のじれん・通信「ピカピカのうち」
 

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「排除」に抗して


―フィリピン・ピネダ地区住民の勝利に学ぶ―

木村  正人

 <はじめに>

 11月26日から12月2日にかけて、フィリピンにおけるスラム居住者と野宿者の さまざまな取り組みに学んできた。唐突な話ではあったが、都市貧困層の居住権 をめぐる国際キャンペーン(Land Secure Tenure Campaign*ピカうち本号掲載の 別稿参照のこと)がらみで、私を含めのじれんからふたり、釜パトからひとり が、日本の野宿当事者団体を代表してアジア居住ネットワーク(ACHR)に招か れ、そこでアジア諸地域からの参加者たちを前に、日本の野宿者問題についてア ピールする機会も得られた。以下では、今回見聞してきた多くのうちから、とり わけ強制排除にかかわる一事例を取り急ぎ紹介したい。上野公園や大阪・長居公 園など、日本でも排除を断行する行政側の動きが切迫した問題となっており、排 除を差し止めたフィリピンでの事例を共有することで、こうした日本での動きに 立ち向かっていく決意と戦略を固めていきたいと思う。  


 <パッシグ川流域ピネダ地区> 

 メトロマニラを貫流するパッシグ川は、11の市町を抜けマニラ湾に注ぐ、幅50 メートルの大河である。この川沿いにおよそ27、000の家族が、「不法占拠者」 として住屋を構えている。70年代にパッシグ川の水質汚濁問題が取りざたされて 以来、行政側は河川周辺の環境浄化計画を進めてきたが、こうした計画の進捗に よって、川沿いに住む全ての「不法占拠者」を強制退去の対象とする目論みが、 次第に現実のものとなりつつあった。今回訪れたのはそうした河川沿いの一地区 であるパッシグ市ピネダ地区。この地区だけで約2、000の家族が生活を営んでい る。  


 <パッシグ川環境浄化計画> 

 エストラーダ大統領によってパッシグ川リハビリテーション委員会(PRRC)が 設置されたのが99年1月、パッシグ川の環境浄化計画の物騒な具体的内容が明ら かになった。「計画目標:2000年までに不法居住者家族10,000世帯を転居させる こと。1999年--3,182家族。2000年--6,818家族」。この「河川リハビリ計画」 が、川沿いにすむ「不法占拠者」の強制排除と抱き合わせになっていることは、 もう明白であった。計画は更に川の両岸10メートル幅の土地を「危険地帯」もし くは「環境保護地帯」とし、そこには線状の公園と歩道が、また10メートルを越 える周辺の土地を都市再開発地域に指定し、住宅やデイケアセンターなどの諸施 設を建設するとしている。こうした土地はみな、現在「不法占拠者」たちが住宅 をもち、実際に家族生活を営んでいる場所である。 

 この計画に住民側が強く反対してきたのは、なによりもまず、事前に住民達と の話し合いの場が設けられなかったこと、そして政府計画にある10メートルとい う数値に法的な根拠がないこと(法律で護岸のため居住が制限されているのは川 岸3メートルの地帯である)、再開発による住宅建築に様々な問題が含まれてい ること(資材調達過程の不明瞭なコスト高、土地所有の権利が得られないなど) とさらには、そもそも建設される住宅が居住者として見込んでいるのが、必ずし も現在そこに住む住民達ではない可能性があることなどである。強制退去後の移 転地として行政側が指定している、モンタルバンやインカヴィテ地区(どちらも ピネダ地区からは片道1時間以上離れた郊外)も、居住環境の粗悪な土地である ことが明らかになっている。 

 ピネダ地区では居住当事者たちが結束し、コミュニティーを形成することで、 こうした排除の動きを牽制してきた。彼らは、管轄行政区の役人や地域の警官な どから日常的に嫌がらせをうけながらも、それに屈することなく、あるいは法に 基づく3メートルの護岸区域を自主的に明け渡す代替案を示すなど、常に建設的 な歩み寄りの努力をしてきた。にもかかわらず彼らの声はまったく聞き入れられ ることがなかったのである。 


 <9月26日 強制排除断行> 

 強制立ち退きが近々行われるとの噂は、住民達の間にすでに流れていたらし い。とはいえこの時の行政側の動きはあまりにも唐突であった。住民側との事前 の話し合いの場がなかったばかりか、住民の退去・移転にともなう準備期間さえ 考慮せず、行政は立ち退き実施予定日の前夜、今年9月25日に突如退去勧告を出 した。 

 不意の強制排除断行は、当然のごとく大きな混乱をひきおこした。警察権力と 大規模な排除組織が導入され、その際70歳の病弱の女性が死亡、4人が怪我、排 除を断行した当局側にも死者がひとり出るという惨事となった。住民コミュニテ ィーやNGO諸団体などの強い抵抗にも拘わらず、結局277家族(政府発表。住民側 の推定では約400家族)が強制的に退去させられた。 

 ピネダ地域は不法占拠地域といっても、フィリピンの他のスラム地区とは比べ ものにならないほど、本来は街並みが整然としている。家々もコンクリート製な どしっかりした造りで、行政がそれらを一挙に暴力的に破壊し、住民を退去させ たとは、にわかには信じ難かった。だが現場を訪れると実際私たちが目にしたの は、川岸10メートルの幅だけブルドーザーで強引に取り壊しが行われ、家屋の残 骸のみが残る生々しい排除の痕跡だった。 

