橋本伍長に感情移入した裁判官

劉彩品

                                        最終更新：１９９９年９月１７日

１９９８年１２月２２日の東裁判の判決は、１１月の判決日が延期された段階で予想していた結果であるが、判決文を見て、西本伍長に感情を移入した裁判官が出す当然な結論だと思った。法の前ですべての人が平等、公平という原則を無視しての不当な判決である。判決文は多くの検討すべき点があるが、以下は判決文中の推理方法に重点をおいて、ｐ３８－７６【裁判所の判断の焦点３（真実性）】の部分から、判決の不当性を分析する。（文中【・・・】の部分は判決文からの引用である）

一．「真実性」の分析は真実だったか？

判決文は、全文の４０％の分量を『東日記』の真実性の分析に当てている。「橋本が中国人を虐殺した行為」（以下《行為》と略す）を記述した（記述３）の陣中メモが欠落していること、記述３の《行為》が実行可能かなどについて論じているが、主観的、非論理的、非科学的な推論である。
判決文では、裁判官が正しい推論方法をつかっていないので、以下の議論の必要のため、まず正しい推論の基本を纏めておく：「ＡならばＢ」が真の場合、逆「ＢならばＡである」と裏「ＡでなければＢではない」は必ずしも真ではないが、対偶の「Ｂでないならば、Ａではない」は真である。

１．「陣中メモは、元々作成されていない」という結論は正しいか？

ｉ．陣中日記が欠落していることについて東さんは「平和のための京都の戦争展」で紛失したと説明した。それを判決文は【原資料というべき貴重な陣中メモを関係者によって紛失されることは、到底考えられない】との理由で、【陣中メモは、元々作成されていなかったものと認めるほかない】と結論をだした。
「到底考えられない」という言葉は絶対正しい“仮定”がない限り話し手の主観をあらわすにすぎない。裁判官は「貴重品ゆえ紛失しない」と“仮定”したが、この“仮定”が真であることを証明するためは“仮定”の対偶、「紛失したものは貴重品ではない」も真でなければならない。従って“仮定”が正しくないことは明らかである。
正しくない仮定から「到底考えられない」といくら裁判官が力んでも、到底裁判官の主観でしかない、主観から導き出した結論、「陣中メモが作成されていない」は真実とは言えない。

ｉｉ．東さんには1937年9月から2年余友人宛に出した手紙がある。判決文にはその手紙が【日本軍兵士による中国人に対する殺人行為、残虐行為に触れる部分もあるが、記述３に係る本件事件については、全く触れられていない】、さらに東さんが保存しているが当時のもの（軍票、ビラ・・・）の中にも【記述３に関するものは全くない】ということからも【陣中メモは、元々作成されていない】という結論をだした。
裁判官のロジックに従えば「友人に書いていないので、ほかにも書いていない」ことになるが、この場合「友人にはすべてのことを書いている」が前提条件になるが、この前提条件が正しいと保証されないので、裁判官のロジックは正しくないことになる。もしも「・・・作成されていない可能性がある」と書けば正しい推理になる。しかし裁判官は「可能」ではなく「断定」している。論理の飛躍である。
このような明白なミス、論理の飛躍をしてまで東さんの敗訴の理由づけをするのは、特別な意図があるためか、それとも裁判官の思考方法に根本的な欠陥があるためか不明だが、いずれにしても、日本の法曹界の由々しき問題である。
なお、判決文から裁判官が公平性を欠いていることも窺い知ることができる。欠落の陣中日記について、東さんは「戦争展で紛失した」と言い、戦争展の当事者は「元々ない」と双方食い違いの証言をしているが、裁判官は「到底考えられない」という主観で一方の証言のみを採用している。

２．《行為》は実行不可能か？

記述３の《行為》がなかったことを示すために、裁判官は《行為》は実行不可能と証明しようとしたが、発想、推論とも非論理的、非科学的である。
例えば；
ｉ．声が聞こえていれば、必ず行為が見えるか？
判決文は、【控訴人東は「オイ、そんなにあつければ冷たくしてやろう」という橋本の声が聞こえるような近距離で橋本の動作を見ているはずなのに、橋本の具体的な動作（例えば・・・）について、控訴人橋本（東の間違い、著者注）は原審において極めて曖昧かつ抽象的な供述しかできなかった】という理由で、【控訴人東が具体的な事実を再現して供述することができなかったのは、本件行為を目撃していなかった、すなわち、本件行為が実行されていないからと推認せざるを得ない】と断定している。
裁判官のロジックは「東は橋本の声が聞こえたが、行為が見えなかったのは、行為を目撃していない、すなわち行為が実行されていない」である。声が聞こえて、行動が見えていない現象は小学生も知っていることである。いや、赤ん坊でさえ気付いていることである。赤ん坊は音が聞こえて物が見えない時、目をきょろきょろして音源をさがすのは気付いている証拠である。もっともこの現象を科学的に解釈するためには高校生の知識程度が必要であるが。「聞こえているが、行為が見えない」という不思議でも何でもない、科学的に説明できる現象を裁判官は「本件行為を目撃していなかった、すなわち、本件行為が実行されていない」という極めて重大な結論をくだした。荒唐無稽としか言いようがない。その真意は理解しがたいものがある。裁判官の智慧が赤ん坊程度とするのは不合理なので、文面に書けない“何か”があるとしか推測できない。

