連日連夜の泊まり込みという計画は無謀だとはじめ思ったものだが、結果的に は大成功だった。とにもかくにも野宿している先輩たちの力が大きかった。一 名の救急搬送もなくのりきった今回の越年闘争について報告する。
前号で報告したとおり、夏から秋の対福祉交渉などを通して、渋谷でも「やれ ばできる」という雰囲気が徐々に盛り上がっていた。そんな中、宮下公園が寒 くなってきたので寄り合いの場所を地下に移そうとしたところが地下鉄営団の 排除という事態に遭遇し、それに対する行動を通して先輩たち同士、また支援 との連帯がますます固められ、その勢いをもって「この冬をみんなでのりきろ う」と 一二月はじめからの越冬闘争に突入した。その真ん中に据えられる越 年の取り組みもまた例年にないものになった。
当初は児童会館の玄関先を中心にして行う予定が、直前になってフェンスが設 置され(顛末は別記事参照)、急遽、宮下公園にテントを張って越年すること となった。
初日(十二月二八日)は、ブランコの支柱を利用してブルーシートを張った、 まさに急ごしらえのテントだった。先輩たちがそれぞれの力を存分に発揮して こしらえたものの、やはり限界があった。翌日からはレンタルショップから運 動会などで使うようなタイプの(実際はサーカスのテントのように派手なもの であったが)、二間四間のテントを借りてきて、周囲の壁にあたる部分はブルー シートで補うものとした。
これが結構広くて快適であった。毎日夕方に建て込み、朝に撤収するのだが、 もちろんここでも先輩たちの知恵と力がいかんなく発揮された。
夕食の際には四、五十人の先輩たちが集まったが、十分に入ることができた。 そのままそのテントで集団夜営にはいるのだが、二十名を超える先輩たちが不 安を感じることなく夜を過ごすことができたのである。
毎日夕方五時、食事作りと同時にテントの建て込みも始まる。車からテントの 資材や毛布を運ぶのも人数が多いからあっと言う間だ。そのあいだにダンボー ルを集めに行く仲間もいる。テントができ上がると食事ができるまでの間、テ ントの中でストーブを囲んで寄り合いが行われる。寒い冬のこと、新しく渋谷 にやってくる仲間のこと、仕事のこと…
食事は雑炊やスイトン、味噌味と醤油味を交互になど、なるべく飽きないよう に調理の経験のある先輩が献立を考えた。これまた数人で取りかかるので、大 きな鍋にお湯が沸くのに時間がかかるくらいで、苦労は少なかった。日増しに 大人数となったが、十分な量を出すことができた。
食事の後は様々なイベント。映画上映会の日もあれば医療講習会の日もある。 みな真剣な表情で応急処置の方法に聞き入っていた。
そのあとのパトロールも、支援だけではなく多くの先輩たちが参加して行われ た。越年の時期は仕事がなくなり初めて渋谷で野宿することになった人たちも いる。宮下公園(での取り組み)のことを知らない人にも出くわす。毛布も何 にも持たない人を「テントに行こう」と連れてくることも何回かあった。
そして就寝。自分で何とかなる先輩たちはそれぞれの寝場所に戻っても、毎日 二十名を超える先輩たち(最終日には三十名にもなっていた)が共同でテント で夜を過ごした。なかには仲間とともに過ごしたいと、テントがある間はずっ と宮下に泊まりに来た先輩もいた。
朝は六時に起きてテントの撤収。これもみんなでやるからあっと言う間だ。コ ンビニなどから出される残り物のパンや弁当をたくさん持ってきてくれる先輩 もいて、みんなで朝食。「ではまた今夜」で解散。
計画のときには、こんな少人数の支援ではとても無理だと思っていた。ところ が仲間のことは仲間がやる。思いの外、支援のやること(やれること)は少な かったのだった。
以前は、このまつりだけが越年期の取り組みだったのだが、当然今年は長い越 冬期間中のイベントのひとつに位置づけられた。といっても少しもスケールダ ウンしたわけではない。これまでと全く同様の盛り上がりをみせた。
去年も好評だったカラオケ、映画上映。新宿音楽班の飛び入り演奏もあった。 もちつきは深夜になったが大いに盛り上がりながらの年越しであった。
