韓国における協同共同体型住民運動の経験
全泓奎
1.住民協同共同体のまちづくり
韓国はソウル市にあるという行政区に位置するある貧困層コミュニティは、長年都市再開発事業によって居住の危機にさらされてきたが、1999年からようやく公共賃貸住宅に入居することになった。1993年3月の再開発事業認可に対抗して5月に「借家人(間借りも含む)対策委員会」を結成し、たたかって来た結果である。権利は誰に対しても当り前に与えられるものではないということを彼らは長いたたかいの経験から知った。しかし彼らのたたかいは権利要求ばかりではなかった。現在住んでいる賃貸住宅団地の近辺には、彼らが作った「住民銀行」や「協同作業場」、またはそれらと柔軟な関係を保つ「自活後見機関」という貧しい住民の自立のためのセンターがあり、住民が政府から委託されて運営している。
住民が出資し、自ら運営している文字通りの住民銀行は、正式名称を「ノンコル信用協同組合」(ノンコル=田んぼの村。昔、田んぼが多かったという地域の特色を活かして名づけた。)といい、どの地域よりも貧しい住民や零細商人が多く住んでいるこの地域で住民の大きな支えになっている。例えば賃貸住宅に入居する際、敷金の負担にあえいでいた住民の苦しみを緩和したのもこの銀行であり、また銀行から助けを受けた住民自身も銀行の組合員である。
共同作業場は正式には「ノンコル衣類生産協同組合」といい、地域に根付いた運営を行っている。幾度か失敗も経験しているが、作業場で働くみなが主人であるという意識のもと、起きあがりこぼしのように再起している。最近はこれまでのような請負業ではなく独立したブランドを作るなど、より自立に向けた動きがみられている。
また、そのようなコミュニティ活動が他の貧困地域にも伝えられ、現在では一つのパターン化された方法として展開されている。(ソウル北部のドルサン・マウル(=石山村)、西部のムアクマウル等の貧困地域では、コミュニティの住民と共にワークショップを開いている。またマウルのコミュニティづくりの一環として、それまで他の地域や事例の経験から学んだ教訓やアイディアをもとに「住民協同共同体」の実現のための活動を行っている。)
しかし上記のような活動は突発的に現れたのではなく、実はその前史によるものが大きい。言うまでもなく、共同体作り型住民運動の嚆矢であるといえる事例はソウル市郊外にある「ボグンジャリマウル」(ボグンジャリは「懐かしい我が家」というような意味と、宗教的な意味も含む表現)である。この「ボグンジャリマウル」は1977年、撤去を控えていたスラム地域住民の集団移住によって形成されたマウルである。土地購入のためヨーロッパのNGOから資金援助を得て、住宅ローンを受け、住民が自力建設によって住宅を建てた。1年後には上・下水道工事も完成させた。「ボグンジャリマウル」は住民共同体を目指し、みんなが互いに助け合いながら住宅を建設した。またコミュニティ形成のため建築期間中やその後にも「住民教育」「祭り」「信用協同組合づくり」「生産協同事業」「奨学金助成事業」「バザー」「村の改良事業」等、入居した170世帯の相互扶助のための活動に活発に取り組んでいる。また住宅を建てるために受けたローンは全員・全額返済を済ませた。このコミュニティは今でも健在している。
現在貧困地域で代表的な運動方式の一つになっている「協同組合型アプローチ」が一般的になった背景には、実はそのような前史があったのである。
2.抵抗型からオルタナティブ型へ
韓国はどの国とも異なる激しい経済成長を成し遂げて来た国だと言えよう。しかし経済への成長が貧困解決にも繋がるとの期待は時代の流れと伴に空虚化していった。
成長中心的な開発は、貧しい者が持ちつ持たれつの関係を保っていた住民コミュニティを跡形もなく解体させてしまった。いくら立派なマンションがその後建てられたとしても、元々存在していた、互いに助け合えるような「コミュニティ」までも移転することはできない。韓国で土地の効率的な高度利用という経済的な戦略のもとに進められてきた都市再開発事業によって追い出されることになった住民達の抵抗の歴史は長い。
