のじれん・通信「ピカピカのうち」
 

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宮下梁山泊「なかまとの語り合い」

 のじれんでは、渋谷・宮下公園の集会場小屋にて、5月と6月にネパールやバングラデシュなどで貧困者の支援活動をされている田中雅子さん、およびフィリピンで居住権運動に関わっておられる小田川華子さんをゲストとして迎え、「なかまとの語り合い」の場を持ちました。
 
 国内外を問わず「もたざるもの」によって実践されている様々な取り組みについて知ることで、現状打開のためのアイディアを得たいと言う仲間たち自信の声で計画されたものです。
 想像力あふれる仲間たちの声をお聞きください。

田中雅子さんとの語り合い
 5月12日(日)/宮下梁山泊E邸(集会場)

 5月12日に宮下公園の仲間たちのもとに田中まさこさんという方が訪ねて来られました。
 田中さんはACHR(アジア居住ネットワーク)の前身のポンの会(という勉強会)に93年から参加されている方で、ネパールのスラム支援を4年、バングラディッシュで3年活動されているそうです。
 今回、宮下公園を訪ねて来られたのは、宮下公園の仲間に、ネパール、バングラディッシュのこと、そしてそれぞれの国で行われている様々な取り組みなどについて伝えるためです。

 宮下公園の仲間と公園で夕食をともにした後、早速公園の路上生活者自治会内の集会用小屋にて、田中さんの持ってきたスライドをもとにネパール、バングラディッシュでの取り組みについて説明してくれました。
 スライドを通じて異国の風景やそこに暮らす様々な人々の生活の様子が映し出されました。そこに移る人々は決して裕福であるようには見えません。しかし皆活力にあふれ、見ている私たちに元気を与えてくれました。

 日本には見られない物や習慣などを見聞きすることにより、私たちは多くの刺激を受けることが出来ました。
 とりわけ宮下公園に住む仲間たち皆の興味が集中したのは、「身分制度」でした。田中さんが紹介してくれたある村では、身分の低い人たちは、そこに池があっても、その池が身分の高い人の所有しているものであるために、その水を使えず、水を得るためにわざわざ山のふもとまで行かなければならないそうです。もし、その池から水を盗んだりすると厳しい罰則を受けるのだそうです。
 
 話が一通り終わった後、それを聞いていた宮下公園の仲間たちは「あれはこうした方がよい」とか「あれは宮下公園でも出来るかもしれない」などといろいろ意見やアイディアなどを出し合っていました。
 そしてみんな今回の田中さんの話について「とてもためになった」と感想を話していました。

小田川華子さんを招いて
於: 6/16 宮下梁山泊 E邸(集会所)

フィリピン?俺、行ったことあるよ!>
 フィリピンまで4月末まで滞在していた小田川さん。彼女は、貧困者のコミュニティー組織活動を行っているLOCOAやUPAといった団体を根城に、当地住民による居住権運動に数年間関与してきた。
 
 のじれんで以前フィリピンを訪れたときにも、大変お世話になった。日本の活動現場ではまだ語られることの少ないコミュニティーオーガニゼイション(住民運動における組織化手法:先号での解説記事を参照のこと)について研究し、自身京都で野宿者支援運動に参画している。
 
 梅雨入り直後のむしむしした天候のなか、宮下公園・集会小屋のなかは割合和やかな雰囲気。公園の住人8名と支援4名が集まったが、若い女性のゲストということもあって?男性陣の口は特になめらかだった。

 「フィリピンなら俺も仕事で行ったことあるよ。ジープニー(軍用ジープを再利用した一種の乗合バス)とかがバンバン走ってるんだよな」。
フィリピン・ルソン島の一角を占める首都マニラの位置を地図で確認しながら、ひとしきり盛り上がる。人口約1千万人、世界で二番目に大気汚染が激しい都市マニラ。
 
 話題は当然のごとく、都市の貧困地域・スラムへと及ぶ。汚染された川の上や巨大なごみ山の上にすんでいる人々。
 子供たちも大勢いる。なぜごみ山に人が集まるのか?もちろん他に住む場所がないからだ。ダイオキシンにまみれ廃品回収をする以外まともな仕事もないが、それでもなお人々は田舎での暮らしを捨て都市を目指す。
 ごみ山のあちこちでは廃棄物が自然発火している。山が崩れて大惨事になったこともあるが、事件後も環境改善は進んでいない。

