ある野宿者の半生
麻さん(1)
聞き手:石山ひろし
◆幼少期◆
一九六三年(昭和三十八年)に岡山で生まれました。三歳の時、母が肺結核にかかり、母とは離れて暮らしました。父は、兄の経営する近くの傘屋で働いていて、一人で私の育児をするのは大変なので、始めは兵庫の実家と家とを往復しながら、約一年後には実家に預けられて育ちました。それで幼稚園へは途中から入園しました。病気が移るので母とは全く会えず、その後病死したと聞かされました。
私が五歳の時、年の暮れに父の実家で一緒に住んでいたおばあさんが亡くなりました。その日は珍しく雪が降り、屋根に積もった雪で遊んでいたことを憶えています。その後おばさんが私の世話をしてくれました。その後父は傘屋の店の火事のことで叔父ともめてやめてしまい、しばらくタクシーの運転手をしてましたが、私が小学一年の秋再婚し、彼女の実家のある広島へ私も連れて、そこで傘屋の仕事をしながら三人で暮らし出しました。
◆父のこと◆
父は怒るととても怖かった。親に口ごたえしたりウソをつくと私を投げたり、家から放り出したりしました。競馬が好きで、私が一年生のとき、一人でテレビの競馬を見ていたのを憶えています。
おまえは死んだ母にそっくりだ、とよく言われました。要領が悪く、こうだと思えば突っ走ってしまう。不器用なところも似ていたそうです。母が病気になったのも食事の後片付けを翌日に回さず、その日のうちにして疲れがたまり発病したと聞きました。
◆小学校◆
広島の小学校では「田舎者」と言われてずっといじめられました。よそから来た者をみな「田舎者」と言ったのです。たとえばマツの葉で足をチクチクと刺されたり、教室で飼っていた水槽にいるドジョウを弁当に入れられて食べれなくなったりというようなことがよくありました。親に黙っていても、頭に傷があったり、泣き顔だったり、服が敗れていたり汚れていたりして、ばれることもありました。転校して間もない頃、同じクラスの女の子が好きになり、プロポーズをしました。このことは中学生になっても冷やかされつづけました。
広島に行ってからも、盆や正月には兵庫の父の実家に帰っていたのですが、二年生の年の暮れ、幼いときからとてもよく遊んでくれた近所の中学二年のお姉ちゃんが、自転車を無灯火で運転していて、曲がり角で車にひかれて即死しました。初めは信じられなかった。それ以来自転車に乗るのに抵抗を感じ、高校三年になって必要に迫られるまでは決して乗りませんでした。高校の入学祝に、母方の叔父に自転車を買ってやろうといわれても「いらん」と言って断りました。今でも自転車に乗るのは好きではありません。
小学生のころは本を読むのが好きで伝記などをよく読みました。「東条英機」や「宮本武蔵」他にも「ビルマの竪琴」なんかを読みました。将棋も本を読んで一人で覚えました。いつも本を相手に将棋を指していました。六年生のときには百貨店で中原誠の詰め将棋の本を買って勉強しました。囲碁も高校一年のとき、やはり本を見て一人で覚えました。
しゃべるのも好きで、小学生のときからよくしゃべっていました。学校への行き帰り、一人で天気予報やニュース・マンガの口マネをして歩くのが好きでした。気象予報士になりたくて、成人してから通信教育をとったこともあります。
六年生のとき、釣りのときだけ一緒に遊ぶ友達ができて、近所のドブ川にときどきフナ釣りに出かけました。誤ってドブ川にはまってしまい、服をドロドロにして帰り、母に怒られたこともありますが、楽しい思い出です。釣ったフナは、その友達が池に飼っていたのでみんなあげました。
◆義母のこと◆
母は、小学校のときから口やかましかった。
小学三年のときから、幼いころの高熱の後遺症が出るからと一切テレビを見せてもらえませんでした。ただ親戚が来ると、いつも私が子守りをするので、そのときだけテレビを見ることができました。自分で見られるようになったのは、就職が決まった高三のときからです。朝は七時半に起こされ、夜は七時半に寝かされました。それが六年のときまで続いたのです。たくさん使うな、と小遣いも少ししかもらえず、家の片付けが大変だからと、友達を連れてくるな、家へも遊びに行くなといわれました。当時私は納豆としいたけが嫌いでしたが、好き嫌いをなくしなさいと言って、嫌いなものをよく出されました。