初期型の抵抗として1970年代頃、都市再開発ではなかったが、不良住宅の整備を名目に追い出され郊外に強制移住させられた人々による抵抗があった。しかしその当時はほとんど非組織的であり、単発的な暴動として終わった。しかし1980年代に入ると再開発事業自体も政府の手から放れ、建設資本の参加によって進められる資本主導型の「合同再開発」に事業手法が変わってくる。それにともなってこれまでとは異なったより激しい撤去や人権問題などが引き起こされ、社会的な注目を浴びるようになった。その中で対策もないまま強制執行される撤去に反対し、「居住権」や「対策」を求める住民の組織が出来始め、さらに各地域とのネットワークも生まれて、1987年には「ソウル市撤去民協議会」という撤去運動の当事者組織が創立される。続いて1990年には「住居権実現のための国民連合」というもう一つの撤去民運動の当事者組織が創立される。このときから韓国の居住運動は二つの流れを示すようになるが、それは要約すれば「抵抗型」と「オルタナティブ型」に分けられよう。前者の場合、居住権運動に政治的要素が深く入り込んでおり、住民を「動員」して民衆革命を遂げるというような意図が一義的な問題となる。そこであたかも全民抗争のごとく運動は展開され、その過程で住民がケガをしたり、時には命さえも失われるなど、住民の被害が次第に大きくなりつつあった。後者の場合は闘争が目的ではなく、あくまでも「居住権」をメインにして闘いながら、コミュニティをどのように形成していくかを主な議論の対象にしてきた。その代表的な事例が先に紹介した城東区の「住民協同共同体実現のためのーー企画団(以下、企画団)である。企画団は住民同士がこれまで住んできた土地にもともとあった共同体文化を生かし、引き続き住みつづけるために共同体を再形成するという目標を撤去闘争の当初から掲げながら活動してきた組織である。
地域が徐々に撤去され、常にヤクザによる強制撤去の危機に遭いながらも、住民共同体実現のために絶えず住民教育やコミュニティの未来形に向けたワークショップを開き、住民と共に議論し合いながら作ったのが「協同共同体方式の住民運動」であった。企画団の中にはいくつかの地域借家人組織が入っており、さらにその組織から参加する何人かの住民リーダーやコミュニティ・オーガナイザーによっていくつかの分科会が構成されている。
分科会の内容を見ると、まず将来安定したコミュニティを形成した後の「信用協同組合(住民銀行)」設立を準備するために作られた「経済協同住民共同体分科」、住民が持っている技術を生かし、今後の仕事づくりに自立的に取り組むために作られた「生産協同住民共同体分科」、以前から地域で住民組織化と共に活動してきた「勉強部屋」(地域の不安定な状況の中、教育が損なわれている子供のためのセンター)、「お母さん教室」(貧困問題と女性問題という二重の束縛を受けている婦人のためのセンター)などを、地域が開発された後でも地域の中で展開していくための「社会福祉住民共同体分科」、また住民の生活における共同体的な運営を図っていくための「生活協同住民共同体分科」等である。
このようにして進められてきた各共同体分科は、今や正式に住民銀行として発足し、「ノンコル信用協同組合」(99年4月現在、組合員数850名、資産総額約8千万円、出資総額約3千3百万円)と名づけられ、独立ブランドを生産する規模にまで成長した「ノンコル衣類生産協同組合」を始めとして次々と地域の共同体作りを進めている。
前章で紹介したように企画団の事例は、住民共同体運動の嚆矢でもある「ボグンジャリマウル」からの影響も受けており、また撤去民運動、住民運動の展開に伴った運動の自己発展的成長という意味も持っている。つまり居住権運動の一環として、みなが一緒に自分が住んでいる土地で住み続けられるための協同共同体型住民運動を展開してきたのである。なお他の住民組織へも運動の手法などが伝えられていく中で、企画団の活動は絶えず発展と拡散を遂げる運動の見本にまでなりつつある。また、韓国の住民運動の中でも「オルタナティブ型住民運動」への傾向が目立つようになってきているのは言うまでもない。
3.運動がもたらした効果
1) 住民意識の変化(ビデオ、『もう一つの世界‐ヘンダンドンの人々2‐』からの聞き取り)
「オルタナティブ型住民運動」としての「住民協同共同体運動」は、ただ単に外形的な意味としての運動の発展としてだけでは語りきれない。その運動に参加してきた「住民」の意識変化こそ最も大事な結果であることは言うまでもないだろう。
ここで実際この活動に参加してきた「オーガナイザー」や「住民リーダ」等の感想を聞いてみよう。
○ 「貧困は一人では乗り越えられない、みんなで一緒に力を合わせて取り組んだ時、ようやく道が見えてくるのだ。協同組合方式は貧困者にとって突破口になり得る。このような方式がそれでも我々にとっては一番簡単な方法ではなかろうか。」‐この人は最初スラムで活動をし、その後「ボグンジャリマウル」で生活しながら信用協同組合活動に携わってきた。80年代後半からは城東区に家族と共に移り住み、最初の組織化活動の中心メンバーとして活躍したコミュニティ・オーガナイザーであり、住民と共に賃貸住宅に入居して今も活動している。
