8・13 第 3 回新宿夏まつり

---音楽担当として参加して---

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「てっきょなんかにまけないよ」---今年の「新宿夏まつり」への参加呼びかけ ビラにはこう記されていた.いうまでもなく,このことは1月24日,東京都当局が ガードマン・機動隊を導入して行った新宿西口4号街路におけるダンボールハウス 強制撤去という事件を真先に想起させる.マスコミ等を通じて大々的に報道された あの事件が,かなり広範囲な市民層にインパクトを与えたことは確かである. そのことは,6月に行われた「夏まつり」に向けて開催された第1回の準備会の 席に,多くの新しい顔がボランティアスタッフの中に混じっていたことにも 見てとれた.いわゆる「活動」などにはいままで関わったことがないという人も いる.「夏まつり」の準備会は幅広くボランティアスタッフを呼びかけていたので, なにかしら関心を抱いていてもとっかかりが見いだせなかった人々にとっては 比較的参加しやすい場としてあっただろう(実際,自分もそうであった). 新宿を巡る状況に対する関心の高さは7月,ロフト・プラス1で行われた路上 生活者に関するシンポジウムに大勢の若者が詰めかけたことにも現れていた. 「夏まつり」自体にはいろいろな位置づけがあるだろうが,ひとつに日常的な 支援活動等に関われていないながらも,関心を持つ層に対し,野宿労働者の先輩達 と交流し,生身の彼らと直に接してもらう場を創出することがあると思う. 関心の高まりという状況に呼応してか,今年は特に「夏まつり」にかける意気込みが 実行委の間で漲っていた感じがした.

さて,自分は「夏まつり」に参加するのがこれで2回目になるが,昨年に引き続き 音楽部門を担当する形になった.ゲストの選定を打診されたとき,大工哲弘氏の 名前はすぐに浮かんだ.個人的に沖縄音楽が好きだということもあるが,やはり 彼が現在際立って「旬」なミュージシャンの一人だということが大きい. 昨年の米兵による少女暴行事件を発端に盛り上がった沖縄の反基地・反安保の 闘い.数々の集会に出演し,「沖縄を返せ」「インターナショナル」を歌う彼は, 沖縄の状況と最も精力的に併走していた(後,否定的に総括したらしいが, 県民投票を目前にしていた時期でもあった).「まつり」の拡がりを視野に 入れたとき,沖縄の闘い・文化と新宿を架橋するものとしての彼の行動,そして なにより彼の力を湛えた音楽性はうってつけであると感じられた.しかし 飛行機代・宿泊費などの経費はかかる.スケジュールもかなりハードであることは 聞いていた.諦め半分で交渉に当たったところ,他のコンサートをキャンセルして 出演したいという本人からの思いがけない返事.MCで語っていたように, 「生活の柄」(歌詞は沖縄の詩人・山之口莫が東京でのホームレス時代の体験を 綴ったもの)をゆかりの地で歌いたいということが出演の動機としてあった ようだが,やはり1・24以降の新宿を巡る状況への関心,闘いへの共振とい う要素が抜きではなかったであろう.

大工氏の出演が決まってからというもの,個人的には当日までかなりあわただ しい毎日を送ることとなった.特に昼の部のライブでは出演を志願するバンド・ ミュージシャン等が昨年に比べ大幅に増え,調整に難航したということがある. こんなところからも1・24が与えたインパクトが大きいと感じられた.

バタバタしているうちにあっという間に 8 月 18 日は来た.朝遅れて現場に 着くと,先輩達が手際よく会場設営をこなしている.警察がはじめ 2 名程度 様子を伺いにきたが,トラブルもなくひと安心.最大の懸念であった天候だが, 朝のうち雲行きが怪しかったものの,午後には真夏の強烈な日差しが照りつけ, 蒸し暑さが会場を包んでいった.ステージのバックには日頃からダンボールハ ウスにペインティングし続けているタケさんの巨大な絵が掲げられていた.こ れは 8 月 11 日「プレ夏まつりイベント」として地下街路で行なわれた「都 恥博」において,突起物のパーカッションをバックに,舞踊家とセッションし ながら描かれたものである.この壮観な絵は,会場全体に本当に手作りの祭り といった雰囲気を醸し出していた.昼頃からホルモン焼きの屋台や床屋,ビデ オ,展示パネルなどが並び,人も参集し始める.150--200 人といったところ か.

