ジョハネスバーグの路上に生きて
千葉 愁子
初めまして。7月から新しく参加している千葉です。私がのじれんと関わるきっかけとなった南アフリカとストリートチルドレンのことを少しお話したいと思います。
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1998年の7月から8ヶ月間、ソーシャルワーカーとして、路上で暮らす子供達(9才?16才)や若者(17才以上)と共に働きました。現在ジョハネスバーグを含むハウテン州には、少なくとも1万人以上のストリートチルドレンがいると言われています。
子供達が家を出た一番の理由は、家庭での身体的・精神的・性的虐待と親の再婚相手との不和です。このまま家でひどい扱いを受け続けるよりはましに違いない、彼らはわずかな希望を胸に路上に出てきます。求めたものは、安全と少しばかりの自由でした。しかしすぐに気づかされます。結局自分は別の虐待と暴力の世界に入り込んだにすぎないという事実に。
南アフリカには以前、アパルトヘイトという政策がありました。全ての人間を白人・黒人・混血(カラード)に分けて、職業や居住地を人種ごとに隔離し、人種間の交流を禁止した政策です。しかしアパルトヘイトの本質は、人間が誰かを経済的にも、また精神的にも完全に支配し隷属させることであったと私は思っています。
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南アフリカにはホームランドと呼ばれる地域があります。何の産業もなく、雨も降らないこの痩せた土地に黒人は移住させられました。最初は何とか放牧で生活を維持したものの、もともと乾燥した大地で、家畜はあっという間に草を食べ尽くしました。そして、生きていく手段を断たれた黒人達は、全ての産業を独占している白人達に、安い労働力として使われる他なかったのです。白人への依存無しでは自分達は暮らしていけないということを、口で言うだけでなく、そういう状況を意図的に作り出して、精神の一番深いところに焼き尽ける、それがこの政策が目指したものであったと思っています。
1980年代になると、アパルトヘイトに反対する多くの人々が現れました。その反対運動を力でねじ伏せようとする人々の暴力と、それに反対する人々の暴力。以前は白人と接する街の中だけだった暴力が、黒人の住む居住区に持ち込まれました。政府の非常事態宣言によって、逮捕状が無くても人々を逮捕し、投獄することができるようになり、黒人居住区に警察や軍が頻繁に出入りするようになったためです。そして暴力は人々の日常に近づき、蔓延しました。
こうしてあまりにも身近になってしまった暴力は、人々の感覚を麻痺させました。家族や友人があっさりと殺されていくのを見るうちに、あるいは政治的な理由で誰かを傷つけ、命を奪ううちに、人々には絶望的なまでの生命の軽視が定着したのです。これが南アで社会問題になっている『暴力の文化』です。
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現在、黒人の失業率は40%を越えます。アパルトヘイトが廃止されて、今は誰にでも豊かになれるチャンスがあります。しかし、今まで充分な教育を与えられてこなかった人々にとって、そのチャンスは絵に描いた餅です。手が届きそうで、でも絶対に掴み取ることが出来ない、そんないらだちの中で人々は生きています。
「やっぱり自分には何もできないんじゃないか」そんな思いがわき起こります。アパルトヘイトが人々の心に焼き付けた精神的な隷属です。それを打ち消したい気持ちと、どうにもならない現実。
引き金となるのは一つの思いです。「自分の命も人の命も安いものだ」日々のいらだちはあっと言う間に弱者への暴力へと姿を変えて、子供達を路上に追いやります。しかし、路上で子供達を待ち受けるのもまた、『暴力の文化』の犠牲になった人々です。
ある子どもが言いました。「痛い目に遭わされようと、相手が僕より大きかろうと負けない。一瞬の隙をついて必ずやり返す。路上では生きていくために戦いが必要なんだ」12才の彼が身体で覚えてきたことです。『暴力の文化』から逃げ出した子供たちが、結局『暴力の文化』から逃げ切れない。そんな悲しい現実がそこにはあります。
『心近づく一瞬とは、同時に縮まらぬ誤差を知る瞬間でもある』ある本の一文が、私の目を捕らえました。『暴力の文化』は、暴力とは全く無縁に生きてきた私と彼らのどうしても埋めることのできない『誤差』でした。
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しかし、その『誤差』はある一つの気づきでもありました。こんな路上の世界で人間らしい心を保つ彼らの強さです。路上では、毎日色々なことが起こります。暴力も、憎しみも、死でさえもすぐ側にあるのです。人間がこんなにも安く扱われ、こんなにも簡単に傷つけられるのかという絶望がそこにはあります。
しかしそんな中で、彼らは依然笑い、時に他人に優しく、そして生きています。そんな彼らがもう少し評価されてもいいんじゃないか、私にはいつもそんな気持ちがありました。
南アフリカの有名な黒人女性詩人が、白人女性達に向けて書いた詩の中でこう言っています。「長いときを経て やっと一緒になれた私たち 私たちがどんなに笑うかを知って あんたたちはきっとぎょうてん」この強い明るさは、子供たちの驚くほどの強い笑顔にも通じています。
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1994年に選出された初の黒人大統領ネルソン・マンデラ氏はこう言いました。「抑圧する側も『憎しみの囚人』であり、解放されなければならない」程度の差こそあれ、白人も黒人もカラードも皆一人一人が被害者であると。だから憎しみを抱き続け、報復するのではなく、互いを許して一緒に前に進んでいこうと。
南アフリカの人々は今、人間らしく生きるという大きな試みに向けて動き出したところだと思います。今まで人として尊重されてこなかった人々が、どうやって自分を、そして相手を尊重するのか、人は人をどこまで許せるのか、そんな大きな挑戦に取り組んでいるという気がします。
作り出された貧困の中で、しなくてもよい苦労をさせられた人々が、一番難しい『相手を許す』という選択肢を選んだこと、それが私をこの国に惹きつけています。
人生の大半あるいは全ての時間を、「自分は何もできない」と心に刻まれて過ごしてきた人々が、どうやってその思いを変えていくのか。私は、南アの人々が時間をかけて「これもできる、あれもできる」という実感を一つずつ重ねて、それを克服していくのではないかと思っています。もしそうであれば、私もそのプロセスのどこかに関わりたい、そんな気持ちがあります。
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日本に戻って、のじれんに参加したこともこの延長にありました。今はまだ活動に参加したばかりで、仲間と会話を重ねながら『誤差』を探している段階です。相手を知り、『誤差』をきちんと自覚すること。そこから自分の関わりを見つけていきたいと思っています。
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