児童会館から明野村へ
田村さんの路上脱却
「夢の地・明野村」――山梨県明野村は、いくつもの「夢」が交錯している場所だった。過去の夢、現在の夢、未来の夢。私はこれから後の二つについて語ることになる。最初の「夢」は私たちのじれんの「夢」ではない/なかったからだ。しかし、それがなければこれから語ることも実現しようがなかったという意味で、それは現在の私たちにつながっている。この短い訪問記は、その意味で、私が語ることのできない20年前の「夢」に捧げられる。
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5月31日、8名ののじれん一行は、児童会館からの路上脱却=農村への移住を果たしたのじれん現役メンバー・田村さんのもとを訪れた。田村さんは5月6日から、受入先となった農家の方の別宅に居候をしながら、その方の畑を手伝わせてもらっている。この日は、そこでの玉ねぎ収穫の手伝いがてら、路上脱却を果たした田村さんの「勇姿」を見にきたのである。
到着早々、別宅の見事さにド肝を抜かれる。農家の方が畑仕事の際に昼食などをとりに立ち寄るため、また、援農に来る人々に開放するための「離れ」とのみ聞いていたので、簡素な作業小屋を想像していたところが、建坪60坪、勇壮な梁が天井を走り、分厚い一枚板をテーブルや階段にふんだんに使用した実に堂々たる「豪邸」である。都会ではまずお目にかかれないような代物だ。ここに田村さんが一人で住んでいる、という。ダンボールを縦につないでガサゴソと体を押し込んでいく畳一枚にも満たないスペースが児童会館での野宿者の「家」である。それが、居候とはいえ、いきなり60坪もの邸宅を自由に使っているのだから、驚くなと言う方が無理というものだ。呆気にとられつつ、周囲に広がる畑や遥かに霞んで見える山々を眺めているうちに、午前の作業から田村さんが戻ってきた。
Tシャツに作業ズボン、それにトレードマークだった黒いキャップの代わりに麦藁帽子をかぶった田村さんは、どこから見ても「農家のオジサン」である。赤黒く日焼けした筋肉質の腕が、今年58歳とは思えぬほどにたくましい。訪れた仲間たちと久しぶりの再会を喜んだ後、全員で午後の玉ねぎの収穫に向かう。
最初の畑(畑は方々に点在している。小作人に土地を分け与えた農地解放のもたらした結果だと教わった)では成熟した玉ねぎの引き抜き作業を行う。スポンスポンと大小様々の玉ねぎを引き抜いていく、そのリズムが心地よい。薄曇の天気にもかかわらず、汗がしたたる。単純作業ゆえ、仲間の動きも軽快である。人数が多かったせいもあり、何千という玉ねぎを数十分で抜き終わる。次の畑では、前日に抜き終わった玉ねぎの茎をハサミで切り離す作業とその箱詰めを行う。さっきのようにリズミカルには進まない。玉ねぎの数もさらに多い。休憩をはさみつつ、黙々と作業を行う。腰が痛む。――その間、田村さんは農家の方と時々打ち合わせをしながら、常にわれわれの一つ先の作業をする。われわれがハサミを使っている間に玉ねぎの箱詰め作業を、箱詰め作業を始めればトラックへの積み込みを。われわれは彼に指示されつつ、見よう見マネで彼の後を追う。お互いに自分の動きをしながら、行き違うときに農家の方と短い言葉を交わす田村さんのちょっとした仕草が、この一月足らずでの彼の経験と蓄積を物語る。――渋谷から明野へ。慣れぬ手つきで玉ねぎの泥を落としながら、私も彼もまったく遠くへ来たもんだ、と改めて思う。
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田村さんがここへ移り住むのに決定的な媒介者の役割を果たしてくれたのは、昨年暮からのじれんの活動に大きな支援を与え続けてくれている有志の方である。田村さんはその方の事務所作業を手伝った際にその手際の良さを評価され、一二度明野の援農を行ううち、文字通りトントン拍子で移住の話が決まった。彼が自分で考え自分で動く「働く知恵」を完全に身につけていたことが決め手となった。野宿者か非野宿者かにかかわらず、こうした「知恵」を身につけている人間はそう多くはない。しかも近くにその能力を見出してくれる強力な媒介者と人間一人を居候として受け入れてくれる物質的・精神的余裕を持った協力者がいた。今回のようなタイプの路上脱却は、その意味で、様々な好条件が幾重にも重なった結果初めて可能になったきわめて例外的なケースであり、第二第三の田村さんが現れる可能性は、実際問題として、大きくはない。しかし、必ずしも田村さんほどの「知恵」を持たない多くの仲間の地道で愚直な取組が、様々な好条件が重なる下地を作ったこともまた、疑いようのない事実である。その意味では、今回のケースは偶然であって偶然ではない。のじれんは、その限りで、野宿者運動体として、このことを誇りたい。
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5時に作業を切り上げたわれわれは、2、3人ずつ風呂で汗を流す。「骨を埋める覚悟で…」――5月1日の児童会館での送別会の際に、田村さんは決意を語った。その決意が今どうなっているかが気になっていた。わずか3時間、十数人でやった作業でも、虚弱な私などは腰が痛い。それを毎日早朝から、農家のご夫妻と3人だけで行うのだから、決して楽な作業ではない。――田村さんは別のことを心配していた。いつまでも居候で甘えているわけにはいかない。今は農作業を手伝うことで不充分ながらもお返しをしているが、冬は比較的暇になる。先週2日間、紹介された大工さんの手伝いをしてきたが、その仕事も継続的にあるかわからない。早く近くの村営住宅にでも移らなければならないと思うのだが、と。つまり、何も心配は要らないということなのだった。――湯船で背筋を伸ばす。筋肉の張りが心地よい。
風呂の後、皆で鉄板焼きを囲む。ビールがメチャクチャうまい。注がれるままに飲み続け、過度に酔う。「半年もすれば俺を追い越すよ」と農家の方が笑う。20年間農業に携わっている人の自信とともに、田村さんへの信頼感が感じられる。さらにビールがすすむ。酔っ払った仲間同士が児童会館の運営をめぐって議論を始める。田村さんが現役ののじれんメンバーとして議論に参入する。野宿者などこの世にいるのか、と思えてくるような山と畑に囲まれた一軒家で野宿者問題について話す。さらにさらにビールがすすむ。……反省。
翌朝、労働力として予定されている仲間たちと別れて、私たちは丘の上にある空き地を案内してもらった。そこにある150坪ほどの土地をゆくゆくは田村さんに任せてもいいと所有者の人が言っているとのこと。田村さんが自分の畑を借りて生計を立てつつ、そこに自分の「城」を建て、仲間が適宜手伝いに来て、渋谷での炊き出しの材料を自分たちで作る――「のじれん農場」。想像は膨らむ。
帰り際にトラクターを運転する田村さんに出会う。別れの言葉を交わす。その後、わずか2時間で渋谷に戻る。街中を運転しながら、2時間とは思えない距離を改めて感じる。渋谷の野宿者は現在500名。1/500の「自立」……。野宿者運動は前進しているが、野宿者状況は悪化している。ベルトコンベアーを逆向きに歩いているようなものだ。では、私たちは出発点より先にいるのか、それとも後ろにいるのか?――平衡感覚を失って、遊ばせていた右手を慌ててハンドルに添える。二日酔いのせいか、頭が痛む。
束の間の、まったく束の間の休息だった……。
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