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学会の最新情報についてはこちら(日本寄せ場学会公式ブログ)でご確認ください 2014年日本寄せ場学会総会 社会的排除と抵抗のかたち (どなたでも参加できます。事前申し込み不要ですので、会場に直接お越しください) 〈プログラム〉 詳細についてはこちら(日本寄せ場学会公式ブログ)でご確認ください。 日本寄せ場学会年報『寄せ場』第26号を発行しました(2013年12月15日) ISBN:978-4-8462-0408-2 2012年日本寄せ場学会総会 「流動する下層労働者」再考 終了しました 日時:2012年12月1日(土)13:00−17:30 西澤晃彦 13:00−13:30 1988年に出版された日本寄せ場学会年報『寄せ場』第一号の
特集タイトルは、「流動する下層労働者・その現状と未来」であった。それ以後、日本寄せ場学会は、四半世紀を通じて、グローバルな資本主義の展開をにらみ
ながら、国内外の「流動する下層労働者」の現実を追い、また、その歴史的展開を捉え返してきたといえるだろう。テーマは毎年たてられてはきたが、それらは
「流動する下層労働者」という大テーマの変奏であったと振り返ることができるかもしれない。それにしても、資本主義と労働市場は、この四半世紀の間にあま
りにも大きく変容した。それとともに、「流動する下層労働者」のあり様ももちろん変化した。しかし、一方で、思わず「何も変わってはいない」とつぶやきた
くなるような強固な構造をみてとることもできるのである。 山口恵子(弘前大学・社会学) 13:30−14:15 青森は「出稼王国」と呼ばれ、長きにわたって、回帰的・季節的な(後年になると通年にて)地域移動を伴う労働力の供給地であった。しかし現在は、統計上に カウントされる出稼ぎはわずかとなっている。一方で、2000年代半ば以降、派遣労働が増加した。青森には、派遣会社の支店(窓口)が乱立し、若者たちを 中心に、関東や中部などの都市圏の製造業に送り込まれた。こうした現代の労働移動は、出稼ぎのように集落の共同性を保ったものではなく、青森の支店を通じ て、個人で働きに行く場合が多い。そして、仕事は過酷である。本報告では、青森の出稼ぎ労働と派遣労働の事例を紹介しながら、地域を超えた周縁労働力の再 編の現代的な意味について考察を行う。 山口覚(関西学院大学・地理学) 14:15−15:00 一般に集団就職は,歴史的には主に「就職列車」の運行期間において、空間的には「全国労働市場」としての日本に限定されるかたちで語られる。たとえば就職 列車の運行期間は1954年の青森発から1975年の盛岡発までとされてきた。実際には就職列車の運行期間はもっと長いし,就職列車だけをもって集団就職 の象徴とするのは誤りでもある。労働市場の長期的な制度化過程を見る必要がある。集団就職はまた、悲惨な低賃金単純若年労働者の象徴として語られるが、 「人身売買」や「家出」といったイレギュラーな労働力移動の適切化を目指すものでもあった。さらに、労働市場は国境を越え得るものであった。1957年に 始まる沖縄から「本土」への集団就職に続き、1960年代後半には新規中卒者の減少のため、韓国の若年労働力が技術研修制度によって導入されようとしたこ ともあった。単純化して語られがちな集団就職について、様々な関連現象に触れることでその姿を再考したい。 妻木進吾(目白大学・社会学) 15:15−16:00 バブル崩壊後、日本社会は長期不況とそれを契機として急激に進む雇用のフレキシブル化に直面した。結果、社会経済的な格差の拡大、貧困層の増大が顕在化す ることになった。また、日本社会がこのような変化に直面することになった時期は、被差別部落(同和地区)にとっては、33年間継続されてきた同和対策事業 が期限切れを迎えた時期と重なっている。