(二月十七日、東京地裁六二七号法廷にて)
◇は国側の質問に、◆は原告側の質問に答えた部分。
◇自分は一九九二年十月一日より警備第5課配属。被収容者は当時220名前 後で定員を超えていた。第一見張所と第二見張所に職員が3名づつ、自分と係 長が第5警備係の事務室にいた。自分の職務は監視カメラと巡回、職員への指 示。
◇五月六日午前十一時の騒擾事件のときは事務室にいてモニターを見ていた。 Dブロックの廊下でほうきを持ったイラン人と職員が小競り合いしていると見 えた。Dブロックの方へ行った。看守は武器は携帯していない。警棒を備えて あるが手に取った者は一人もいなかった。Dブロックについた時各居室から被 収容者が鈴なりになって小競り合いをけしかけていた。ほうきを持ったイラン 人と職員が小競り合いをしていた。騒ぎになった原因は、前日の騒擾事件(自 分は当番ではなく、引き継ぎの際、別室に隔離収容中のイラン人が耳を切られ たと大騒ぎし、雑誌や弁当箱に火を点けて騒いだと聞いた)に抗議したのか、 味噌汁を投げたイラン人がおり、別室に連れていき、掃除をするためイラン人・ フィリピン人を外に出したところそうなった。
◇Dブロックの収容者をなだめ部屋にいるよう言った。非常ベルが鳴って応援 の職員30人くらいが駆け付けた。主に2課3課の職員。この際アムジャディ はDー2号室。詳しい行動は分からないが大きい声でBブロックの人と話して いた。駆け付けた職員が言っても聞かず叫んでいた。騒ぎを扇動しているよう に見えた。その後の詳しい状況は知らない。
◇各部屋から1名ずつ別室に連行して話を聞いて説諭した。その後騒ぎは収まっ た。アムジャディが連れていかれるところは見た。両腕を取られていたが自分 の足で歩いていた。自分はその場に残り、様子を見、落ち着いたあと、取り調 べ室に行った。
◆隔離室のほか保護室が3部屋。広さは4畳くらい。床を掘り下げた便器と洗 面台がある。便器に囲いはない。手洗いは外から操作する。水洗は第一係所に 頼む。鉄ごうしに金網が張ってあり、3方はコンクリート。床は何かの上にビ ニールシート。3方に窓はない。
◇アムジャディは一番手前の取り調べ室にいた。アムジャディは部屋の中央に 正座し、職員が取り囲むように5、6名。正面の職員が説諭していた。日本語 が分からないのか、突然立ち上がり鼻と鼻があたるくらい顔を職員に突きつけ た。暴行に及ぶ可能性があると思った。立つや否や両側から肩をくるむように し前に引き倒して制圧した。うつ伏せにしたあと、後ろから手錠をかけた。そ のあとは抵抗もせず、声も出さなかった。隔離室に連れていったところは見て いた。
◆取り調べ室に連行したのは7名のイラン人。取り調べ室は畳4畳くらい。 机と椅子があり床はタイル。壁はコンクリート。ドアは縦に細いガラス窓があ る。自分のほか大塚警備長、警備2課、3課の人がいた。取り調べ室に行った のは説諭をするため。2、3課に説諭する権限は特になく、任意でやっていた。 事情聴取についての文書は作っていない。その他のイラン人についても作って いない。隔離室に連れていくまでの時間は10分くらい。「制圧」ののち後手 錠、金属手錠をした。通常うつぶせにするので後手錠。手錠についての記録は 報告書にあると思う。(処遇規則の19条に所長へ報告するとあるが様式に定 めはあるか)わからない。(残っているか)わからない。手錠をした時間など はかかない。アムジャディについての報告書は自分で作った。隔離室に収容し たところまで書いた。その後については引き継ぎの中で言うだけで文書にはな い。まったく記録に残らないこともありうる。5月6日に隔離された者は7名。 一つの隔離室に2、3名。入った時はおそらく全員後手錠だった。アムジャディ も計2名か3名で入れられた。隔離室は記録に残す。後手錠にする理由は、入 れるまでの職員の安全、危険防止のため。
裁判で国側は一貫して暴力行為がなかったことを主張していますが、今回の入 管職員の証人尋問では傍線部分でわかるように、取り調べ記録が存在しないこ との不自然さ、職員が後手錠を多用するなど外国人に暴力的な取扱いをしてい る実態などを明らかにすることができました。次回の口頭弁論でも入管職員へ の尋問が続きます。是非、傍聴のご協力をお願いいたします。
南千住署の留置場内で変死したイラン人アリジャング・メヘルプーランさんの 死について、警察署内での暴行が疑われたため、一九九四年十月、遺族により 国家賠償請求訴訟が起こされました。生前のアリジャングさんとも顔見知りで あり、死亡直後から何としても真相を明らかにしたいと考えた私たちは、「イ ラン人変死事件真相究明調査団」にも結成時から中心的に関わり、提訴後は裁 判支援という立場でこの活動を継続してきました。また、上野駅周辺での聞き 取り調査では、警察・入管による日常的な暴行まがいの行為の実態を知ること ができました。
裁判の中でアリジャングさんの死についての唯一強力な証拠とされたのが、死 亡直後に東大病院の医師によってなされた司法解剖の記録であり、原告側とし てはその一日も早い裁判への提出を求めてきましたが、ようやく提出されたの が事件から三年半以上がたった九七年末でした。その後原告側で依頼した監察 医の方に意見を求めたところ、暴行の疑いは認められなず、ほぼ病死(心臓関 連の病気)と断言できるとのことでした。弁護団としてはこのまま裁判を続け ても勝訴の見込みはなく、またこれ以上の事実が明らかになる可能性もないと 判断し、今年二月八日に提訴を取り下げました。残念だったのは、死を証明す るのが検察当局によって作成される司法解剖記録のみであり、こちらがわの検 証もこの内容を前提とする以外に方法がないということでした。遺体はもう存 在せず、密室の中で第三者さえ存在しなかったのです。
このような形での終結になってしまいましたが、これまでご協力いただいた皆 様には心から感謝申し上げ、報告とさせていただきます。