春とは名ばかりの肌寒い朝、第14次訪中団一行は、百羽の白い鳩に迎えられて、侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館を訪問した。回を重ねても此処に来ると身の引き締まる思いがする。朱成山館長はじめ関係者の同席で式典に臨む。朱館長は重要な任務に就き乍らその片鱗も見せぬ柔和な態度でわれわれを迎え入れて下さった。二十四名の心を一つにして黙祷、献花。
石段を上がり、何かしら昨年と景色が変わっていると感じ乍ら、三々五々歩を進めて、ほの暗い入り口の遺骨に合掌。謝罪に参りましたと挨拶をする。青い幕で囲まれた場所、小学校のプールの広さか。何という…、六十二年前に日本軍の犠牲になった婦人子どもの遺骨数十体が新しく掘り起こされているではないか。半世紀以上も土の中でじっと耐えていた数十体の遺骨。この一人一人の尊い命が生を全うする事もなく、何故……。活字で読み、話で聴き、多くの写真で見た筈なのに。事実を目前にして足が震え心臓が高鳴った。幼い子ども四人、なんとその遺骨の幼いこと。どんなに怖かっただろう。近くにあるのはお母さんのだろうか……。日本刀で突かれたり、首を切られて胸の上に置かれている。銃殺された人も多い由。もっと詳しく説明された様に思うが、頭の中を空廻りしていた。日本人として今更乍ら憤りを覚えた。松の手入れもそこそこに一行が館内の見学を始めた時、石碑の写しを終えて後から追いついた深谷さんを見つけて案内して引き返す。今しがた私が会ってきた新しい遺骨に対面して貰った。二人とも、交す言葉もなく立ち竦む。
ややあって、早く早くと誰かに呼ばれ応接室に直行する。皆さん館内の見学を終え既に着席されていた。今年は見学の時間が短い様に思えた。ただ一つ私に小さな救いがあったとすれば入口の柵にさげてあった献花の白いリボンに、日本の修学旅行生の高校名が数本あった事である。もっと多くの学生や若い人達が此処を訪れて過去の歴史を見つめて欲しい。私に出来る事は、日本に居ても色々な場所に出て、事実を証言する事だと改めて決意する。
東史郎氏の戦中日記や、南京攻略当時の詳しい資料が展示され、問題の郵便袋も実物で、日本のそれと比較してあり、残虐行為の証拠となっていた。中国側も応援してくれているこの裁判の行方を注意深く追っていきたい。日本という国が後戻りしないためにも。
翌日は好天に恵まれ、珍珠泉で、昨年同様、女貞の苗木を植える。とは言っても、既に穴を掘って貰った中に植えるので、普段労働しない私達のために優しい心遣いに毎回の事乍ら感謝してスコップと闘った。
午後は、始めて参加された方達に混じって中山陵を見学するが、石段を登る途中で、私だけが落伍して皆を見送り平坦な場所で待つ事にした。一つ空いていたベンチに腰かける時隣の婦人に「よろしいですか」と身振りで聞く。初老の婦人は、「どうぞ」という手振り。私を見て微笑んでいる。私も微笑み返す。どうしよう……話せない……どうしよう……。廻りには五、六人の男性が注目している。思い切って紙片に書いてみた。私は今日木を植えました。南京大虐殺の謝罪の為に。来年も植えますと。齢はいくつと聞いているらしい。70才と書く。婦人は68才と書く。「若いですね」と言われた様に思えた。私の肩を抱いて「朋友」と叩いた。婦人は私のペンを取り南京大虐殺の部分を棒線で消した。過去の事であなたがやったのじゃない、と言っている様だ。私は永久謝罪と書いた。覆いかぶさる様に見ていた若い男性が自分の名刺の上にその母親の名を書いて私に渡した。段秀琴さんと。私は両の手で堅い握手をしてお別れした。勇気を出してよかった。恥ずかしかったけど。言葉はできなくても、真実を以ってすれば解り合う事が出来ると信じる。
訪中団の人数が多いときも少ない時も、南京市人民政府の孫文学先生始め多くの中国の人の親身のお世話があり御協力がなくては到底為し得ない。小さな謝罪の行為をこれからも続けていけます様に心からのお願いと御礼を申し上げます。ありがとうございました。
悔い詫びて蘇へる命のなきものを
この罪人のはらからぞわれ
桜惜月 丸山トクエ
(編注)
緑の贖罪訪中団報告集、「南京・追悼献植訪中団の記録」第14集(1999年)所収。
許可を得て掲載させていただきました。侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館の訪問は3月30日、珍珠泉公園での植樹は3月31日。
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