ｉｉ．ガソリンをかけた郵便袋は燃えて破損するか？
判決文は【ガソリンで燃え上がった人間の入った袋や紐が損傷等しないまま、かつ実行者において火傷の危険を負わず・・・】【燃えている袋を火傷の危険を負わず・・・】、ガソリンをかけて燃えた時【早く下火にならないと、袋や紐が焼損してしまう】とガソリンをかけられた郵便袋が燃えることによって実行者（西本）に危険を負わせることを書いている。しかしガソリンが燃えても郵便袋は必ず燃えて破損するとは限らない。
理由は郵便袋の発火点（火源がなくても空気中で自然発火する最低温度）が高いからである。当時使われているよう郵便袋は厚麻袋である。発火点は約３００度である。したがって、ガソリンの量によっては、燃え上がらないことがある。ガソリンが燃えていることは、気化したガソリンが燃えている現象である。ガソリンの気化温度は極めて低いため、ガソリンは火をつけられるとすぐ気化する。判決文にもあるように、東さんの支援団体がしたガソリン実験でも火をつけると【パット燃え上がる】現象が見えるのはそのためである。しかし、ガソリンがパット勢いよく燃えていても、麻袋は発火温度に達しない限り燃え出さないのである。その温度はガソリンの燃える時間、環境（温度、湿度、風）などに支配されるので、簡単に「ガソリンが燃えているならば、必ず袋や紐が損傷する」とは言えない。裁判官はこのような科学知識を考えもせず、勝手な想像でものを判断している。

ｉｉｉ．記憶が蘇えることは不自然なことか？
判決文には【現場を訪ねることによって、それ以前には右のとおり全くなかったといってよい記憶が鮮明に蘇えるというのは、極めて不自然であり】と推論し、【到底信用することができない】と断定した。
突然記憶が蘇えることは多くの人が経験してことがあり、至って自然なことである。４ヶ月前に、１９６１年度大学卒の同窓会の席上で、４０年間全然頭のすみにも止まっていなかった記憶が鮮明に蘇えった経験を私もしたばかりである。
東さんの記憶が鮮明に蘇えったことを私は証明する。石川達三の「生きている兵隊」（南京戦の１６師団３３聯隊をモデルにしたと思われる小説）をもとに、当時の兵隊の心理を東さんに聞く機会を作ってもらったことがある。南京までの道のり、行進、戦闘等々の話をきいた。話の途中、急に思い出したように東さんは「そういえば南京へ入る二日前のことだが、紫金山はすごい山火事だったなー－、中国兵が火を付けたそうだ」、さらに１２日の夜のことを思い出し「その夜は静かだったな」と語った。「生きている兵隊」ｐ．３６８（日本現代文学全集８６巻）に１２月１０日のことを「敵陣の守備もさすがに最後の全力をあげているだけに一歩も近づけないほど物凄い抵抗であった。こうしていては味方の損失のみあまりに大きい。・・・作戦は意外なところに活路を見出した。火をつけることだ。・・・味方の戦線から幾個所となく火が放たれた。小松の葉を燃やし草をつたい、枝から枝にうつり、炎は次第に海の波のように一つに連なって・・・黄色い煙がもうもうと戦線を包んだ・・」、１２日の夜のことを「山頂には静寂なよるが来て、寒気は北風と共に新戦場を凍らせた。」石川達三が描いているのは、部隊が紫金山を攻撃している話である。その時東さんは直線距離にしてほぼ２ｋｍ離れた中山門あたりにいた。
１９３８年に書かれた「生きている兵隊」の一節が奇しくも東さんの思い出と一致したのである（中国兵が火を付けたという東さんと日本兵が火を付けたと書いている点を除いて）。ちなみにであるが、「生きている兵隊」を東さんは読んだことがないし、私がその後コピーをして差し上げた。この一致は「生きている兵隊」の記述がかなり当時の事を反映していることを示すとともに、【全くなかったといってよい記憶が鮮明に蘇える】ことが至って自然であることを証明している。同席者は私のほか２名いたが、皆東さんの記憶に感心した。
自分が知らないだけで、【極めて不自然】と断定するのは、極めて横暴である。