「ぷんむる」の舞いと朝鮮打楽器の音のオープニングで 2 時頃バンド演 奏が始まる.ときおり公園に来た家族連れが何事かと興味深そうに会場を横切っ ていく.バンド演奏では,日の出町ゴミ処分場問題にコミットしている「もぬ けのカラーズ」,戦後補償や在日の集会で歌う李政美さんの参加が,祭りの広 がりの一端を形成していたように思う.予定外の飛び入りも二組ほどあった. 自分の進行の不手際から途中出演者の演奏時間を削ってしまうこともあったが, 全体的に気合いの入ったプレイで祭りのムードを盛り上げていた.ラストの 「A-MUSIC」の「不屈の民」の演奏が終る頃,新宿の空は漆黒の色に変わって いた.サーチライトに照らし出される参加者はいつの間にか 1000 人ほどまで 膨れ上がり,会場を埋め尽くしている.

これからがある意味で本番.6 時半頃 先輩のスピーチがあり,第 2 部の開始を告げる.「一般の人にわかってもら いたいんですが,私ら決して好きで野宿生活しているわけじゃありません」と いう言葉が印象に残る.

続いていよいよゲストの大工哲弘氏.自ら競演を依頼した女性ボーカル 2 名 を加えて登場.三線の音とともにステージ前では野宿労働者や支援者,パンク スが混然となって踊り出す.「A-MUSIC」がセッションに加わる頃には最高潮 の盛り上がり.「がんばろう」に引き続くカチャーシーの演奏では会場がほと んど爆発寸前となり,鳴りやまないアンコールに際して,主催者が「どうか今 度は静かな曲でお願いしますよ」などと頼み込む始末だった.この演奏の余韻 が相乗する形で,乾杯後の先輩達のカラオケ大会や盆踊りも前年以上の盛り上 がりを見せた.誰が主役をいうわけでもない.いうなれば先輩・ゲスト・支援 者・ボランティア・参加者全員が主役で祭りそのものを楽しんでいた感があっ た.特に最後の盆踊りまで大勢の先輩達が残って参加していたのは感慨深い. 大森から来たという先輩は顔を紅潮させながら「楽しいねえ,また来年も来た いねえ」と言っていた.

9時頃終了したのちも,しばらく会場のあちこちには 去ろうとしない人々の熱気が立ち込めていた.いろいろミスはあったものの, 関わってみて率直に良かったと言える真夏のイベントであった.

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関係性の広がり,多様性を獲得すること---.なにかと「あれは過激派がやっ ているんだ」とか野宿労働者・支援活動家とそれ以外の人々を分断するような イメージ操作が当局・マスコミ等から流布されている状況にあって,それを跳 ね返すものとして「夏まつり」の意義は大きいと思う.

新宿をめぐる状況は相変わらずシビアに映る.「夏まつり」の翌日の 8 月 19 日,先述のタケさんが動く歩道横の,野宿者を排除するための突起物にペイン ティングしていたところ,「器物損壊」容疑でその場にいた先輩 1 名ととも に逮捕され,23 日間も不当拘留されていた.意図は明白である.支援運動と 一線を画していたとしても,そこに近付けばあえて「活動家」として弾圧し, 分断をはかること.こうした攻撃に対し,私たちは自らの文化・関係性を一歩 一歩でも創りあげていくしかないだろう.


いのけん通信第 13 号(Nov. 23, 1996)
(c) 1996 芳仲和彦,渋谷・原宿 生命と権利をかちとる会
inoken@jca.ax.apc.org

$Date: 1997/08/12 14:52:27 $ 更新

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