高橋鉄雄
本稿では、炊き出し・協同炊事の越年報告を行うとともに、普段『ピカうち』誌上で触れられることの少ない炊き出し活動について、簡単に紹介したいと思います。
・越年報告
今回の越年における、炊き出し・協同炊事は自由な雰囲気の中で和気あいあいと行われました。
前年、相当無理をしてほぼ一日3食を供給した結果大変な思いをした反省から、今年は一日1食として負担を軽減したことも、順調に作業できた要因になったものと思われます。
また、山谷をはじめとした各方面からのカンパ物資がメニューに花を添えました。この場を借りてカンパをいただいた方々にお礼を申し上げます。
以下、今年のメニューを簡単に紹介します。
29日 カレーライス ‥ いきなり初日から人気メニューのカレーで、最後まで息が続くかちょっと心配なスタート。
30日 親子丼 ‥ 去年はたまご丼と陰口をたたかれましたが、今年は肉倍増でそれらしくなった?
31日 シチュー ‥ 白いクリームシチュー。赤いビーフシチューとどっちにしようか迷ったが、牛肉は高いので・・・。
1日 雑煮 ‥ 昼間ついたもちで、正月らしく雑煮とする。
2日 もつ煮込丼 ‥ カンパのモツを使って煮込み丼。仲間の絶妙の調理で最高にうまい!!
3日 すいとん ‥ 昔の人には良い思い出のないというメニュー。でも今のすいとんは具沢山でおいしい。
4日 キムチ丼 ‥ 年末に大量に戴いた白菜のカンパを有効利用しました。構想から製作に要した期間3週間の大作です。
5日 鯛めし ‥ なぜか冷凍の焼き鯛のカンパが大量に・・・。正月らしく鯛めしでめでたい。
・社会運動としての炊き出し・協同炊事
《炊き出しや協同炊事のように、仲間、支援を問わず気軽に参加できる活動は、一般社会と野宿社会の幅広い連帯を構築する装置としても位置付けられる》
炊き出し・協同炊事では、皿を洗ったり野菜を切ったりすることには特別な訓練や専門知識が必要ないため、政治的な活動に対して積極的な関心がなくとも、仲間、支援者を問わず比較的気軽に参加できます。
このような活動(夜回り等についても言えることですが)は、仲間と支援者が共に活動を作り上げていくことにより、いわゆる社会運動等と縁遠い人にとって交流の場としても機能する、ということが言えます。
同様に、炊き出しに対するカンパも一般社会と野宿社会の接点の一つとして位置付けられます。
カンパ物資は単に物質的に生活を補助するという表面的な効用に留まらず、カンパ者と野宿当事者との間に目に見えない連帯の絆を構築します。
このような意味で炊き出しは、一般市民が物や作業を通じて比較的容易に野宿者への連帯を表明することを可能とする装置と言えます。
野宿者とそれ以外のいわゆる一般社会が、分断、断絶を余儀なくされている現代社会において、誰もが比較的容易に連帯を表明できる機会の存在は大変貴重です。
弱者を排除しない事が社会をより豊かにするという論理を自明のものとするにも、幅広い層(=活動家ではない一般の仲間、一般の支援者)が問題にかかわることが不可欠ではないでしょうか。
現状では炊き出しを通じた社会との関係性は、象徴的としかいえないようなつながりではありますが、活動を通じてより広範に仲間と共に行動し考えていくことは、野宿者が社会の埒外に置かれ続ける問題に対して抗していくためには、デモで訴えていくような活動と同様に重要であると考えます。
・炊き出しと人間の尊厳
《「餌取り」に見られる、「捨てる側対拾う側」という隷属的な関係性のもとで「食」が満たされざるをえない問題に抗するという意味において、炊き出しは人間の尊厳を回復するための活動と捉える事が出来る》
炊出しや給食以外の野宿の仲間の食料調達手段にはいわゆる「餌取り」があります。
「餌取り」の対象である「餌」とは廃棄された食品を指します。
かつては商品だったものが仲間の手に渡る時点では、もはや無価値となったゴミであり「食」ではなく(それらが実際に家畜の餌として利用されたこともあるように)「餌」なのです。
「日本では食えないことによって死ぬことはない」とはよく言われることですが、それを証明するかのように街には豊富な廃棄食品が存在し、マスコミもしばしば仲間の「餌取り」を豪華な廃棄食品の飽食として興味本位でとりあげます。
しかし、廃棄食品のみでは充分な栄養が満たされないのはもちろんとして、そもそも「食」は生きるために必要な栄養素を物理的に満たせばそれで良いのでしょうか。
それが衰弱した病人に対する栄養剤の点滴のように特段、意味付与がなされ得ない状況としてではなく「捨てる側対拾う側」という隷属的な関係性のもとで満たさざるを得ないのならば問題があると言わざるを得ません。
仲間があえて自虐的に「餌取り」と呼ぶことには、その行為に内在する問題をはからずも言い表してしているのではないでしょうか。
生命を維持するために不可欠な「食」という行為のなかで、人間が尊厳を損なうような行動を強いられることに問題の本質があると思うのです。