 宮下の仲間たちはそんな異国のスラムの現状に少なからぬ関心を抱いた。 出稼ぎ、日雇い労働、廃品集め、そして失業etc.。居住権をも軽視された都市貧困層の追いやられている底辺の現実がそこにある。
 「途上国」のスラムと、スラムという言葉が日常化されていない「先進国」日本における野宿生活。話を深めるにつれ、ふたつのコンテクストの部分部分が重複してくる。

排除+再定住というストラテジー
 写真に見入る仲間たち。撤去地域と再定住地域の家並み。大衆行動・抗議デモ。ブルドーザーによって無残に壊された川沿いの家々の残骸を前に、しずかに立ち尽くす少年。
 「これ、撤去させられた人がすむ家? 結構いいじゃん」。
 再定住地域に建てられたコンクリートの家を指差す仲間に、小田川さんが微笑みをかえす。その家の壁は鉄筋が入っていない手抜き工事の代物だと聞いて、皆で「エーッ」と驚き呆れつつ、笑った。
 建築に通じた仲間は「鉄筋が入ってないのに窓はどうやってはめてんの?」とけげんな顔。
 検査はしないのか?政府の建築、監視してやればいいんだ。しかし誰がやる、皆食っていくために働いてるのに?
 公共工事はコネばかりでごまかしが多く、請負で建築をする人たちもやはり搾取されているのだと知ると、やはりと肯かされる。

 スラムから追い出された人たちは、再定住地域に移住し生活を建て直す。  五年の猶予期間の後は少しずつ地代を支払って土地を買収する。
 これがこの国のスラム対策。人里離れた再定住地域に立ち退きの心配はないが、しかし移住とともに人々は仕事を失い、生活は悪化する。
 生活基盤を崩す撤去・再定住(ないし収容)政策。日本のシェルター問題と同じである。四人家族だと生活費は、最低でもひと月で1万2千ペソ。
 なのに最低賃金はそれよりもっと低く、スラム労働者の賃金はさらにその基準以下。
 外貨稼ぎの女性も多く、児童売春などの問題に、日本人も無関係ではないことは周知のことであろう。仕事作りに向けて行政および支援団体がプログラムを作ったりと、努力はなされているが、なかなかうまくいかない。

運動の変遷
 こうした再定住政策が図られる以前、70年代は特に強硬な立ち退きが続いたという。
 スラム住民は(権力が定義する)不法占拠者としての自覚に立ってそのとき自衛策としての抵抗運動を始めた。
 立ち退きにまごついているうち、無力な個々人では対処できず、ブルドーザーが来てしまう。
 そこで集ってバリケードを張り、住民組織をつくり、マスコミ報道を背に抗議する。住民リーダーを先頭に目標を建てるのが第一。
 そして行政交渉でうまくやるための秘訣はシュミレーションと作戦作りだと小田川さんは説く。
 住民撤去を前提とした開発政策に資金を提供していたJBIC(日本国際開発銀行)と住民団との直接交渉等を、彼女も実際に実現してきた。

 そうした運動の発展段階で次第に人々の意識に変化が生じてきた。スラム居住者は確かに不法占拠者であるかもしれないが、それでも人として等しく住む(housing→living生きる)権利はあるはずだ。
 スラム=悪ではない。スラムは都市貧困層が強いられている生活実態であり、むしろ問題解決のひとつの形なんだ。そうした意識が培われるなか、貯蓄グループを作るなど、生活改善を目指す様々な試みが形成された。
 同時並行的に、地域を越えた運動のネットワーク化が進んだ。
 「どうやったら住民が力をあわせて共に問題を解決できるんだろう?」「行政交渉だって一人より集まったほうが力強いのは確か」。
 仲間の声は渋谷での彼らの経験を伝えている。しかしフィリピンでの運動は、すでに対立の構造から一歩踏み出て、政策作りへの住民参加が徐々に芽生え始めているようだ。
 通帳を作って半年毎に集まるセービング(貯蓄)事業、小規模ビジネスへの貸付け・生協・協同組合までを取り仕切る地域の住民活動に、政府もだんだんと信頼を寄せ、話し合いに応じるようになってきた。

