南青山の交差点でステップを踏め!
こんにちは。四月から新しく参加している橋田です。主に金曜日の代々木公園のパトロールと、土曜日の渋谷での炊き出しを担当しています。
友達に言わせれば「ボランティアやっていて偉いねぇ」ということなのですが、僕の中ではそういう感覚はまるでありません。謙遜している訳ではなく、これは参加してみての実感なのです。「いろいろなものを頂いているな」という気持ちの方がずっと強い。
僕のこれまでの人間関係の大半を占めてきた学校生活では、多くの人々と同じく、同世代との付き合いがほとんどでした。そこではまるで理解する機会のなかった僕の棲むこの「世界」の成り立ち具合を、僕は痛烈に感じることができます。避けざるを得ない行政(国家、権力)との軋轢を通して、あるいは30代前後の「支援=ボランティア」のメンバーやそのさらに上の世代を含む「仲間=当事者の方々」との親密(?)な付き合いを通して。そして目の前に常に積み上げられている極めて具体的な諸課題に向け、それぞれが自分の持ち場でもって、世代やバックグラウンドを超えて共同で解決を模索していく。確かにこれは僕がこれまで安穏と暮らしてきた大学生活の中ではほとんど得難い体験です。
《のじれん》の一つの特徴が、この組織の奇跡的な柔軟さと外部への開かれかたです。仲間・支援の各メンバーは、それぞれ微妙に異なった立場や信条をもっています。一つの課題に取り組む際、それぞれの「政治」「主義」「方法論」のうえで見解にある種の「ずれ」が出てくるのは当然のことです。しかし《のじれん》はそれをむりに統一しようとはしません。それぞれはそれぞれの立場でもって参加し、活動します。優れた組織では当然のことでしょうが、《のじれん》もその組織の弾力性でもって硬直化やマンネリに陥る危険を排除するというはなれわざをやってのけています。問題解決に向けてのそれぞれのアイデアは会議の場で汲み上げられ、次々と実行に移されています。
当然このような柔らかな組織は、外部に対してもまた開かれているでしょう。具体的に言えば、僕のようなろくでもない学生がひょっこりそこに入りこんでも、なんの不自然さもなく受け入れてもらえるということです。そのことで僕は当初とても驚いたのでした。(大学のサークルの風通しのよさもこれほどではない)その柔らかさこそがより急進的な他の団体ともある局面で共に行動することを可能にし、あるいは将来的には、まったく別の課題を掲げる(たとえば環境問題等)NPOとも連帯していけるかもしれません。「柔らかな(内部での)連帯」は「柔らかな(外部との)連帯」を可能にする。これは僕の読書経験のなかで観念的にのみ理解してきたことでした。
「仲間=当事者」と「支援=ボランティア」との独特な関係も、この組織の特徴として挙げておくべきでしょう。後に触れますが、「炊き出し」や「パトロール」などの活動で中心となって動いているのはむしろ「仲間」である当事者の方々です。この点で《のじれん》は単なるボランティア団体ではなく、むしろ当事者の相互扶助団体のようにさえ見えてきます。《のじれん》は「炊き出し」などの支援活動を行いながら、当事者の方々が主体的に関わることを通じて、それじしん当事者どうしの一つの有機的なコミュニティとなっているのです。このことを知った僕は、あまりの衝撃に絶句したのでした。
僕の担当している二つの活動について少し具体的に説明しましょう。
まず「代々木公園パトロール」ですが、これは毎週金曜日の日中に僕と数名の支援・仲間で行っています。広大な代々木公園には各所に野宿者のテントが無数に張られていて、僕らは分担してそれらを回り「話し込み」を行うのです。
テントと一口で言いますが、様々なバリエーションがあり実に多彩です。フェンスにシートを簡単に掛けただけのものから、四方に杭を打ち込んだ頑丈な作りのものまで。ちらりと覗く部屋の様子もまた色々。きちんと整頓されて手が行き届いている、人柄を彷彿とさせるような部屋。その逆も然り。
「話し込み」を御存じない人もいるでしょう。しゃがみこんで野宿者のひとりひとりにビラを手渡し、体調・役所の動きについての情報・炊き出しの情報等を語り合うことを言います。テントを経巡るためのルートが幾かあり、覚えるのに一苦労です。しゃがみこんで数十人と話していくので最初は腰も痛みました。もっともこれはすぐに慣れましたが…
しかしそれよりも大きなジレンマは、限られた時間の中ではすべての野宿者と十分満足いくまで話をすることができないということ。もちろん野宿者の方の全員が僕らの行為を快く思っている訳ではありません。話しかけてもビラすら受け取ってくれない方もいます。でもその一方で話し相手を欲しがっている野宿者の方も沢山いるのです。そんな方々と話していると10分20分はあっという間です。そのまま続ければ、とてもじゃないけれど分担のすべてをこなすことはできません。という訳で、矢継ぎ早に次から次へ話題を変えて話を続ける彼らの口を遮って「もう時間だからさ」と告げることになるのですが、じっさいこれほど心苦しいこともないのですね。
この代々木パトで僕に訪れるのは、こんな僕でも多少なりとも人を喜ばせることができるのだ、という新鮮な驚き。控えめに表現すれば、これは小躍りしたくなるくらい嬉しい出来事です。(この響きが含んでいる穏やかな傲慢の影を僕は取り除くべきか否か?しかしその消滅後に残るのは無感動なルーティン・ワークか、或いは義務感への自己没入のみであろうし、僕はやはりそれには耐えられそうもありません)ともかく、参加する以前の僕がいかに乾いた世界に生きてきたか、想像に難くない。
開始後二時間くらい経つと、分担を終えたメンバーが三々五々集合場所に集まってくる。そこで数を集計してパトロールがようやく終了。
次に土曜日の「炊き出し」について。これに関しては別の文章が用意されているので、詳しい説明はそちらを読んでください。
ここでの僕はやることがほとんど与えられていません。実際に食事を作る作業は仲間がすべてやってしまうからです。時間を持て余しているのももったいないので、自分から雑用を見つけるように心がけてはいます。ただ僕にとっては仲間と交流できる数少ない場でもあり、やはり手よりも口の方が熱心に動いてしまう傾向は否めません。
炊き出しが終わると、土曜日のルーティン・ワークである渋谷近辺のパトロールに出かけます。しかしこれに関しても、新入りの僕はルートすらまだきちんと覚えておらず、仲間の後をふらふらとついて行くだけ。渋谷の街を行きかう不思議に上気した人々をぼんやり眺めたり、路地の隅々であくまでもきらびやかに国籍不明の猥雑な光を放ち続ける高度資本主義に感銘を受けたり。あるいは時々ふと感じずにはいられないその風前の灯火的な儚さを愛でてみたり。よろよろと仲間の後を追いつつ。
道玄坂、南青山、神宮前。先輩はすたすたと雑踏を歩き続ける。片手にビラ。渋谷を眺める目は住人の目だ。すれ違う買い物客とも違う。もちろん上ずった僕のとも違う。「お洒落だお洒落だって言うけど、間近で見るとこれほどダサい街もないよな」と彼が呟く。
時間は夜の十時。目が暗闇に慣れてきて、気分は薩摩隼人。
うなだれた背中をしゃんと伸ばそう。ネオンサインの明かりを受けて進もう。
わけもなく嬉しくなった僕は、南青山の交差点でまたステップを踏むのだ!(Auf
Wiedersehen!)
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