何ができるのか ---活動から思うこと---

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年明けの渋谷,k さんが死んだ.一人の人間の生命が誰に看取られることもなく,馬 鹿に空々しく重みなく寒空の路上に消えていく.寂しかった.何もできなかったとい う思いに揺さぶられた.知り合って言葉を交わして,微笑みあうだけで僕には結局何 もできていなかった.「どうしようもないんだ」そう言って彼は逝った.

好きでやっている.一度やるとやめられない.働かない怠け者.いわゆるホームレス 問題が社会的に取り沙太されて以来,野宿労働者に対する報道や世間の風潮は少なか らずそのような捉え方に流れている.なぜ彼らはそこにいるのか.それぞれに それぞれの理由があるだろう.しかしなぜ野垂れ死にを強いられるような過酷な状況 にしか,自分の居場所を見つけられないのだろう.そこには当事者の意思とはもっと 別の,何か大きな理由が存在するのではないのか.

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ホームレス(野宿労働者)問題を第一に失業という側面からとらえてみる.まともな 働き口がなく,住所がない.食えない.身体は弱る.再就職の見込みを失う.その悪 環境の中で生きる指針もなく,ある人はアルコールに溺れたり,路上生活で体を壊し て施設に入るか,そうでなければ冷たいアスファルトの上に一人野垂れ死にするとい う状況.雑誌拾いなどでなんとか食をつなごうとする人もいる.日雇い労働の大抵で ある建築仕事にはまず五○歳を過ぎると雇ってもらえない.東京の野宿労働者の平均 年齢は五五歳と言われている現状で,従って働きたくても働けないという構図はもは や自明の理である.しかも老齢年金は多くの地域で六五歳からであるから,そこには 十年の乖離がある.

住所がないということ.その単純な事実がそれだけに終わらないのがこの社会である .健康,失業保険への加入,労災の給付,厚生資金の貸与など社会保障上の権利は勿 論,教育上の権利行使,就職するにも住所というものが関わってくる.住所がないと いうことだけで一個の人間はこうまで社会的におとしめられるのかと思われる.が, まさにこれが社会的な仕組み,枠組みということである.国家なりある集団を法治す る,ある秩序基準に従ってそれを治める,それに対して必要となってくるのがある一 定の規定であるということ.しかし,である.そこにある非情さは何なのだろうとい う根本的な疑問は拭えない.また,そうした疑念をこそを,ただ社会とはそういうも のなのだとかいう熟慮のない「大人の」考えによって消え入らせてはいけないと思う.

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労働雇用,失業という問題に立ち入っていくほど,住所がない(あるいは山谷,釜が 崎などに集中して見られるようなドヤ居住者としての)底辺労働者の流動的な性格が ,じつは資本経済という流動に対する合理的構造的な性格であることに驚く.企業, 雇用者側の被雇用者への責任という基本的な倫理が,利潤追求という集団の自己目的 と対立する.経済の変動に従って雇用にも変動がある.その変動に対する柔軟性とし て産業構造の底辺に現れるのが日雇い労働者,つまりは使い棄ての労働力である.一 時,外国人労働者の問題が深刻に言われた.利用されるだけ利用された彼らもまた, 資本主義下,我が国の法規の供する都合の良さに使い棄てられていった.

余剰的に存在する(つまり失業した状態がむしろ常として捉えられるような補充的) 労働力の層は,何らかの公的な扶助なしにはもはや生きのびることさえ不可能な仕組 みに追いやられる.しかしそれさえ充分に享受できないという危機的な矛盾が存在す る.だから福祉行政の対応を監視するという,本来全くありうべきでない余地,援助 者による活動の必要性がある.

強制排除を断行した「庶民の味方」青島都知事の野宿労働者への認識は実に偏見の域 を出なかった.そして同様の一般認識を一層根深く助長した.物事の内実を正確に識 るということ.何より社会生活の中で様々な視野を展開していく条件基盤,意識的な 生活を送るためのこの第一線への距離感が,政治や教育,市民生活のあり方など様々 な点から,日本という社会の盲目的で幼児的な性質を露わにしている.

新宿の路上に住むある先輩が言った.威圧的にそびえ立つあの都庁舎を指差して.「 あれをつくったのは俺たちだ」と.「そこに今のうのうと居座っているのは誰だ.俺 たちをここから追い出して野垂れ死にさせようとする奴が,俺のつくった建物の中に 偉そうな顔して座っているんだ.」一月二四の闘争を経て行政側に対する彼らの不信 は決定的となった.

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搾取される底辺労働者の存在が合理的であると書いた.経済原理という数字の支配す る領域に,人間の良識までもが合理化されていくのか.利潤追求型,近視眼的な国家 .そうして未解決で甚大な問題を前に,そこに対する認識すら閉じ,それどころか真 実を歪曲し隠蔽すらしてしまうような社会.損か得かというただそれだけの単純な秤 に人間の生はかけられるのか.感情論に陥ってはいけない.だがぶつける相手のわか らない,やりきれない憤りを自分自身への無力感と共に明確に覚える.

僕らに何ができるだろう.毎週の寄り合いとパトロール.隔週の炊き出し,衣類,カ イロなど配布できるものは僅かだ.野宿労働者は乞食ではない.援助者にしても与え 与えられるという一方的な行為に自己満足していてはいけない.そこには事態の打開 がないばかりか,自らの生活を築こうとする彼らの意欲さえを殺ぎかねない.一体何 ができる.そして僕は活動の中に何を求めているのだろう.生産性のない対立の形式 になど陥りたくはない.権力とか,行政という言葉に批判対象を見いだすことはでき るかもしれないけど,それではあまりにも漠然としすぎている.社会機構という匿名 性の前では何か行動を起こそうという意気さえ疲弊していく.

人それぞれ,語れもせぬ負い目を抱えながら,それでも何とか生きていこうとする. 取り囲む環境が過酷な分だけ,自らの内になにか生きる為の術を守っている.僕の出 会った人たち.動けない仲間のもとに持ち帰って二人で食おうとした雑炊を,もらい 受けたその場で一口すすってしまった.そう言って涙をこぼしていた仲間.パトロー ルでまわる度,ありがとうありがとうと手を握りしめてくる仲間.僕が活動の中に見 つけたもの.それは繋がりという人と人の触れ合う場であった.自分を知ってくれる 人間があるということが生きていく力になることを,僕はみんなから学んだ.解決の つかないことが多すぎるけれどまずは行動,そう思って毎週の活動に参加している自 分である.


いのけん通信第 14 号(Mar. 22, 1997)
(c) 1997 木村正人,渋谷・原宿 生命と権利をかちとる会
inoken@jca.ax.apc.org

$Date: 1997/08/12 14:52:37 $ 更新

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