貯蓄から仕事作りへ
 「あすなろ基金」。年明け以来、中断されている宮下公園自治会の共同貯蓄のことが、宮下公園で久しぶりに話題になった。
 現在、自治会「梁山泊」の中心を担う仲間の多くは、2002年始の越年行動時から集まった人がほとんどで、貯蓄の経験はない。
 「通い仕事を持っていない人はどうするんだ。貯蓄って言ったって出来ないよ」。「でも一日100円からでもいいんだって」。「お金がたまりさえすれば、それを資本に何か出来るかもしれない。
 
 仕事づくりだって、もしかしたら」。「じゃあ、やってみようか!?」「今やってる空き缶拾いだって、中間業者を介さなければもっと儲かるよ」。「どんな仕事だったら出来る?」。「小売業?許可をとるのが難しいよ」。「フィリピンじゃあ、制度が厳しくないから、製造業も可能かもしれないけれど」。「そうだ。あっちじゃ市場の穴が多いんだ」。経営トレーニングのための学習プログラムまであるという、フィリピンの住民コミュニティーの話を聞きつつ、仲間たちの想像はどんどん膨らむ。

 「うぅん、建築関係で仕事とってこようか」。「だけど建築やる場合は、建材等の価格表が毎年いるんだよ」。話が非常に具体的になってきた。「やるなら土木のほうが儲かるよ」。「介護保険制度に乗った介助の仕事とかはだめ?」「住宅改修費二十万くらいのリフォーム仕事だったら」。「壁塗りの仕事とか実際あったんだよ。アパート周りの清掃と植木の剪定とかね。テレビで紹介された後それ見た人が仕事お願いしますって。結局ほとんどやれなかったんだけどね」。「家の骨組みから直す必要のある仕事なんかは、とても受けられなかったよ」。

 「隙間産業に入り込むって言ったって、どこでも過当競争だ」。「しかし何をやるんだって、まずは意思がないと何も出来ないんだから、仕事をやるための条件を考えることが大切だ」。「何かをやるとしたら、そのために足りないものが何か考えていくことからはじめなきゃ」。そんな会話が仲間のなかで、ごくごく自然に進んだ。

「渋谷の歩き方」?
 話題は、国内での様々な取り組みにも及んだ。大阪朝霞での部落解放運動とか「蟻の村」というバタヤ部落があったのは知ってる?と支援のひとり。
 小田川さんは、生活保護受給者で構成された「京都希望の会」での取り組みについて話してくれた。
 生活保護受給者が入居する中央保護所という施設では最近、「希望の会」の働きかけによって、施設内の風呂場と洗濯機を路上に住む仲間たちに解放したという。
 
 これにより、生活保護制度からも締め出された路上生活者がサービスを受けられるようになった。
 行政・民間の協力がうまくいったひとつの例だが、これまでの日本の行政の取り組みが、路上からの排除と施設収容を前提としてきたことを考えると、路上に住む仲間が路上に住みながらサービスを受けられるというのは画期的なことだ。
 
 「自立支援センターや宿泊施設だって、路上の小屋を捨てて行かなくたって、ドロップインセンターみたいに、路上にいながら活用出来ればいいんだ」。「そもそも自立支援センターに東京の野宿者8000人全員が入れるわけじゃないんだから」。
 「官民関係なく、地域にある施設を把握しよう」とどこからともなく声が上がる。
 「どこに何があるか。いろいろな街の設備、利用できるかはわからないけど、うまく利用できりゃ俺たちにとっては資源なんだから」。
 日はすでに落ち、外は暗くなってしまっていた。いつになく話が盛り上がったせいで、皆時間がたつのを忘れていた。
 地域生活に根ざしたコミュニティー形成にとって、経験交流が力になることはこれまでも実感させられてきた。
 
 たとえ国を越え地域を越えても、底辺の生活現場では根の同じ問題を抱えているから、その問題に立ち向かい実現されてきた方策のひとつひとつが仲間に勇気を与える。
 支援が主導することによってではなく、当事者自身の動機づけによって生まれてくる模索のかたちの豊富さを見た寄り合いだった。自立支援法案の立法化が視野に入ってきた今、押しつけではない自立のかたち、仲間の希望を代替項として具体化し提示できるよう、現場での対話を続けていきたいと思う。



 


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