9月12日から20日まで、今年三度目の中国への旅をしました。 7月の北京での社会科学院のシンポジウムで、 中国人のフリージャーナリストHさんたちと食事をした際に、 私が「憲兵だった父の最後の方の任地が東寧の石門子だった」と話したところ、 Hさんが「この秋にそこに行くので一緒に行ってみませんか」と言うのです。 知り合ったばかりなのに、そんな事をお願いしていいのかと思ったのですが、 いつか石門子を訪れたいと思っていたので願ってもないチャンス、 同行することにしました。
12日、Hさんの妻のK子さんと北京へ飛び立ち、 翌日雲南省からもどったHさんと合流、14日ハルピンへと飛びました。 15日にHさんの知人の車で高速道路を一路東へ向かいました。 窓の外は一面の平原、とうもろこしや大豆の畑、穂をたれた稲などで、 煉瓦造りの家々の集落が点在しています。牡丹江も過ぎ、8時間後に東寧に到着。
東寧は今、道路拡張工事であちこち掘り返されており、
おまけに雨が降りはじめわびしい感じでした。
ホテルの部屋で父の写真を取り出し、ようやく来たよと話しかけました。
―― 運良く父の昔を知っている人に会えても、父の悪行を並べ立てられたら、
自分はそれに耐えられるだろうか。
胸が苦しくなりました。いや、ちゃんとした事実を教えてもらったほうがいい、
その方が父の裏表がつかめる。
苦しくてもその方がいいのだ。そう自分に言い聞かせましたが、落ちつきません。
―― 一番の目的は父の謝罪を父に代わって伝えることなのだ。
そのためにここに来ようとし、来ることができたのだから、
それを感謝すればいいのだ。
そう思いなおして、眠りにつきました。
写真1。道河郷の敬老院。 (隣にある中学校の生徒の寄宿舎にもなっている。)
翌16日も大雨、舗装がひとつもないデコボコの道には水があふれだし、
寒さもひとしお。
タクシー運転手の楊さんはハンドルにかじりつき、
道河郷の敬老院へ案内してくれました。
ここに石門子の慰安所に入れられた朝鮮の女性がいるのです。
彼女は留守で、以前身をおいていたお宅へと進みました。
その李さんに会え、父の写真を見せましたが記憶にないようでした。
私が父の謝罪を伝えると、とても喜んで涙を流しました。
そのあと敬老院の職員を交えて楽しく昼食会をもったのですが、
最後に彼女は大泣きしました。
「昔は人間扱いされなかったが、
今は朝鮮人の自分を中国の人が敬老院にいれてくれで幸せだ。
だけど年をとってしまい、働けなくて役に立つことができず、それがつらい」
彼女は敗戦で日本軍に放り出され、食べていけないので中国人男性と結婚したが、
子どもを産めない体になっていたので、夫は怒り狂い暴力が絶えなかったとのこと。
その夫の死後、年取って身寄りのない彼女を夫の親戚が引き取ってくれたのでした。
隣にいた私は彼女の手をさすり、抱きしめずにはいられませんでした。
皺のきっちり刻まれた黄土色の顔の彼女が今までに流した涙の量に、
涙せずにいられませんでした。
写真2。東寧付近の村。(雨の中)
午後には逆方向の高安村へと車を飛ばし金さんを訪ねましたが、
朝鮮語しか通じず近所の親戚が通訳してくれました。
父のことは知らないようすで、謝罪を伝えても彼女の固い表情は変わらず、
私は冷や汗が出ました。
これであたりまえだ、と自分に言い聞かせているうち金さんの表情がなごみ、
気持ちが通じて帰るときには涙で抱き合いました。
年とっても家事をこなしているらしい彼女は、やせて折れそうな感じでした。
何時間も車で大雨の道なき道をゆられ、
また二人の女性に会ってひどく緊張したせいかたちまち風邪をひき、
心細い思いでホテルにもどりました。
あくる17日も大雨の中を、楊さんは石門子村にひた走りました。
村長格の郭さんを訪れると、近所の人も集まりました。
ここの憲兵宿舎に2年半いた父の写真を見ても、思い出さないようす。
やさしかったAさんのことはよく覚えていて、
また厳しかった分遣隊長のことも覚えていました。
隊長は今91歳で寝たきりになっていると私が言うと、
まだ生きていたのかとちょっといまいましそうな声があがりました。
ここはソ連との国境なので、すぐにスパイ容疑で憲兵隊に連れこまれたとのこと、
向こうの家の誰、あそこの誰々と殺された人の名がたちまち出ました。
父の謝罪の碑の写真を見せると居合わせた人の顔がなごみ、
