のじれん・通信「ピカピカのうち」
 

Home | Volume Index | Link Other Pages | Mail Us | About Us | Contact Us   



一つの反措定
働くことはそんなに大事か?


湯浅誠

 アントニオ・ネグリというイタリアの活動家・政治思想家が、「アウトノミア(=自立)」と呼ばれた一九六〇年代末から七十年代にかけての運動の中で「労働の拒否」という概念を焦点化したことは、今では結構知られている。ストライキやサボタージュが労働者の一貫して変わらぬ古典的な闘争手段であることは誰でも知っているわけだが、ネグリが注目されたのはそれをプロレタリアートのauto-valorization(自ら労働力の価値を指定し、有効利用し、さらには増殖させること)という概念と結び付けて、「労働の拒否」をより広い射程の下でよりポジティブに提起したからだった。暴力的に単純化することになるけれども、要するに、労働力の売り惜しみだけでなく、買い控え(消費者=労働者が商品を買わない限り、差額=剰余価値は発生しない)や家事労働の労働としての認可などといった新たな労働価値の創出を通じて、工場内だけでなく社会全体に広まった資本主義総体に抵抗し、労働価値の決定権を自らの手に取り戻そう、というのがネグリのメッセージだった。

 さて私たちにとって問題なのは、この「働くことの拒否」が労働者と失業者の壁を取っ払う機能を持ったという点である。失業者にとって可能なのは何も「仕事よこせ」闘争だけではない。仕事があるかないかで要求が逆転する(失業者は常に労働者の脅威だった。ピケを越えなかった男たちと越えた男たち、というように)のではなく、それぞれの立場に応じたauto-valorizationへ向けた運動と連帯が可能なのだ、ということだ。社会がますます労働力を流動化させ(「いい若いモン」がどんどん野宿状態に陥っているという路上の現実が何よりの証拠である)、かつますます消費社会化が進んでいる(「誘惑」だけは路上にも開かれている!)状況の中で、働くことはそんなに大事か、と改めて問うてみる価値はあるように思える。

 何をバカなことを言っているのか、「資本主義総体への抵抗」などという夢物語を口走るのはいいかげんに止めろ、働かざるもの食うべからず!という、こう書くと暴力的だがおそらく世の中の(少なくとも日本の)90%以上の人が抱いているであろう意見に対しては、いくら路上脱却するルートを作っても次から次から新たな野宿者が再生産されてくるような社会はおれはイヤなんだ、とこちらも暴力的に駄々をこねてしまおう。いやいやそんな乱暴なことを言うつもりはないですが、そちらもauto-valorizationなどとややこしく頑ななことを言う必要はないじゃないですか。職を失ってしまわれた人には再訓練を施し、野宿に陥らないように水際作戦を展開して、みんなが職につけるようにすればいいじゃないですか、という親切な意見には、……どうしようか。日本よりもはるかに激しい経済危機を経験した韓国が日本よりもはるかに急ピッチで進めている諸施策は、こうしたもののようだ。日本も緩慢ながら、ベクトル自体は同じ方向に向けて、動き始めてもいる。しかし、労働訓練による規律化に我が身を浸し、労働倫理の高唱に我が声を合わす――そのとき私の「個」はどうなってしまうのか? それが本当に野宿者が目指している「自立」なのだろうか?

 「働くこと」と「働かないこと」は二律背反するが、「働くこと」による抵抗と「働かないこと」による抵抗は対立・矛盾しない。「働くこと」の強要と「働かない/働けない」ことの強要が対立するどころか一対であるように。「好きでやっている」という偏見が、少なくとも表面上は、なりを潜め、「仕事を求めている」という主張がそれにとって代わろうとしている現在、それに安心するのではなく、むしろもう一度身を翻して「働くこと」と「働かないこと」を等価に見る視点に立ってみる必要があるのではないか。「働かないこと」を得意げに謳歌してみせる「大失業時代」流行のスタイルにも、「働くこと」ただそれ自体に胸を張ってシステムそれ自体には盲目な伝統的スタイルにも、希望はないのだから。



***



 


(CopyRight) 渋谷・野宿者の生活と居住権をかちとる自由連合
(のじれんメールアドレス: nojiren@jca.apc.org