二、　結論が先立つ判決文

上に述べたように裁判官はいたって非論理的、非科学的な思考の持ち主である。その為かどうか不明だが、なり振りかまわず結論が先立つような議論をしているところが目立つ。
以下、東さんが書いた西本の残虐《行為》のところを表１甲欄に、その部分に相当する判決文を乙欄に示す。

表　１

│番号│甲　　　　　　　　　　　　　　　　　　　│乙　　　　　　　　　　　　　　　　　　　│

│Ⅰ　│中山通にある最高法院は灰色に塗った大きな│中山通の最高法院前、すなわち、沼と反対　│

│　　│司法省である。最高法院の前にぐしゃりとつ│側の位置に壊れた自動車があり            │

│　　│ぶれた自家用車が横倒っていた。道路の向い│　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　│

│　　│側に沼があった　　　　　　　　　　　　　│　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　│

│Ⅱ　│支那人は、郵便袋の中へ入れられ、袋の口は│中国人が連れられてきて、袋の中に入れら　│

│　　│しっかり締められた。・・ぐしゃりとつぶれ│れ、被控訴人が右自動車から取り出したガ　│

│　　│た自動車の中からガソリンをだした西本は、│ソリンをかけ、袋が燃え上がったこと、　　│

│　　│袋にぶっかけ、袋に長い紐をつけて引きずり│次いで、被控訴人が火玉のように転げ回る　│

│　　│回せるようにした。　　　　　　　　　　　│袋につけていた長い紐をもってひきずりま　│

│　　│西本は火をつけた。ガソリンは一度に燃え上│わし、沼側に至り、そこで手榴弾を三発右　│

│　　│がった。…西本は、「オイ、そんなに熱けれ│袋の紐に結び付けて、袋ごと沼の中に放り　│

│　　│ば冷たくしてやろうか」というと、手榴弾を│込んだ　　　　　　　　　　　　　　　　　│

│　　│二発袋の紐に結び付けて沼の中へ放り込んだ│　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　│

甲と乙を比較すると、明らかに違う点は：
１、Ⅰで、甲文の「最高法院の前に横倒しになっている自動車」が、乙文では「沼と反対側の位置に壊れた自動車がある」となり、自動車の位置が明確になったこと。
２、Ⅱで、甲文が「西本は手榴弾を二発袋の紐に結び付けて沼の中へ放り込んだ」とあるところを、乙文は「西本が火玉のように燃えている袋をひきずって、沼側に持って行った」と袋が燃えていることを明確にしたこと。
３、Ⅱで、甲文が袋に「長い紐をつけて、引き回せるようにした」となっているのが、乙文では「長い紐をもってひきずりまわし」と袋を引きずっていることを明確にしたこと。
裁判官が、『東日記』の甲文を乙文のように読み換えた理由は記されていないので、文面から読み取るしかない。判決文には【はたして、ガソリンで燃え上がった人間の入った袋や紐が焼損等しないまま、かつ、実行者において火傷の危険を負わずに、４０メートル前後の距離を引きずり回すことができるか】と書かれている。
裁判官は(点１で)自動車を「沼と反対側の位置」にもっていくことによって、《行為》が沼附近ではなく最高法院側で行ったことを特定し、沼側までの４０ｍの間で袋を破損させるために、（点２で）袋が燃えているようにした。しかも（点３で）、「引きずりまわせるようにした」長い紐を「引きずり回した」ことにして、袋を４０ｍの距離を動かそうとした。

拡大図 (gif, 12 kB)

