匂うという事でして」
「くさいというのか」
「はあそういうことです」
「異臭か、こりゃビッグ・イシュー(大問題)なんてな」
「えっ」
「まあ、なんとかしなさい」
とまあこんな二任の会話(フィクションです)を発端に私が愛の熱誠者衣服カンパ3日間戦闘と名付けた活動が本社・現場で繰り広げられたのでした。その時私は野宿時そのままに(というかまだ路上からの通勤でした)着のみ着のままで風呂にも週1、2回しか入らずにいたのです。勤務先のT市から渋谷まで衣服の入った大きな紙袋を下げ、また本社でももらい受け、本当にこの3日間はいつの世にも優しい人はいっぱいいるのだなあと感激するやら、そうしてもらわなければ仕事に通う事すら出来ない自分を深く恥じ入るやらで忙しい日々でした。
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就労20日目には寮に入ることもでき、こうして私は路上脱却(仮)に成功したわけです。まだまだ解決しなければならない問題は山積していますが、再び路上に戻ることだけはないようにしようというのが今の私の決意です。一旦路上に落ちてしまえば(業界では路上に“たたき出される”と言いますが)再び就労することは本当に困難な業であります。たとえ職にありつけてもそれは路上との境界があいまいな飯場や、訪問販売などの怪しげな仕事がほとんどで、これで再び野宿生活を味われずに済むというものではないのです。
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この原稿を書いていると外から炊き出し・寄り合いの呼びかけの声が聞こえてきました。
「渋谷の炊き出しには二つの約束事があります…」
野宿の仲間とともに日夜戦っているK氏の声です。二つの約束って一体何でしょうか?
お知りなりたい方はどうぞ渋谷、児童会館前で毎土曜日午後7時からはじまる寄り合いに顔を出して下さい。炊き出し用食材やらお米持参ならなお大歓迎です。私達野宿者は一人では生きて行けないのです。これはレトリックでもなんでもなく、本当に生きて行けないのです。これからも今まで以上の御支援をよろしくお願いします。以上
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