最終更新:1999年9月14日
この数年来、アジアの戦争被害者が日本の政府や企業に損害賠償を求める裁判で、
日本の裁判所が下した判決に接するたびに、
私は裁判に訴えることの空虚さに襲われ続けてきた。
とりわけ私の関与する花岡裁判(戦時中、秋田県花岡に中国人を強制連行し、
厳しい酷使のすえ、
多くを死にいたらしめた鹿島建設に対する中国人生存者・遺族の損害賠償請求裁判)
を審理した東京地裁民事第13部が、その前回公判で、
原告側にあたかも事実審理を始めるポーズを見せ、
次回公判で立証計画を提出するよう求めておきながら、
1997年の2月3日の次回公判において、
自ら求めた立証計画の陳述すら認めることなく、
闇討的に結審を強行した際には、私は驚きのあまり声を発することすらできなかった。
人権を守るべき最後の拠り所である裁判所が、
いかに陳腐なものになり下がっているかを思い知らされているのは、
多くの戦後補償運動を戦う仲間たちの共通する思いである。
しかし、しかし、戦後補償運動を戦う多くの仲間たちは、
決してあきらめることなく、いわんや、決して絶望することなく、
一縷の望みをかけ、裁判闘争に立ち向かう。それにしても、東裁判の、
控訴審における審理の経緯からして、私は判決に期待を寄せた。
1937年12月、京都の第16師団歩兵20連隊の兵士として、
南京占領戦に従軍した東史郎さんは、自ら銃の引き金を引き、銃剣を振り下ろし、
そして様々な惨劇を目にした。東史郎さんは、南京でのそれらの様相を克明にメモに記録し、その戦地でのメモを基に「東日記」を作成した。笂兼畷L」の一部を青木書店が「わが南京プラトーン」として出版したのは、1987年のことであった。
「わが南京プラトーン」で、描かれていた南京での一つの情景が、
後に戦友により問題とされる。最高法院前にある沼の近くのことであった。
一人の中国人を同じ部隊の同僚・西本が捕まえてきた。
そしてその中国人を麻の郵便袋に押し込み、
近くの自動車から抜き取ったガソリンをかけ、火をつけた。
その後、西本は袋の紐に二つの手榴弾を結び付け、袋ごと沼の中に投げ込み、
その中国人を沼の中で爆死させた。その様相が記述されている、
1937年12月21日付の「日記」が、
戦友・西本(本名は橋本)により問題とされるのである。
「わが南京プラトーン」で記述されている
1937年12月21日の「日記」は事実に反し、
自らの名誉を毀損するものであるとして、橋本氏が、
1993年4月、東京地裁に提訴したことにより、
はからずも「東裁判」が開始されることとなったのである。
ところが、原告の橋本氏は、昨年の控訴審での法廷で、
いまだ「わが南京プラトーン」を読んでいないと証言した。
読んだことのない橋本氏が、自身の名誉毀損にあたると提訴するとは、
一体何を意味するのだろう。東さんが主張するように、真の原告は、
「体に背広を着ておるけれども、心に軍服を着た連中−
南京大虐殺を否定しようとする偕行社の連中である」のだ。
従って、「東裁判」は単なる個人間の名誉毀損の当否を争う事件ではなく、
南京大虐殺をめぐる極めて政治的事件とならざるをえなかったのであった。
残念なことに、東京地裁は、1996年4月26日、東さん敗訴の判決を下し、
審理の場は東京高裁に移った。
控訴審での焦点の一つは、「東日記」の信憑性についてであった。
ところが、60年を超える歳月の流れが、「東日記」の真実性の立証を困難にした。
しかも、「東日記」の基となった陣中メモ、戦地メモのうち、
肝心な1937年9月から1938年8月の分を紛失してしまっているのである。
しかしながら、1938年8月以降の戦地メモは現存しており、
東さんが1939年9月に復員してから、1942年2回目の出征までに、
「東日記」(第1巻〜第5巻)としてまとめられたものが、
それらの戦地メモに沿ったものであることが証明されている。
そして「東日記」の第5巻の最後に、1944年2回目の出征のため、
日記を中断せざるをえないことも書き添えられている。
これらを踏まえ、裁判官が物事を総体的に思い巡らすことができれば、
1937年12月21日の最高法院前での「東日記」の記述の基となった戦地メモが
存在していたことを判断することは容易であるはずだ。
しかも、「東日記」が戦後40数年に亘り、
東さんの自宅で埃にまみれて眠っていたことからして、
東さんが日記で、嘘を書かねばならない理由は何もなかったのである。
東裁判弁護団が「東日記」の真実性を立証するため、
現存する“戦地メモ”を証拠として裁判所に提出したことは言うまでもない。
焦点の第2は、第1審の判決の重要な根拠となった
”1937年12月21日の最高法院前での記述は物理的に不可能”
という判断に対する反証にあった。
東裁判弁護団と支援者たちは、中国側の好意により実現した、