貧困と社会的排除が極端に集中していた多くの被差別部落(とりわけ都市部落)の状況は、長期にわたり総合的・多元 的・集中的になされた公的な「社会的包摂事業」によって大きく改善されてきたが、では、その終結と日本社会全体で生じた不安定化に被差別部落はどのように 直面することになったのだろうか。こうした問いに、様々なデータを重ね合わせながら答えることが本報告の目的である。ここでは、「再不安定化」「当事者運 動が引き出した公的事業の意図せざる帰結」「ネットワークの変容」「流動化」をキーワードとして示しておく。 コメントに続いてフロアを交えた討論 16:00−17:30 目黒駅東口 徒歩約20分または都営バス「大井競馬場前」行き 「明治学院前」下車 地下鉄(南北線・三田線)白金台駅 2番出口 徒歩約7分 地下鉄(南北線・三田線)白金高輪駅 1番出口 徒歩約7分 地下鉄(浅草線)高輪台駅 A2番出口 徒歩約7分 東京都江東区における野宿者強制排除に関する声明 2012 年2月8日、東京都江東区は区内の竪川河川敷公園において、「行政代執行」の名の下、現地で起居する野宿者のテント等を強制撤去するとともに、話し合いに よる解決を求めていた当事者および支援者を強制的に排除した。こうした行為は、区がいかに“これまで各種の「支援」を行ってきた”と言い繕おうとも、現に 野宿を余儀なくされている人びとの生存・存在自体を否定している点において、また、野宿者を物理的に排除し不可視化することによって彼ら・彼女らを生み出 してきた制度的・社会的問題から目を背けようとしているという点において、とうてい容認できない蛮行である。私たちは、江東区のこの蛮行に強く抗議すると ともに、現地の当事者・支援者との真摯な話し合いによる解決を求める。 2012年3月26日 池田浩士(京都大学名誉教授),稲葉奈々子(茨城大学教員),入江公康(非常勤講師),太田直里,金子マーティン(日本女子大学教授・反差別国際運動事務
局次長),嶋田ミカ(龍谷大学リサーチアシスタント),崔真碩(広島大学教員),常木みや子(日本寄せ場学会会員),土井智義(大学院生),中村研(労働
組合なにわユニオン),中山幸雄(カフェ・テアトロ アビエルト),西澤晃彦(東洋大学教員),濱村篤(日本寄せ場学会会員),原口剛(大阪市立大学),樋口直人(徳島大学教員),松沢哲成(元東京女子大学
教員),丸川哲史(明治大学政治経済学部教員),水野阿修羅,山口恵子(弘前大学),山西麻依(フリーの研究人),路上文庫 長谷川チコ 追加コメント ※上記声明を2012年3月29日付で江東区宛に送付しました。 2011年日本寄せ場学会シンポジウム 原発労働が照射する日本 (どなたでも参加できます。事前申し込み不要ですので、会場に直接お越しください) 私 たちは、原発労働を視野には入れていた。しかし、どうしたものか充分に議論をしてはこなかった。「おっとり刀」であるとの批判は免れないが、それでもここ で何も論じあわない訳にはいかない。不可視化された下層が露呈している今こそ、その下層労働者の現実と彼らを差別し排除してきた構造を暴露しなければなら ない。「原発は差別で動く」(八木正)のである。このシンポジウムは、そのような想いから企画された。日本寄せ場学会がこれまで積み上げてきた認識と知を このシンポに注ぎ込んで、差別と排除の構造を明らかにしたいと思う。(日本寄せ場学会事務局長・西澤晃彦) 東洋大学白山キャンパス6号館4階6405教室 (東京都文京区白山5-28-20) (最寄の駅は都営地下鉄三田線白山駅もしくは東京メトロ南北線本駒込駅です) なすび(山谷労働者福祉会館活動委員会) 13:30〜14:30 2011 年3月11日の福島第一原発の震災事故は、現在も深刻な労働者被曝を生み出しており、収束の目処も立たない。そもそも原発は、命を切り売りする被曝労働者
なしには稼働しないプラントであり、その被曝労働者は既に45万人とも50万人とも言われている。原発労働者にはがんや心臓疾患などでの死者が多発してい
るが、被曝の実態は隠蔽され、1971年の商業原子炉の稼働開始以降に労災認定を受けた労働者はわずか10人に過ぎない。また、その雇用形態は土木建設産
