父 と 戦 争

父の語った戦争・語らなかった戦争 No.3

味田捷治


「戦争が起きれば、何でも有りだ」 という言い方ほど嫌悪しないではいられない言葉を私は他に知らない。 激しい怒りが湧くこの言い方を、戦中派世代等が不用意に口にすることは、 残念だが日本人の感情が堅くて平板である何よりの証拠である。 本質の部分で、戦前とまったく変わっていない民族の病理のひとつと言いたい。 まもなく93歳の誕生日を迎える私の父が、死の床に伏した。 戦争を強いられた孤独の生涯を終えようとしている。 二本足で立てなくなる直前の今年5月下旬、 深夜に父は突然「隊長に逢いに行く」とよろけながら背広の上衣を肩に被せ、 家を出た。 下はステテコ姿だったが、 排尿の障害で尿道に通したパイプと腰に尿量を計るビニールの袋を下げていた。 飯盒のつもりだったらしい。 物音に気付いた89歳の母は、隣の姉の家を訪ね父の行方を告げた。

ほどなくして、近所の家の庭先に置いてあったドラム缶に手をかけた、 真っ暗やみの中で「隊長を迎える直立不動の父の姿」が在った。

他人事としては、ボケ老人の笑い話だろうが、当事者の私にとって戦争の悲哀を、 現実生活の中で示された衝撃は小さくなかった。

私の父は1937年の秋、自動車輸送隊の一兵士として、 神戸を出港し隣国中国大陸の上海に上陸し、江南作戦と名付けられた父の部隊は、 兵士、弾薬、軍需物資を満載して南京に向かって直進した。 父の手元にはその時進んだ中国の地名が書かれた道順を示すものがある。 1937.12.12南京市の手前、清水河に父の部隊は到達した。 以後3年半の長きにわたり、父は杭州、徐州、武漢、重慶方面へと長江沿いを、 さかのぼるように三光作戦のど真ん中を突っ走った。 人殺しの鬼に変質して、駆け抜けたのである。

<攻略経路の略図>

激しい戦場のストレスは、父に不治の神経性の下痢をもたらし帰還させられた。 郷里の駅頭にたったひとりだけで戻った父は、 骸骨が透けて見えるほどやせ細っていた。 それでも町内会の婦人達が黒山の人波となって出迎えた。 将軍様でも帰還するのかと思ったと、 その日迎えに駅に行った従兄弟の証言である。翌年私は生まれた。

中国人を殺さないでいた父であってほしいと思っていた、 私の願いは叶わなかった。 父が語った戦争のことは少なく、語らなかった方が余りにも多い。 語らせないで父を精神の孤独に追い込んでいたこと、 戦争の総括から身を反らせて無為の日々に私の不徳を見、 尽きない悔やみと痛恨の思いだけが残る。

戦場の父が、ひとり友軍から離れ、中国軍の兵士に追われたか、 墓地に逃げ込んで隠れ潜み、恐怖の一夜を過ごしたこと。 また場所は私には不明だが、 中国中部の農村地帯で部落焼き討ちの命を受けたその村で、 父は自らの手で19名の中国人を射殺したことを告白し証言した。 20人目は次のように非情なドラマだった。 老婆に銃口を向けた時、その中国人の老女は鬼婆と化して、 ものすごい形相で髪を振り乱して父を睨み返したというものだった。 あまりの老婆の迫力に圧倒された父は、一瞬たじろいでしまい銃を発射できずに、 立ち去ったという。 その時の中国人老女の死を目前にした地獄の恐怖は、いかばかりであったか。 痛ましく悲しい過去を振り返り、真実を語る意義はまことに大きく尊いことを、 私は父の少ない戦争執行の話から学んだ。

死の床の父を訪ね、ここ1ヶ月余り東京と郷里を行き来し、 24時間介護の父の付き添いの手伝いをしている。 話すこともできず、食も受け入れられなく、点滴に命の灯を託すだけの、 残り少ない時を迎えた父は何を思っているか、 痴呆が進み老人の患者独特な声を出す。 昼は比較的静かだが夜になると変身したかと思わせてしまうほど、父は、 何ともいえない唸り声を毎夜のように出す。 不気味な響きさえ感じさせる怒りのような声は実に強烈だ。

耐えがたい臨場感を周囲にまき散らしている。 手を握ると強く握り返して、一時声は止むが手は奮えている。 何者かを恐れているようだ。 私も人並みに、親の死に臨んで安らかに、苦しまないで逝ってほしいと思う。