○ 「自分自身が完全に変わった。」‐衣類生産協同組合の代表を努める住民リーダー
○ 「馴染めないソウルの都会生活であったが、この運動を通じて励ましあえる仲間がいることを知ってよかった。この運動に参加しなかったら自分と家族しか知らなかっただろう。」‐住民(女性)
○ 「貧困に対していらだったり回避したりするのではなく、正面から楽しく受け止めて、貧困の中でも生きがいを持ち、幸せな人生を過ごせるような方法は必ずあると思う。」‐住民リーダー(代表)
2) 地域への広がり
○ 村から地域へ
最近は近辺の住民の参加が目立つ。共同作業場は元撤去民以外の地域の住民も組合員として参加している。信用協同組合でも地域住民や零細商人たちの参加が増えてきており、名実共に地域住民の身近な銀行になっている。また、マウルの祭りはほかの市民団体とも協力しながら毎年一回も欠かさず行われており、今では地域の祭りとして定着している。その他にもこれまでマウルの中で運営されてきた各プログラムをより地域に広げ、他の住民と共に分かち合えるように工夫しながら運営するなど、まさに地域共同体として地域の中に根付いている。
○ 経験から学びあう。
協同組合型の運動がある程度成果をあげるにつれ、他の地域から住民組織の見学や交流または講師として呼ばれる場合もよくある。協同共同体型のオルタナティブ型住民運動モデルは、居住権運動の一つとして、住民が住み続けられるための共同体作りに大きな力を与えている。
4.貧困克服のための共同体運動
上述したような協同組合型共同体運動は、貧民運動、住民運動だけではなく、さらに97年末から韓国経済を襲った経済危機による失業問題やホームレスの問題に対しても適用されるようになってきた。
例えば国民基礎生活保障法に基づいた自活公共勤労事業の中でも「自活生産共同体」を育成する方式がとられているが、それはまさに貧困地域のコミュニティ活動として行われてきた協同組合作りを取り入れたものである。(後述するヨーロッパの社会的企業論からもアイディアを得ている。)またホームレスのシェルターでも、「自活生産共同体」づくりを通じて自立への道を図る方式が模索されている。
1)住民運動における協同組合型取り組み(住民運動・貧民運動については便宜上特に区分せず使うことにする。)
1990年代半ば以前にも貧民運動の中で協同組合型のアプローチを先駆的に実施した事例があり、その中のいくつかはすでに失敗しているものの、90年代以降比較的新たに挑戦しているグループにとってよい見本になっている。事実上記の企画団も下記の90年代以降の活動も、全て90年代以前の試みと試行錯誤の前史があってこそ初めて存在するのだといえよう。
@90年代半ば以前
ボグンジャリ信用協同組合(銀行及び貯蓄活動、1978)
ドゥレ協業社(1990)
イルクン・ドゥレ(建設日雇い協同組合、1991)
シルガバヌル(糸と針、縫製協同組合、1992)
ナソン建設(建設日雇い協同組合、1993)
ナレ建設(建設日雇い協同組合、1994)
A90年代半ば以降
ハンソッパ弁当共同体(生産協同組合、弁当作り及び販売、結婚式等の料理)
ソルセン・イルト(縫製協同組合)
プルン環境コリア(労働者協同組合、清掃及びビル・メインテナンス)
建設労働者協同組合ビジョン(建設日雇協同組合)
ナヌム物産(縫製協同組合)
2) 失業問題やホームレスの問題における協同組合型取り組み‐「協同組合型自活生産共同体」(以下自活共同体)の実験
前述したように、97年末に韓国の社会・経済を襲った経済危機による失業者やホームレスの急増、貧困問題の深化は、各個人の努力や意志だけでその状態を乗り越えるには限界があるということを証明するものでもあった。また、99年後半から景気回復の兆しが見えるようになったにも関わらず、低所得層やホームレスの人々が貧困状態から脱け出していない事実も明らかになっている。そのような中、自活のための「個人の努力と意志」に社会的支援を結合させる方向性が唱えられ始めるようになり、それに伴い「自活共同体」は貧困者の自活事業として広く取り入れられるようになった。そこではただ経済的な自立が目的になるのではなく、「低所得層の労働者たちが主体になり、所得増大を通じたクォリティオブライフの向上、共同体精神の回復、地域社会との連帯という目的を達成するため設立された生産単位」として、労働者生産協同組合の形をとっている。それはまた西欧の「社会的企業」とも趣旨を同じくしている。「社会的企業」とは、「民間部門の合法的企業形態及び経営モデルと公共の財貨及びサービス提供という目的を結ばせたものであるが、その位相や組織形!