ミステリで活躍する名探偵は一見完全犯罪の中から犯罪者のトリックを見付けだすことだが、裁判官が作ったシナリオは名探偵でなくても簡単に破綻が見える。
実は１９３７年当時の中山北路は裁判官が考えているようなだだっ広い４０ｍ道路とは違って、図に示すような構造の道路である。道の両側には各３－４ｍの“人行道”と、“慢行道”（自転車道）、それに２ｍのプラタナスの植木地帯がある。道路の真ん中２０ｍ前後が自動車道路である。 “慢行道”と“人行道”の間は２０cm以上の段差があるだけでなく、 “人行道”には１０ｍおきにプラタナスの木が植えてある。植木地帯も“慢行道”や自動車道路と２０ｃｍの段差をつけている。このような道路構造を頭に入れてみると、甲文の記述、「最高法院の前に横倒しの車」は最高法院前の自動車道に描けるが、乙文の位置（沼の反対側）に横倒しの車を置くのは難しい。
そもそも『東日記』から《行為》のあった場所は特定できない。裁判官が無理矢理車の位置（車の位置と《行為》の間に直接関係があるとは思えないが）から最高法院側に設定したが、そこで《行為》するのは難しい。当時の地図（１９３４年日新與地学出版社が改定出版社、１９３７年日本軍が制定した南京市の地図）でみる限り、道路の南側には、最高法院、華僑招待所などの建物が立ち並んでいる上、上に述べた道路構造（建物、プラタナスの木、段差のある道路、一段と高くなっている植木地帯）、それに１０人の兵隊がたむろする場所などを考慮すると、『東日記』にある《行為》の地点は最高法院側よりも、空き地がある沼側にする方がより自然である。
甲文Ⅱの「西本は火をつけた。ガソリンは一度に燃え上がった」とあるが、この記述は、前節で説明したガソリンに火がついた時の現象に合致する。しかしこの文から、ガソリンだけが燃えているのか、それとも袋に延焼したのかは読み取れない。ところが、裁判官は前節であげた環境条件の検討もせずに、勝手に袋を燃え上がらせている。
以上の検討から、表２の『東日記』から「沼側で中国人を袋に入れ、長い紐でくくりつけ、ガソリンをかけた袋に火をつけ、パット火がついたが、手榴弾を二発袋（袋は燃え上がったかどうか不明（ガソリンの量、風、温度、湿度が分からない））の紐に結び付けて沼の中へ放り込んだ」と読むことはできる。《行為》の実行は可能である。
ところが、裁判官は『東日記』から読み取れないような情報を加工し、《行為》地点を設定したり、袋を燃え上がらせたりして、苦心して《行為》が実行されないことを証明しようとしたが、上に述べたように、不可能な設定の上科学常識無視をしての推論である。このような幼稚な推論を、難しい司法試験を通った人たちがするでしょうかと考えると、裁判官は、結論（東を敗訴にしてやる）をもってこの裁判に臨んだのではないかと推測するしかないようだ。
なお、東さんが提出した沼が記されている地図、郵便袋などの証拠品について、判決文は【単に本件行為が実行される前提条件が存在し得たといえるにすぎず、このことから本件行為が真実実行されることまでは到底できない】と書いている。推論方法としては、珍しく正しいが、最高法院前に沼があることは、『東日記』の記述の真実性（沼が東さんの創作でないこと）を証明する極めて重要な証拠品である。

三、裁判官の精神構造－西本伍長に感情移入している

判決文には「全く」、「到底」が頻繁に出てくる。その表現の幾つかを表２の甲欄に列挙し、甲文から「全く」と「到底」を取った文を乙欄に列挙する。
甲文と乙文を見比べてみると、意味は変わらないが、甲文から書き手の力み、物事を強調しようとしている気持ちが伝わってくる。

　　　表　２

│頁│　　　　　甲　　　　　　　　　　　　　　│　　　　　乙　　　　　　　　　　　　　　　│

│42│陣中日記は全く存在しない　　　　　　　　│陣中日記は存在しない　　　　　　　　　　　│

│43│紛失したことをうかがわせる証拠は全く存在│紛失したことをうかがわせる証拠は存在しない│

│　│しない　　　　　　　　　　　　　　　　　│　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　│

│44│記述には全く触れられていない　　　　　　│記述には触れられていない　　　　　　　　　│

│45│記述３に関するものは全くない　　　　　　│記述３に関するものはない　　　　　　　　　│

│49│本件行為が真実実行されたと到底認めること│本件行為が真実実行されたと認めることまでは│

│　│まではできない　　　　　　　　　　　　　│できない　　　　　　　　　　　　　　　　　│

│　│信用することが到底できない　　　　　　　│信用することができない　　　　　　　　　　│

│52│到底実行可能性があるものとは認めることが│実行可能性があるものとは認めることができな│

│　│できない　　　　　　　　　　　　　　　　│い　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　│

何故判決文がこのような書き方をするかについて、専門家の弁護士さんの意見をきいた。二つのケースが考えられると教えてくれた。（１）一見証拠が沢山あるように見えるが検討してみたら一つも該当するものがないことを強調するような場合、或いは（２）訴訟当事者の対立が激しく裁判官自身が一方当事者の立場に感情移入を行ってしまう場合、とのこと。
上で明らかにしたように、裁判官は非合理な検討方法で結論をだしているので、（１）ではありえない、とすると（２）の可能性がある。
（２）にすると、前の分析の際、なかなか説明できない“何か”が説明出来るようになってくる。その“何か”とは；裁判官が西本伍長に感情移入をしたことである。

[ ホームページへ ] ・ [ 上へ ] ・ [ 前へ ] ・ [ 次へ ]

メール・アドレス：

nis@jca.apc.org