支援、カンパも集まった。「新年は宮下で」が先輩、支援にも浸透している。 この日だけは宮下にやってくるという人も多かった。
運営体制は、内容を基本的に例年通りとしたこともあって、特に大きな問題は なかった。しかし今年は連日泊まり込みの取り組みを行っている、その真ん中 に位置したため、準備段階、当日とも、例年と異なる者が異なるパートを担当 することもあり、またその引き継ぎを十分に行うことができなかった点がいく つか見受けられた。まあこうして新しい支援が育てられていくのだが。
当初から、今回の越年は連夜泊まり込みの態勢で行うとビラなどで呼びかけて いたこともあって(もちろん彼らには読んでほしくはないのだが、彼らはちゃ んと入手して知っている)、特に越年闘争にはいった日には二十名近くの私服 警官が我々の様子を遠く近くで監視していた。炊事やテント設営を行っている 側までわざわざやってきて、いらぬ言葉を投げかけては挑発行為を繰り返す。 まさにチンピラである(こう言うと本物の「チンピラ」にさえ失礼になるので はないかと思うくらい彼らの行為は下劣だった)。初日には、車から降りてく ることはなかったものの、公園脇にバス数台の機動隊を待機させるほどの念の 入れようである。
年末年始の厳しい時期に、仲間が肩を寄せ合い、共同して食事を作り、寝るこ とがいったいなんで機動隊まで出動させる事態なのか、当事者でさえさっぱり 理解できない。
連日泊まり込みの態勢にしては、支援の数はまさに最少だったと思う。
これでこの闘争を成功させることができたのは先輩たちの力の大きさによる。 夏の福祉事務所に対する取り組み、秋の地下鉄営団に対する取り組みを通して 培われた仲間の団結がものを言った。確かにこれらの取り組みの間も、もちろ ん個々の直面する課題はあったのだが、仲間の力と団結は来るべき厳しい冬の ためだと言い続けてきた。
それが現実のものとなった。越年期間中、むしろ支援のほうが先輩たちに助け られてのりきった。どれだけ強調してもし過ぎることはない。僕にとって渋谷 に関わるようになって数度目の越年だが、今回ほど喜びの大きな越年はない。
越年闘争に入る頃から渋谷に顔を出すようになった支援がいる。その中の幾人 もが、これを書いている現在(三月)も主体的な取り組みを続けている。
越年闘争の間、先輩たちとじっくり話す時間が多くとれたこと、また行動を通 して先輩たちから無言のうちに教えられたことがあったのだろう。それぞれに 受け止め、考えるところがあって、今も活動に参加していることと思う。
活動そのものが、先輩たちが支援を育てる。本当にそんな思いがする。
越年闘争の締め括りは、一月五日の仕事始めの渋谷区役所への「年始挨拶」= 押しかけだ。
福祉への相談をずっと待っていた先輩だけでなく、福祉事務所への申し入れ、 土木部や保健所への申し入れを年始早々に行った。
いままでのような泣き寝入りしていた野宿者ではない、最低限の(あるいはそ れ以下の)生活を強いられている者がやむにやまれぬ状況で立ち上がる。渋谷 区行政にもその思いを届けることができただろう。
年を越したあたりからは順調にいったものの、はじめは準備不足のためあたふ たした場面も多かった(実際、児童会館のフェンスをはじめ予想外の事態も多 かったのだ)。段取りの悪さにあきれていた先輩たちもいたが、それでもなん とかやり抜くことができた。
連日連夜の泊まり込みで、支援も先輩たちもみんなでのりきったこと、これが 越冬闘争後半戦に大きく生きてくることになる。その報告は別記事に譲る。
越冬・越年の取り組みを「闘争」と呼ぶことに違和感を覚える読者もいるかも しれない。だが、いま僕は、やはり「闘争]だったのだとつくづく思う。厳し い季節と闘い、寒空のもと福祉の窓口も閉ったまま放り出されている状況、死 と隣り合わせの状況と闘い、仲間同士の団結を築き、生き抜くこと。イメージ が悪かろうが誤解されようが、これを「闘争」と呼ぶ以外にはないだろう。
僕はこの越年闘争を通して多くのことを学ぶこととなった。特に先輩たちに対 してありがとうと言いたい。