そこでは、自分が社会から省みられず無価値な存在であること、生きていくためには誇りを捨てなくてはならないことを、毎日の生活の中で繰返しかつ否応無しに確認させられます。それも、ただ単にお金を持っていないという理由だけで・・・。
この問題構造は物質的にも満たされない第三世界の貧困問題とも質的に何ら異なるところがありません。
炊き出しにおいては、一個の替え難い人間に対する尊敬を持って食料を供給する事によって、この状況を突き崩すことが可能となります。「あえて自分達のために用意された食」を無償で供給することが人間の尊厳の回復に寄与するのです。
・経済至上主義に抗する炊出し活動
《仲間が「餌取り」で人間の尊厳を傷つけられる背景には、市場原理主義の競争社会における、優勝劣敗というおぞましい論理の存在がある。炊き出し活動はそういった人間性不在の冷徹な論理に対するアンチテーゼとしてもとらえられる》
効率一辺倒の市場原理のもと、行き過ぎた経済至上主義が推し進められた結果、価値のすべてが金銭的な単位に還元されうるとするならば、資産を持たず生産にも寄与しない人間は無価値と規定されます。
また、競争論理においては、競争した結果として必然的に生まれる敗者の状況の悲惨さは、対照的に勝者を賞揚することで優勝劣敗のメカニズムを強化するインセンティブとなります。
そこでは敗者の悲惨であればあるほど、それが罰ゲームのような形で機能し「健全な」競争社会にとっては、むしろその状態を放置することこそが望ましいという論理すらリアリティーを帯びます。
結果として「野宿者は廃棄食品によって充分な栄養を得られるのだから社会的援助は不要だ」とか、「同じ条件でみんな頑張っているのだから怠け者に考慮する必要などない」という主張が正当化されるとともに、「公正」な競争に敗れたホームレスの、人間の尊厳などは考慮されなくても一向に構わないという結論が導き出されます。
生産に寄与しない無価値の人間には同じく無価値である廃棄食品を与えておけばよいということであれば、その根底には人間の尊厳ですら換金可能であるとする経済至上主義のおぞましい論理が垣間見えます。
無償で「食」を供給することは、人間性不在の競争論理に抗していくという意味において、経済至上主義社会に対して異義を唱える立場として位置付けられます。
その点において炊き出しは一方的な援助で自己満足を得るボランティアでも、プロパガンダの機会を作るための人寄せパンダでもない、社会構造に変革の要求を突きつける活動である、と捉えることが可能です。
・まとめ
《基本的人権を支えるための最低限の生活保障があるとすれば、「衣食住」については行政によって無償で供給されなくてはならないはずだが、増大する失業者に対して行政サービスが有効に機能することを期待するのはもはや絶望的である》
野宿者の「食」に関する行政の援助としては、現状はすずめの涙のような乾パン(またはパン券)支給程度にしか存在しません。
他方で本体的な役割を担う生活保護制度は、本来、経済的弱者のための施策であるにもかかわらず、経済的な困難のみの理由では窓口対応で100%間違いなく受給を拒否されるという皮肉な状況にあります。
このように最低限の施策すら満足に機能していない中で、さらに今後、市場原理に偏ったセーフティネットとして、比較的低コストで社会復帰の可能なタイプの失業者を中心とした対策が実施される一方で、野宿者に対して、ホームレス特措法に見られるように全く不充分な受け皿しかない中での公共地からの排除という形での施策がとられていくとしたら、野宿者に対してきわめて過酷な結果をもたらします。
(つまり、最小限のコストで再生しないような人間については、何も与えずに公園から路上に叩き出し、放置したほうが良い、と言っているに等しく、働けない人間に対して緩慢な死刑を宣告することに他ならない!!!)
このように野宿者を取り巻く社会状況が厳しさを増すなかで、仲間の生活を支えるという意味において有効に機能しない行政サービスに換わるものとして民間の援助が存在する意義は、以前にも増して重要となってきていると言えます。
渋谷のみではなく東京全体という範囲に目を向ければ、炊き出しや給食が野宿者の「食」を支える援助として、実質的な要求を満たすための質、量を伴った、単なる自己満足的なボランティア以上の内容を持った活動となっていることを見ることができます。
また、渋谷においては、支援者と仲間の関係を「与える対もらう」としないための努力として、仲間と支援者の協同作業によって活動が成り立っているということも、単なるボランティアとならないための努力として大切な条件となっています。
このような活動が、弱者を社会から排除したり、弱いが故に奴隷的に使役することで強者が都合良く利用するのではない、お互いが対等な関係としてともに生きることができる社会を実現するための一つの契機となっていくのではないかと考えます。
「リンゴカンパ」
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