山梨県明野村のたまねぎ収穫 北村太郎
5月20日。山梨県明けの村で農業を営む早川さんの所では、たまねぎの収穫が始まりました。のじれんは毎年、早川さんからたまねぎの収穫の手伝いの仕事をいただいています。今年は渋谷の仲間3人に私を含めた4人で早川さんのところに行きました。
仕事の内容は地面からたまねぎを抜き取る作業や、たまねぎを束にしてしばったり、一定の重さに箱詰めしたりする作業です。
朝の8時くらいから、お昼の休憩をはさんで、5時くらいまで作業します。日給は5000円で食事3食に寝泊りする場所、そして東京からの移動費などを早川さんが提供してくださいました。私たちは5月20日から24日までの5日間、早川さんのところでお世話になりました。
<ものを「与える」支援ではなく>
たまねぎの収穫仕事という形での野宿者支援は、3年前の春から始められました。そのきっかけとなったのは、早川さんの知人である山田さんが毎週、野宿の仲間に斡旋してくださっている仕事があります(仕事に参加している野宿の仲間たちは皆この仕事のことを「山田仕事」と呼んでいる)。
山田さんはいろいろとのじれんをサポートしてくださっている方です。山田さんは毎週、のじれんの仲間のために仕事を用意してくれているのですが、用意すると言っても、山田さん自身が自営業を営まれているわけではなく、高齢の路上生活者などでもできるような、草むしりなどの仕事を見つけてきてくれ、その仕事を斡旋してくれるのです。
山田さんは仲間に支援をしようとするとき、ただ物を与えるより、仕事をしてもらって賃金という形で支援をする方がお互いに気持ちがよいと考えておられ、このような支援を始められたそうです。
こうした仕事斡旋の支援をする山田さんが目をとめられたのが、早川さんの農業の仕事でした。
山田さんの知り合いの早川さんは、有機農業を営んでおられるため、植付けや収穫のときに人手不足になることが多いのです。そこへ仲間の労働力が役に立つと山田さんは考えたそうです。
そしてまた農業という食べ物を生産する産業を体験することは、野宿者が自立生活への思いを一層深めるのに役立つのではないかと考え、早川さんに話しを持ちかけられました。それから始まったのが、このたまねぎ収穫の仕事というわけです。
仕事はなかなか大変でしたが、私たちが行った5日間は天気もよく、涼しい風が拭く気持ちのよい日が続いたので、心身ともにとてもリラックスすることが出来ました。また農作業の厳しさから、食べもののありがたみを感じるよい機会となりました。
<早川さんの有機農業>
私たちを快く受け入れてくれた早川さんはもともと東京でサラリーマンをしていたそうです。36歳のとき、スキー事故が原因で怪我をされ、1ヶ月ほどの入院をしました。
勤め始めてちょうど10年ほどたった頃で、その入院時に自分のことを見つめなおしたといいます。農業に出会ったのはちょうどそのとき、今から24年前の話しです。
早川さんは初め野菜作りよりも先に豚などの畜産を始めました。最初に始めた場所は千葉県だったそうで、畜産に必要な道具や設備を全部貸してくれるところがあったそうです。
一年そこで生活したのち、現在の住まわれている山梨県明野村に移られました。明野村でも家や土地を貸してくれるお知り合いがいらっしゃったそうです。
早川さんは当時、鶏も飼っていました。そのころは卵を週に一度、産地直送で東京に運んでいました。そのときに卵を買ってくれていたのが、前出の山田さんの団体でした。早川さんと山田さんの付き合いはこのときから始まったのです。
早川さんは畜産を17年続けられた後、農業(野菜作り)に転向しました。畜産を止めたり有は仕事が大変だったからだといいます。畜産の大変なところはどうしても生き物が相手なので心配ごとが絶えず、家畜から離れられないという点だそうで、そういう意味で精神的にも疲れるそうです。
早川さんは有機農業で野菜作りをしていますが、有機農業は化学農業に比べ、手間がかかります。
たとえば肥料などを手に入れるのも大変です。化学肥料であれば何種類もの肥料をそろえることが出来ますが、有機農業に使用する対比などは種類も不足しがちで、必要な量をそろえるのも大変です。
それでも有機農業を続ける理由は「土を汚したくないから」だと早川さんは言います。
毎年私たちを暖かく迎えてくれる早川さん、正直なことを言えば、私たち野宿者を雇うより、「シルバーボランティア」と呼ばれる老人の熟練労働者を雇ったほうが便利であるそうです。
にもかかわらず、知り合いの山田さんのやっている野宿者支援の活動を見て、その手伝いくらいになればと思い、支援を続けてくださっているのです。
<Tさんのこと>
今回、早川さんに農業と野宿者についていろいろとお話しを聞きましたが、印象深かったのはTさんの話しでした。
Tさんは私たちと同じように渋谷から早川さんのところにきた人で、渋谷から初めてこの収穫の手伝いをしに来た野宿者の方です。Tさんはとても仕事熱心でまじめな方だったそうです。
一時的な収穫の手伝い仕事をきっかけに、やがてTさんは早川さんのところで長期に渡って住み込みで働くことになりました。しかも早川さんのところで一年くらい仕事をしたあと、その仕事振りを買われたTさんは、大工に就職することが出来たそうです。Tさんは必死で働き、自らの努力によって自立を手に入れたのです。
しかしTさんはその後、早川さんの話しでは、気が緩んでしまい、お酒で自分をだめにしてしまったそうです。
早川さんは、Tさんがとても仕事のできる人だっただけに、以来、野宿者に対しての支援に少しばかり消極的になってしまったといいます。
もしもTさんの前例がうまくいっていたなら、他の試みもいろいろと考えられたかもしれないけれど、支援一人目にしてつまづいてしまったことが早川さんを消極的にさせたのでした。
<人間を生かす「仕事」と「夢」>
Tさんの話しとは別で、この収穫の労働のことで早川さんが感じておられる疑問があります。それは、たとえ早川さんのところで5日程度の短期間の労働の賃金を得られたとしても、その人が野宿生活から脱却するということには大して役立ってはいないのではないか、短期間労働をして(なにかを)「やっているような気」になっているだけなのではないか、ということです。
5日間の労働によって得られた賃金も、結局は見通しの立たないその場限りの支出によって消えてしまう。
早川さんはそうしたことの原因に、野宿者自身の生活に将来的な見通しというものがないことを挙げておられました。
見通しを立て、見通しのあるお金の使い方をしていくためには、しかも「まとまったお金」が必要なのだ。
早川さんは3年間野宿者と関わってこられるなかでそんなことを考えるようになったといいます。野宿者に限らず一般的に人間に必要なものは、お金をためることの出来る仕事と、その仕事があるからこそ考えられる「夢」なのではないか。早川さんは私たちにそう教えてくれました。
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