BV$K$*$$$F$O<R2qE*L\E*(Social Purpose)を強調する」企業である。1995年ベルギーを始めとして本格的に現れた社会的企業は、イタリアの社会的協同組合(1991年「社会的協同組合」制度化、一般の協同組合が組合員の利益を中心に置くのとは異なり、社会的協同組合は共同体の普遍的利益のための協同的企業を意味する。清掃請負、リサイクル、建設業等低技術等失職者に参加しやすい分野を中心に仕事を作り、長期失職者に提供している。仕事の半分以上(53.6%)は自治体から得ている。政府の直接補助も全体収入の8.4%を占める)、フランスの社会的企業(民間団体による仕事提供、独居老人の生活サポート、低所得層の子供の学習指導、自然災害復旧や予防活動等第3セクター分野で雇用を創出している。)、その他にもイギリスの地域社会協同組合等がこのような形態をとっている。
韓国における「協同組合型自活生産共同体」は、国民基礎生活保障法の自活給与受給者を中心に取り組まれている。行われている仕事の内容を簡単に紹介すると、次のような2つの類型に分けられる。
@ 公共勤労民間委託及び特別就労事業
〇無料看病人派遣事業:病院に入院されている生活保護者や低所得住民の中でサービスが必要な人に看病人を派遣し、サービスを提供する。
〇森の手入れ事業:急増する失業人口を営林事業へ投入することによる雇用創出を通じ、失業対策に寄与する。また緑化された森をより価値のある経済・環境資源として助成する。
〇家屋修理事業団:地域内の低所得失職者の中で建設業の経験を持つ人と野宿者が共同で運営し、生活保護者や障害者の家屋修理、住環境改善または雇用創出に寄与する。
〇飲食ゴミリサイクル事業
A 創業型
〇縫製業ナヌム(=分かち合い)物産、オッヌリ共同体等
〇弁当生産・配達業:ハンソッパ(=共同運命体)
〇洗濯業:アルンダウン・セタク・ナラ(=美しい洗濯の世)
〇清掃請負業:ヌルプルン・サラムドゥル(=いつもきれいな人達)、プルン・ハンギョン・コリア(=きれいな環境の韓国)等
〇建設業:(株)マポ建設
その他
5.協同組合型取り組みの含意
韓国における協同組合型住民運動の取り組みは、これまで述べたように長い運動の流れの中に位置している。また上述したように、居住権運動の延長線上で、住民同士による住み続けられるための共同体作りとして、住民の参加とプロセス重視型という脈絡の中で取り組まれてきたものである。
また1997年末からの経済危機による失業者や野宿者の急増等、貧困問題の深化と、その解決のための対策の一方法としても、上記のような貧困地域での実践が高く評価され、取り入れられるようになった。
これまでのように自分の能力によって誰でも豊かになれるという自己責任的な立身出世主義が幻想に過ぎなかったことや、またその幻想に甘んじて国民のセーフティネットづくりを怠り、成長中心の政策ばかりを強行しようとしていた政府の職務放棄は、経済危機に直面することによって明らかになった。
社会的なリソースに手が届かない貧困者がより貧困な状況に陥ることは、決して自分の能力不足のせいではない。彼らはこれまで、家族や国家のために自分の身体を酷使してきた人々でもある。
韓国の住民運動における協同共同体型住民運動の試みは、住民自らによる社会的・人的セーフティネットの構築や、リソース作り等の可能性をも示唆している。各個人が手を結び合い、貧困問題やコミュニティ作りに取り組んでいる姿は、ある種荘厳な雰囲気さえ漂わせている。貧困、失業問題自体は、現代都市社会が生み出したコミュニティの瓦解によって現れた現代社会の副産物でもある。したがって、「仕事を得て、お金を稼ぎ、住居を構えることさえあれば、貧困(もしくは失業・野宿)は克服できる」とはもはや言えないのかもしれない。つまり結論から言うと、貧しい人同士の仲間作り、共同体作りを貧困者自らの力に取り戻すための試みが必要であり、それを培っていくべきである。そのような貧困者のコミュニティを地域の中で再構築していくこと、またそのネットワークを組んでいくことこそに、貧困解決の真の意味があるのではなかろうか。韓国の協同共同体型住民運動の経験はまさにそれを物語っている。
ホームレスの問題にしても、施設へ入所させ、仕事と屋根を得て自立させるというような極めてトップ・ダウン式の政策でなく、コミュニティの復興会を開き、より強い仲間作りを支援し、彼らのどこかに潜在しているコミュニティ志向性を引き出し、それに社会的リソースを与えるというような方向性が求められているのかもしれない。
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