業と同様の重層的下請構造になっているが、建労法の適用にはなく、事業者や雇用業者の責任も問われずに多くの下請労働者が文字通り使い捨てられてきた。現
場の労働環境も雇用形態も土木建設産業以上に劣悪な原発労働であるが、この実態は国策・原子力産業のもとで隠蔽されてきた。 トム・ギル(明治学院大学) 14:30〜15:30 福島県飯舘村は「計画避難区域」となり、村民はほとんど全員村を離れて生活している。ところが、村にある工場はまだ動いていて、毎日仕事に通っている労働 者は数百人いる。村にある老人ホームもそのまま営業中であり、スタッフは避難先から通っている。それに村民は24時間体制・3シフトで空き巣などを防ぐた めに村を歩き回るパトロールを組んで、村入りをしている。寄せ場の雇用対策と似ている形で、このパトロールの仕事は安い単価ではあるが、村が賃金を払って いる。こうした現象は主に村長の政策を反映している。村はすでに「住まい」の機能を失っていて、「職場」の役割も消えたら共同体そのものが消えてしまう恐 れがあると彼は見なしている。一方、放射能の危険性を十分認識していないため、こういった雇用対策は労働者の健康を犠牲にする恐れがあるという批判があ る。 博覧会と都市暴動 釜ヶ崎における差別と抵抗の系譜を辿る ※どなたでも参加できます(予約不要・直接お越しください) 終了しました 場所:西成市民館3階講堂(大阪市西成区萩之茶屋2−9−1) (3日はフィールドワークとなります) 博覧会と都市暴動−釜ヶ崎における差別と抵抗の系譜を辿る 1961 年8月1日、車に轢かれた労働者に対する警察の差別的な処遇をきっかけとして、第一次釜ヶ崎暴動が勃発した。今年は、第一次暴動が勃発してから50年とい
う節目にあたる。50年の歳月を経て、いま、釜ヶ崎の姿は大きく変わろうとしている。日雇労働者や野宿生活者の姿はますます見えなくなり、寄せ場は急激に
縮小しつつあるのだ。だが一方では、「総寄せ場化」と称せられる現在的状況のなか、新たに再編された下層労働者が生み出されている。彼ら彼女らに対して
は、かつての釜ヶ崎と変わることない差別のまなざしが注がれ続けている。いまこそ、わたしたちは釜ヶ崎に積み重ねられた差別と抵抗の系譜を辿り、下層から
現代を照射する術を学ばなければならない。 ●講演1:水野阿修羅(日本寄せ場学会運営委員長) 13:30−14:30 博覧会と底辺社会 博覧会がいつも政治的な意味を持っていることはよく語られているが、そこと底辺社会との関係はあまり語られていない。釜ヶ崎が今の場所に生まれることに
なったキッカケとして、第5回内国勧業博覧会の開催があることはよく知られたことだが、そこに、菅野すがや片山潜らが関わりを持っていたこと。彼ら彼女ら
が、長町とどう関わっていたか。借家人組合をつくった逸見直造が博覧会に店を出していたこと。「人類館」との関係はどうなっていたのか? 大原社会問題研
究所の元となった石井十次の活動との関係は?「事実は小説より奇なり」のことば通り、謎が増えるばかりだが、地理的な問題より人間関係を重視した視点で博
覧会と底辺社会を見つめ直してみた。車夫暴動や米騒動ともからみ、長町が今やメイドカフェやフィギュアショップがあふれる街に変遷する過程にもふれてみた
い。 米騒動(1918)と第1次釜ヶ崎暴動(1961)から何を学ぶか ある事件が起きたとき、事件そのものの分析も重要だが、事件後何がなされたかを知ることも大切である。ここでは釜ヶ崎と深い関係にある二つの事件を通して考えてみたい。 天災+人災−暴動<(木賃宿+人間襤褸)× 無政府共産 案内人:水野阿修羅 集合場所・時間:「フェスティバルゲート」(新今宮駅東口改札を出て浪速区「新世界」側にある巨大遊園地) (大阪市浪速区恵美須東3-4-36) 正面入口階段下に9:00集合 |
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