しかし、父の地獄は、今まさに訪れたのだ。現在の病院の前、 救急車で運ばれた病院を追い出されたことだけで、説明はいらない。

戦場での恐怖の体験が、加害のおぞましい光景が、 父の脳に記憶されていたことは確かだろう。 介護の中心だった次姉が、このストレスで倒れた。 兄は病室で酒を口にしないと耐えられないと、 タブーの缶ビールを2、3本持ち込んだことがあると話した。 弟は勤め通いの折り、朝、晩と顔を出し、週末に付き添いの泊まりをした。 現実生活者の日常を吹っ飛ばしてしまう父の嘆きの声は、 いったいどこからでてきているか問うまでもない。

父の戦争の傷跡、心の痛みは予想していたものの、これほどまでとは、 すごいの一語に尽きた。 自らの認識の甘さを恥じるばかりである。 声の高さと、声の質は病室のドアなどないと同じで、病棟中に響きわたり、 他の患者のことを思って、夜通し父の口を押さえつけた。 これでは病院を追い出されるはずである。 幸い慈愛に満ちた個人病院の先生に受け止めていただいて、 父はあと数日の命を灯を燃やしている。夜になれば状態は同じだ。

私は父の死を、個人の、家庭の、 どこにでもある死の姿として認めようとはしていない。 父の死に社会性、時代性を見ようとしている。 事に臨んで辛辣な私は、父の枕元、耳元で「中国で女の人、子供、老男、老女、 降伏した中国兵など」を殺さなかったか、聞いた。 父は感覚は相当に鈍麻しているが、耳はどうにか聞こえている。 意志はかろうじて通じている。 手や足から血の色がなくなってきていて、 父は黄泉の国の戦友に片手を握られているのだろう。 首を何回も振って「そんなことはしていない」とも 「そんなことを聞かないでくれ」とも言っているようだ。 何度聞いても同じである。 姉が何て事を聞くのかと、この期に及んで、と言いたげな顔をした。

父が関わった戦争の真実のほとんど全てを、 また父なりに受け止めていたであろう。 苦悶し続けた戦争の罪業を、 父自らの死とともに闇の側に抱いて消え去ろうとしている。

私は父の人生は、出征した時に終わってしまい、 父の戦争は未だ終わっていないと思い、言い続けてきた。 父に戦争のことを尋ねると、いつも「殺らねば殺られる」の言葉で、 話の道を閉ざしてきた。 臨終の場にまで父の戦争のことを追い攻める理由である。 以前の病院で、付き添ったある日の午前、 主治医の回診があり「おじいちゃん、夜、声がとても大きいそうだね。 怖い夢でも見たのか?」と尋ねた。

私はもう言葉を口から出せない父を代弁し、医師に対して、 次のような言葉を述べた。
悲惨な戦争の体験が、今悪夢となって父を襲っている。 老衰して意識のレベルが低下してくるほど 過去の深い精神的な外傷体験が再現される。 トラウマというそうで父もこれに違いない。 父はそう簡単に死なない。 成仏はたやすくはない。 といって、父の枕元に置いたノーモア南京の会のニュース紙を手にし、 先生!この300000の数字は、中国人の人柱です。 このうちの何十人かは、ここにいる私の父が殺したが、 明確な反省の言葉もなく、態度にも現していないと、 語気強くまるで医師をなじるような言い方をしてしまった。 苦笑しながら主治医は無言で病室を出ていった。 後日このT医師は二つの大学を卒業した、郷里では評判の名医で、 神経内科の専門医と聞いて、ひとり赤面した。

付き添いの交替で病室に顔を出した姉に、 「親父の葬式にはでないからな」と強がりを言ったのもこの日の午後だった。

私にとって救いだったのは、 父が中国人に対して個人的な立場から決して差別したことを 一言も言わなかったことである。 中国の人はみんな大らかで、心持ちのよい人たちばかりだったと、 子供の時から何回となく聞かされた。 父の胸の内にはいったい何が去来していたのか。 父がつぶやいたことがある・・・戦争のことを、 とんでもないことだ・・・父の口からでた唯一の反省らしきことばだった。

私はかつて父が幹事役を引き受け、 平和運動家として希有な存在の土屋芳雄氏の自宅の向かいのホテルで、 江南作戦時代の戦友会を開いていたことを知っている。
全国から30余名ほども集まっただろうか。 久しい再会だった仲間達が写真に収まっていた。 誰もが緊張した顔立ちで撮影されている。 カメラのレンズは、中国兵の銃口ではなかったか。 父が病院の個室で、一ヶ月あまりに渡って叫び続けた「うわー」という声は、 父が自らの手で殺した中国人の恐怖の叫び声が、 父の脳に記憶されたものが再生されたものに間違いない。

(附記)味田さんのお父上は、1998年7月28日に永眠されました。 ご冥福をお祈り申し上げます。
劉彩品さんより文中にある清水河は、 揚子江沿いの蕪湖市(安徽省の省都) に隣接している清水市ではないかとのご指摘がありました。 なお略図の上にある廣徳、十字舗、寧国、清水河は安徽省内、 南京の西南方面に位置しています。

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