郭さんは「覚えてないということは、
そんなに悪いことはやらなかったんじゃないか」と慰めるように言いました。
郭さんは「一松」という名のコーヒー館のコックをやらされ、
昼は将校、夜は沢山の兵士がきたそうです。
隊長の奥さんから聞いたとおり、すぐ近くに神社が作られ、
郭さんたちもお参りを強制されたとのこと。
私は「いつかここに来て、父に代わってお詫びしたかった。
今その願いがかなってとてもうれしい」と言いながら声がつまりました。
ちょうど持っていたのり巻きあられを思わず皆さんに配ると、
どの人もほんとにやさしいのです。
それから一緒に写真をとってもらいました。これは私の宝になるでしょう。
写真3。日本軍の要塞に向かう道。(水があふれ、引き返す。)
それらの人に別れを告げ、父の所属した大肚子川憲兵分隊跡に行ってみると、
小学校になっていました。
また数百人の兵士の兵舎は影も形もなくなり、小高い丘だけが残っていました。
このあと日本軍の要塞が記念館になっているというので向かいましたが、
大水で道がなくなり引き返しました。
父の罪行ははっきりしませんでしたが、
憲兵の一員として確かにここに居たことが実感できました。
隊長の奥さんは「6月になるといっせいに鈴蘭が咲き、
宿舎にはおおきな畑があり野菜を作れた。
あなたのお母さんとは隣どおしで仲良くすごせたし、
1歳の坊やもいたはず」と以前なつかしそうに語っていました。
戦争を体験してない私には、 このような辺境ともいえる地に日本軍が入ってにぎやかだったこと自体が驚きです。 父母や隊長たちはどんな思いでここに暮らしていたのか、 おそらく罪の意識もなく中国人を追い立て、拷問していたのだろうと思います。 母たちが喜んでいた畑ももとは誰のものであったか。 やられた側は忘れていません。
父は1945年8月1日付けの命令で渾春へ赴き、この東寧には8月9日零時すぎ、
ソ連の第一極東方面軍が侵攻しました。
Aさんの妻と私の母はいち早く帰国しましたが、隊長夫妻はバラバラになり、
大変な目にあっています。
憲兵や兵士だけでなく、東寧の開拓団、義勇隊、
また新京一中から東寧報国農場に派遣されていた生徒たちも
ソ連軍の侵攻とともに苦境に立たされました。
すべてはここでくりひろげられたのだと、私は車の中から外の景色を見つづけました。
半世紀も前のことなのに、昨日のことのようでもあります。
亡くなった人の魂や、生きている人の心が形をとって現れることができるものならば、
この中国の大地には被害にあった中国人や朝鮮人の魂と心が根を張って林立し、
さらに加害者から被害者へと転じた日本人の魂と心が
そのあたりをふわふわとさまよい、苦しい苦しいと叫びつづけていることでしょう。
午後にはまた東寧のはずれに住んでいるもう1人の女性を訪れ、共に抱き合いました。 Hさんはこれらの慰安婦にされた方たちに、息子のような思いやりで接していました。 またHさんは「このような日本人もいるのだということを 中国の人にも知ってもらいたいから」と言い、 K子さんと手分けして私の行動をビデオに撮りつづけてくれたのです。
やがて素朴で高潔な運転手の楊さんと別れ、夕方綏芬河市に向かいました。 ここは文字どおりロシアとの国境の町、ロシア人の買い物客であふれています。 若いタクシー運転手は「生まれて初めて日本人に会った」と驚いていました。 Hさんの親友の知り合いだという、 この町のホテルの支配人が手厚くもてなしてくれました。 中国人は今でも人と人とのつながりを、とても大事にしているのがわかります。
そして18日、高速バスでハルピンにもどりました。 翌日、別の地方に住む慰安婦にされた女性に会いに行くHさんと別れ、 K子さんと私は北京に向かいました。 Hさんの友達の案内で王府井の大通りを歩いていると、 あの石門子あたりの辺境の人々との差があまりにも大きく見え、ため息が出ました。 20日には無事帰国、猫のくり子に久しぶりにえさをあげることができました。
この旅はHさんの大きな心のおかげで実現でき、 また中国の庶民の人をたくさん知ることができました。 H夫妻に心からお礼もうしあげます。
父の謝罪の碑と私の課題(倉橋綾子)
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