 退去させられた277の家族のうち、行政側が用意した転居地域に移り住んだの は、そのうち167家族にとどまる。住宅が撤去させられた場所に戻り、野宿生活 を強いられている家族も、30家族を越えた。転居地は以前から住民側が指摘して きたとおり、都市部から離れた地域で職住環境が整っていないどころか、学校や 病院などの施設もままならない。事件をきっかけに1,000人の子供が、学校に行 けなくなった。転居先の学校では教室が一杯で、子供達は椅子を家から教室に持 っていかなければならないという。移転に伴う政府からの支援も、申し訳程度の 食糧が一時的に配給されたきりであった。 


 <住民コミュニティーの反撃> 

 当初から、強制排除とそれに伴う移住地の整備等(これらは「河川リハビリ計 画」の「離陸活動」として位置づけされている)に、政府は2000年国家予算の40 億ペソ(約92億円)を計上し、さらにアジア開発銀行(ADB)から79億ペソ(約 181,7億円)の融資と技術協力を見込んでいた。計画書の詳細を追っていくと、 パッシグ川の水質浄化と近隣住民の生活環境改善を一方で謳いながら、観光客招 致などの商業的諸目的に寧ろ主眼が置かれ、計画実施の過程では当地住民の要求 などは二の次、ましてや不法占拠者の除去は当然という政府の傲慢な姿勢があか らさまに見て取れる。 

 こうしたやり方によって、水際に立たされた住民達が講じた窮余の策が、この 「リハビリ計画」を援助する国際的組織であるアジア開発銀行に対する、支援の 差し止めの要求活動であった。 

 アジア開発銀行は、その支援対象となる都市開発計画の内容について、幾つか のガイドラインを定めており、事業実施にあたっては充分な情報公開と当事者と の協議、また住民退去を伴う際には環境整備された再定住地が確保されることな どが、資金援助の条件とされている。ピネダ地区の住民たちは、こうした指針 が、今回のパッシグ川リハビリ計画に関して遵守されていないことを指摘し、援 助差し止めを迫ったのであった。  

 当該住民達のねばり強い努力と、彼らの取り組みを支持する国際的な連帯の力 によって、開発銀行は遂に10月、住民の側に立った。フィリピン政府に対し、援 助差し止めと住宅破壊行為からの即時撤退、さらには転居地域の生活環境整備を 含む計画全体の見直しを要請するに至ったのである。ここにピネダの住民たちは 強制排除の暴力に対し、草の根の力で打ち勝った。強制排除はストップし、ピネ ダ地区の立ち退き計画は暗礁に乗り上げた。現在、転居させられた家族が、次々 と川沿いのもとの居住地に戻ってきて、住宅の再建設を始めている。 


 <私たち自身の行方> 

 フィリピン・ピネダ地区住民の境遇を、急ぎ足で概観した。いまそれらに重な るように、私たち自身直面しているのが、上野公園、長居公園での排除の危機で ある。環境整備にかこつけた立ち退き命令、名ばかりの転居先、当事者不在の政 策などなど類似点は多い。無論、ピネダの仲間がとりえたのと全く同じ事態の収 拾策を、私たちは持たない。だが私たちが排除に抗し、貧困に生きながらも人間 としての尊厳を勝ちうるために、たとえ具体的に応用可能な方途ではなくとも、 有効な鍵となるなにかを、彼らに学ぶことができるのではないか。  

 私たちが今回出会って話を聞いてきた住民コミュニティーのメンバー達はそも そも、政治運動の活動家でもなければ、NGO組織等の支援者でもない、所在する 問題に巻き込まれた当の住民自身であり、ピネダの生活者たち自身である。彼ら はそれぞれが様々な理由から、その地に逃れたどり着き、たまたまそこに生活の 場を見いだしていたに過ぎない。しかし排除という政治的で巨大な力に脅かされ たとき、彼らはまごうかたなく即座に連携の陣を固め、身を守るために互いの手 を取り合って状況に立ち向かったのである。話を聞きながら、彼らのうちに共働 と連帯が生じてきた力動的な過程を、私は生々しく感じとっていた。  

 様々の理由で住居を失った都市貧民層、野宿者やいわゆる「不法占拠者」をめ ぐる状況の厳しさは、国を問わず変わりがない(というよりむしろフィリピンで は「富裕な国日本に野宿者が存在するのか!」といつも驚かれた。)路上におい て私たちが苛酷な生活を強いられながら必死に毎日を生き抜いていること、しか もそうした私たち「持たざるもの」の社会的配置を、冷厳に基礎づけ決定づける ような圧力が、私たちを取りまく社会全体の構造のうちに根深く作用するもので あること、そして私たちが貧困による生命の危険のみならず、つねに社会の局外 に立たされ迫害にさらされてきたこと。そこにはさまざまな形での「排除」が存 在し、「排除」が有する暴力がある。 

 「排除」に抗して、かつては孤立し余りにも弱かった渋谷の仲間が、少しずつ 寄り添い合うようにして力を蓄えてきた。結びつくことで生まれる力を私たち自 身体験してきたと思う。そしてこうした連帯の方向性は、なにも反強制排除とい う活動だけにはとどまらない可能性をもっている。そこに形成されたひとびとの 紐帯が、さまざまな「排除」を乗り越え、さらにいかなる結実を生むのか。居住 権闘争における先進国フィリピンでの取り組みを、次号でさらに詳しく報告す る。 

 


(CopyRight) 渋谷・野宿者の生活と居住権をかちとる自由連合
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