鵜飼 哲さん講演

「ダンボール村から見える社会」

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移っていく人々

フランスではここ数年,「社会難民」という言葉が生まれてきました.ふつう「難民 」と言うと自国に住めず追い出された人のことですが,いわば難民と同じステータス の人たちが,社会のひずみから恒常的に生み出されてくる.そんな時代認識を示す言 葉です.

フランスでは,産業構造をフレキシブルにしていこうという動きがあります.つまり 労働者を解雇しやすくなるということで,短い期間で移っていく労働者が増えてきて いる.彼らは定住できずに,多くは家族と共にホテル暮らしをしており,日雇い手帳 のようなものを持っているとホテル代が半額になるというような援助を受けています .しかし,例えば選挙権を持つには三ヵ月住んだことの証明が必要です.これは労働者が三ヵ月同じ所にいるということを前 提にしている.定住に基礎を置いた市民権というものはこれからどうなっていくのか ,という問題があります.これは大きな転機と言えます.

国家の膨張と難民

難民の問題については,フランス革命直後の『人権宣言』で「外国から来た人は無条 件に受け入れる」とうたわれ,難民である証明を必要としませんでした.この「庇護 権」は,中世以来,不文律として成立していたのを明文かしたものです.十九世紀, 難民申請して断られたケースはないのです.

フランス革命で「国民」という考え方が出てきましたが,それから難民が排除される ようなるまでには約一世紀の開きがあります.最初はブルジョワの立場から認識され た.ギゾーという大物政治家が「補助金ほしさに世界中から難民が来る.だから本当 の難民かどうかを確かめなければならない」と発言して嘲笑を買いました.「どうや ってみわけるのか」と聞かれ,彼は「誰が見ても難民としか言えない人のことだ」と 答えています.これはまさにブルジョワジーの観点だった.十九世紀の後半から「身 分証明」の考え方が生まれてきます.パスポートは,第二次世界大戦中,イギリスで 敵国の人間を区別するために使いだしたのが始まり.つまりたかだか数十年しか経っ ていない.身分証明という考えは,ヨーロッパ帝国主義に入る段階で形成されてきた ものなのです.ここにおいて「市民」は「自分で身分証明できる人間」を指す言葉に なりました.

いまでもフランスでは「シトワイヨン(市民)」とは「国民」とは違って,国籍がな くても市民として迎えようという考え方があります.

二十世紀になって,すべての人が国籍を持つ傾向になり,同時に国家がそれをはく奪 できるようになりました.ここから難民が発生してきます.

難民条約が一九五一年に成立しましたが,これは難民の権利を奪ったものともいえま す.難民の立証責任を明記したことから「ニセ難民」などがこの条約から生み出され てきたからです.

「難民」と「国民」の関係は,「路上生活者」と「市民」にも類推されると思います.

「言葉」と「信頼」

近代において何が壊れたのか.それは「人の言葉を信じること」ではないでしょうか. 寄せ場の闘いには裁判闘争がつきものですが,そこでの「証言」には二つの側面があ ります.一つは,司法制度の中で証拠として採用されるのか否かということであり, もう一つはその言葉に対する無条件の信頼です.

しかし,近代では「信頼」を「確実性」に置き換えてきました.役所の文書が「我々 は何物か」ということを保障している.だから市民社会と言うときに「市民」とは, 保障されている人,あるいはされていると信じている人,そのもろさに気づいていな い人です.この一世紀間のギャップをこれから復権させていかなければならない.

韓国では民主化運動を再定義しようという動きがあり,その中から「市民」という言 葉を使おうという人たちが出てきました.これに対して底辺の人たちからの反発があ る.こういったことが日本だけでない,東アジアの運命だと思います.「無条件に信 じる」ということを国民の記憶に持っていないということがポイントだろうと思いま す.言葉を信頼できないということは恐ろしいことです.例えば家族を証明すること だってじつは大変なことです.最も根源的には言葉に対する信頼というものがあるか ら,それが要らない.

今,従軍「慰安婦」問題を教科書から削除するよう求めるグループのだした『教科書 が教えてくれなかった歴史』という本が数十万部売れているという.歴史を否定する 「歴史修正主義者」のグループが現れ,「ポスト民族紛争」という状況が東アジアに 出てきている,と私は見ています.これは大変危険な傾向です.共通する特徴として 「犠牲者の言葉を信用しない」ということ.元従軍「慰安婦」の人の言葉を信用しよ うとしない.彼らが証明する必要はなく,ただ疑惑を注ぎ込めばよい.「ホロコース ト否定者に反論するにはカナダの木を全部切り倒さねばならない」といわれます.躍 起の反論はワナにはまるだけで,無益だと思います.

一・二四に起きたことを全て記述するには膨大な言葉が必要になり,ある整理が必要 になって来ます.そこが修正派の土壌です.ちがうやり方でやらなければならない. それは「人の言葉をどう受け取るか」ということの復権と不可分だと思います.

言葉のパワー

ホームレスを「社会に背を向けて自分だけの世界をつくる」「非社会的な人」などと いう学者がいますが,その時「社会」とは自分の属する世界だけを意味している.ダ ンボール村はもう一つの「別の社会」だからこそ問題が起こっているのだということ が彼らには見えていない.「彼らの社会」と「自分の社会」のきずなは原理がちがう のだと主張しなければいけない.

誤解を恐れず言えば寄せ場の中で「人の言葉」は無条件に信じられる.本当のことば かりではなくいつもだまされる.しかし,近代の論理ではく奪されない言葉がある. それは政治権力によって認められるような文書によるものでなく,それがなくなった ら生きていけないような信頼というもの.人間関係でも同じで,裸の信頼が感じられ る.これがダンボール村を支えている.これをどう敵対する社会にぶつけていくこと ができるのかが,ダンボール村の闘いの重要な異議なのでしょう.

慰安婦の言葉が信用されないのとホームレスの言葉が信じられないのは同じこと.身 分証明のされない人間,つまりマイノリティの言葉は信用されない.これをどうした ら突き崩せるか.世界のあらゆる運動で,パワーのある言葉をどう発信していけるか ということが闘いのポイントになっていくと思います.

質疑応答

質問1 「市民」という言葉は特定の階層のみを対象としており,すべての者を指し てこなかったのでは?

鵜飼 歴史的には,排除なき「市民」は一度足りともありえなかった.『フランス人 権宣言』も理念としては「万人」であったが現実にはならなかった.これを保障する には永続革命しかないかもしれない.

質問2 フランスの例で,いかにしてフランスの人々と移住労働者の連帯は可能だっ たのか?(編集者注: 昨年八月,退去強制に抗議すて教会に立てこもったマリ人らを警察が強制排除した.これに抗議するフランス人らによって大きなデモが起こった.)また,ダンボール村のコミュニティという自分たちの社会や居住権は どう保障されていくべきだろうか?

鵜飼 「庇護権」とは近代以前からあった概念で,「シェルターに迎え入れること」 ということ.対して「寛容」とは,まず均質な社会を作り,その後でそこからこぼれ 落ちたものを何とかする制度をつくるもの.マリ人が教会を占拠することで,教会本 来の姿(シェルター)が想起される.

居住権の「居住」はそもそも「存在」と同じこと.わざわざ「権利」と言わなければ ならないところに問題がある.「権利」言い始めたとたん,それを奪われる人たちが 出てくる.


いのけん通信第 14 号(Mar. 22, 1997)
(c) 1997 鵜飼 哲,渋谷・原宿 生命と権利をかちとる会
inoken@jca.ax.apc.org

$Date: 1997/08/12 14:52:36 $ 更新

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