コーヒーを飲みながら

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食うや食わずの人たちがいる.新宿で支援をして,帰ってきてコーヒーをいれて飲む.うま い.「だっておれ,働いてるもん」.家でうまいコーヒーを飲んでるときの自分の心の奥底の 気持ちをことばにすれば,こんな感じだろうか.私のこのいいわけは正当なのだろうか.

新宿で野宿している人たちはおいしいコーヒーなんか飲まなくてもいいから,仕事をせずに 自由な時間を持ちたいと思って仕事をしていないのだろうか.選択の結果として仕事をしてい ないのだろうか.就職して毎日働くより,行きたい時に行って,やめたい時にやめれる日雇い のほうが,自由でいい,という話しを時々きく.私も気ままなバイトが好きで,それは同じだ. では何が違うのか.

彼らの多くは仕事がしたいにもかかわらず仕事がなく,またはケガや病気で働けない.失業 そして野宿は選択の結果ではなく,必然なのだ.つまりおいしいコーヒーを飲める私と飲めな い彼らの違いは,たまたま私に仕事があっただけということだ.帰る家もなく,頼れる知人も ない.高齢であったり,ケガや病気であったり,気ままな暮らしが好きだったり.それぞれの 理由にはそれぞれの更なる理由があるのだろうが,それらの結果として,今,働きたいのに働 けない.私と彼らの間には,主体性の差,意志の差があるのではなく,仕事をえる環境が整っ ていたか,どうかの差しかない.つまりこれは彼らにとって不可抗力なのだ.

そんなことをいっても,働ける時に毎日働かず,いざという時のために蓄えもしない彼らが 悪いのだ.そのようになったのは彼らの責任だ,という意見があるかもしれない.しかし帰る 家がない,実家とけんか別れをしてきた,家を飛び出してきたというのは彼らだけの責任なの だろうか.頼る知人がいないのは彼らだけの責任なのだろうか.気ままな日雇いが好きなのは, つまり私たちの住む市民社会が嫌いなのは,彼らだけの責任なのか.稼いだ金をたくわえず, 酒やパチンコや競馬に使ってしまうのは,つまり刹那的な楽しみを求めてしまうのは,彼らだ けの責任なのか.肝臓など内蔵が悪いのに病気を直す気持ちがまったくない人がいる! つま り病気を直して,それでどうすんだと答えるのは,彼らだけの責任なのか.

以上の考えに従うと,私が部屋でおいしいコーヒーを飲むことを,彼らにいいわけができな いことになる.「だっておれ,働いてるもん」なんて.たまたま環境が整っていただけなのだ.

思えばいいわけできない多くの人たちに囲まれて私はコーヒーを飲んでいる.タイ東北地方 の友人しかり.彼に象徴されるタイの多くの労働者たちしかり.私が使っている中国製品をつ くっている中国の多くの労働者たちしかり.コーヒーを自分でいれれる人は世界にどれだけい るのか.その他の人々は彼らの責任で,つまり彼らの働きが悪いから,怠け者だからコーヒー をいれて飲めないのか.

例えば,空から隕石が落ちてきて,一緒に歩いていた友人に当たったとしよう.彼は墓場の 陰から,「なんでお前だけ生きてんねん」と,いう.確かにそのことに対して私はいいわけで きない.しかし隕石の落下と私とは何の関係もない.だから私に隕石が当たらなかったのは運 命としかいいようがない.野宿労働者やタイ人や中国人の場合はどうだろうか.

私は狭いながらも自分の部屋を持ち,ラジカセ・写真機・暖房具・冷蔵庫・電燈・トースタ ーに囲まれて快適に暮らしている.そんな暮らしができない人たちは,その原因は彼らにある のだろうか.彼らよりも私のほうが何か努力なりそれだけのことをしているのだろうか.

つまり私は彼らより快適な暮らしをしているいいわけができない.この状態に何か正当ない いわけがあるのだろうか.もしないとすれば,どうすれば私はコーヒーを飲むことを正当化さ れるのだろうか.

といっても,答えが出るまでに,またコーヒー飲んじゃうけど.


いのけん通信第 11 号(Mar. 30, 1996)
(c) 1996 石山泰人,渋谷・原宿 生命と権利をかちとる会
inoken@jca.ax.apc.org

$Date: 1997/08/12 14:52:05 $ 更新

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