水中での手榴弾爆破実験を含めた様々な実験を試み艨u東日記繧結L述が、
充分に”物理的に可能である”ことを証明した。
そして、これらの実験は、特別な悪意がない限り、
決して無視できない立証活動であったと確信できるものであった。
以上のように、控訴審では、多岐にわたる、
かつ説得力のある立証活動が実現されたことからして、
勝訴できるのではという思いに駆られたのは、決して私一人ではなかった。
果たして、12月22日、東京高裁判決はどのようなものとなったのか。
立証活動が法廷で成果を上げたと確信した私の、
私たちを待ち受けていたのは完全なる敗北であった。
ショックだった。
そして、86歳の老体に鞭打って闘い続けた東さんの無念を思うと、
胸がはちきれそうになった。
東京高裁民事7部は「東日記はすべて嘘だ」という結論を下し、
控訴人側の様々な実験による立証活動を無視し、
東さんに名誉毀損に対する慰謝料支払いを命じたのである。
1998年5月に、
まるごと入れ替わった東京高裁民事7部の裁判官たちは
初めから東日記はすべて嘘であるという予断に基づき、
判決文を書いたようである。
東日記で記述された情景は、1937年12月から翌3月にかけて、
日々南京の街々で起こっていた一コマであったことを、
裁判官が認識できたとしたら、
かくも不当な判決を下すことはできなかったはずである。
この判決は、東京高裁民事7部の裁判官の歴史認識の表れであるとともに、
この裁判官たちが「歴史的な洞察力を持った事実認定」
ができなかった人々であるという立証でもあった。
判決公判終了後、橋本氏と代理人の高池弁護士は偕行社のメンバーを引きつれ、
「南京虐殺捏造事件勝訴」という横幕を掲げて、記者会見を行った。
この横幕にこそ、この裁判の本質がある。
そして判決は、
南京大虐殺が中国人による捏造であると主張する人々を強く励ますことを結果した。
判決後の報告集会で、東さんは腹から絞り出すように語った。
「本当に腹の底から無念であります。私は60年前の戦争で、嘘を書かねばならない理由はひとつもありません」
上告理由書が語るように「このような本件の争点の特殊性から、
戦時や南京占領中の客観的状況や日本軍兵士の意識状況に関する正確な把握、
南京事件に関するまっとうな歴史認識がなければ、
本件に対して正しい事実認定が行われるべくもない」
東裁判は、控訴審で敗北した。
しかし、歴史を読めない、
従って日本の将来も見えない裁判所が誤った判決を下したにすぎず、さらに言えば、
東日記の真実と南京大虐殺の真実と向き合うに足る歴史認識を持つことのできない
人々によって判決が書かれたというにすぎないのであった。
東さんは敗訴した。
しかし、東さんが南京大虐殺に加わった兵士として、
自らの加害を歴史に刻印したという事実は、誰であろうが、
決して消し去ることはできない。このことこそに、東裁判の大きな意義がある。
また東さんの闘いは、日本の侵略戦争に従軍した元兵士たちには、
決して忘れ去ることのできない幾多の情景が脳裏に焼付いており、
彼らの心では、事にふれ悔悟と開き直りが葛藤しあっており、
しかし、一つのきっかけさえあれば、
彼らのエネルギーは”歴史の反省と教訓”に向けて流れ出るということを物語っている。
問題は多分、歴史と真摯に向かいあおうとする社会運動が、どれだけの影響力を持ち、
一つのきっかけを与え続けることが出来るのかということではないだろうか。
既に「上告理由書」が最高裁に提出され、闘いの舞台は最高裁に移った。
上告理由書では、控訴審判決を詳細に検証し苳咥_を加えながら、
橋本供述の信用性に関する控訴審判決の誤りを裏付ける新たな証拠も提出している。
「上告理由書」によれば、橋本氏は、昨年11月、香港テレビの取材に応じ、
「日記の日はどちらにいらしたのですか。」という質問に対し、
「それも自分に記憶がないわけ。思いだそうとしても思い出せないわけ。
あのように書いているから、あそこにいたのだろうとこのように思うだけです。」
と答え、さらに、
「私も殺しました。戦争というものは、殺し合いをするのが正当、当たり前、
だから、こうして郵便袋の事件も、人を殺すのは戦争の行為、
一つの仕事だから。」と述べている。
この告白は、控訴審の判断をくつがえす、極めて重要な新たな証拠である。
しかし最高裁が事実審理に踏み切るかどうかは、ひとえに、
この問題に対する社会的関心のいかんにかかっていると言える。
昨年12月22日に下された控訴審判決に対し、中国政府は強烈な批判を加えた。
中国のあらゆるメディアは、この控訴審判決が、
南京大虐殺という歴史事実を歴史から消し去ろうとする試みであるとして、
大きく取り上げている。と同時に、中国の人々は東さんの闘いを高く評価し、
力強く東さんを励まし続けている。問題は日本なのだ。
[ ホームページへ ] ・ [ 上へ ] ・ [ 前へ ] ・ [ 次へ ]