食事中は、血が薄くなると言って水を飲ませてもらえませんでした。甘いものも体に悪いと言って食べさせてもらえませんでした。出もそのおかげで今でも虫歯がなく歯は丈夫なので、それだけは母に感謝しています。中学に入ると勉強のことばかり言うようになり、高校では多くの生徒がしているバイトも、クラブ活動も成績が落ちるからと許してくれませんでした。このことは特に恨んでいます。高二のとき、テニス部に入ったのですが、成績が下がったので半年でやめさせられました。父は、育児に関しては一切母に任せきりでした。母のやり方に全く口を出しませんでした。母は父より十歳年上で、だから子供がいなかったのだと思います。私には兄弟は一人もいません。
父は恨んでいませんが、母は恨みました。血のつながりがなかったし、やはり抵抗がありました。特に高校のときに、みながしているバイトやクラブなど好きなことをさせてくれなかったことを恨みました。
◆中学校◆
中学生になっても相変わらずいじめられ、非行をするような男子にはよく殴られ、逆に女子には強気に出ていたので嫌われました。それでもクラスの記念写真を撮るとき、雨降りで長靴をはいて行った私は背が低いので前列に並ぶことになりました。長靴をはいているのは私一人です。そんな時ある女生徒が、私の靴を貸してあげる、と言ってくれたのです。もちろん悪くてそんなことはできませんでした。
◆高校◆
高校に入学したての頃は、小・中学と私がいじめられていたことをみなが知らなかったのでいじめられなかったのですが、同じ中学の男子がそのことを話し、それ以降高校でもいじめられるようになりました。
一年の音楽の時間に音楽教室で、プロレスのようにパイプ椅子で何度も殴られました。このことは父の知るところとなり「そんな学校はやめてしまえ」と言ったのですが、私はやめたくなかったのでやめずに通いつづけました。そのとき私をいじめた男女は全員謹慎にさせました。しかしその後も相変わらずパイプ椅子やスリッパで殴られつづけたのです。生徒会の会計を押し付けられて立候補したことも、弁論大会で無理やりクラスの代表にさせられて発表したこともありました。
高校三年のとき、自衛隊に行くことに決めました。本当は警官になりたかったのですが、腕力も弱く、クラブ活動もしておらず体力に自信がなかったので自衛隊にしたのです。自衛隊に行くと言ってからはいじめられなくなりました。卒業も近づいてみな問題を起こしたくなかったのでしょう。中学の卒業アルバムは強制的に買わされましたが、高校の卒業アルバムは買いませんでした。いじめられてばかりだったので欲しくなかったのです。
◆自衛隊◆
自衛隊では大阪勤務のあと、北海道網走に配転されました。初めのうちは体が大変でしたが、そのうち慣れて楽になりました。余暇は音楽を聞いて過ごしました。私は風俗には行かないので、その分、音楽にお金を使いました。初めは演歌を聞いていましたが、同僚にオジンくさいと言われ、ニューミュージックに替えました。歌本で調べてチケットを買ってライブハウスに初めて行ったのもこの頃です。以後休暇を利用してライブハウスやコンサートに時々行くようになりました。小泉今日子や堀ちえみ・早見優のコンサートにも行きました。レンタルレコードを借りて録音したテープも増えていきました。正月に寝台特急で札幌に遊びに行き、ホテルに泊まって過ごしたのですが、百貨店などすべての遊び場が閉まっていて、何もせずに帰ったこともあります。自衛隊勤務中に講習を受けて、クレーンのオペレーターと玉かけの免許を取りました。
◆実母のこと◆
このまま自衛隊にいてもいつまでもペーペーなので、二年で除隊することに決めました。除隊する少し前、私宛てに手紙が届きました。
「あなたを産んだのは私です」
びっくりしました。一体誰かな、と勘ぐりました。母は死んだはずですから。私を引き取りたかったけど、病気が移ると言われて諦めたことが書いてありました。そして私に会いたい、と。母は私の小学校の在籍記録から探し出したようです。会うかどうか上司にも相談しました。会う決心がついたのは除隊直前のことで、それまで迷いました。
除隊して北海道を後にした私を、母は大阪空港で待っていてくれました。
*** (つづく)
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