NNN105

2.11特集
今年も各地で2.11集会がもたれました。ここでは、東京の2つの集会について報告、ご紹介します。

●第36回建国記念の日粉砕・靖国国営化阻止2.11東京集会
 2.11東京集会実行委員会主催、日本キリスト教協議会(NCC)靖国神社問題委員会後援の上記集会が、千代田公会堂を会場に開かれました。今回は、弁護士の今村嗣夫さん(津地鎮祭違憲訴訟担当)と関千枝子さん(小泉首相靖国神社参拝違憲訴訟・東京原告)に講師としてご発言いただきました。ここでは、関千枝子さんのお話を採録しました。小泉首相靖国神社参拝違憲訴訟とは、2001年8月13日に小泉首相が内外の反対を押し切り、靖国神社に参拝したことに関して起こした訴えです。全国で、東京の他、大阪、四国、九州・山口、千葉でほぼ同趣旨の提訴がなされていますが、東京の訴訟では、(1)次の3つの点に関して「違憲」の確認を求めています。@「小泉首相が2001年8月13日に靖国神社に参拝したことは憲法違反である」ことについて、裁判所に確認を求めます。A同様に「石原慎太郎都知事が8月15日にそれぞれ靖国神社に参拝したことは憲法違反である」ことについて、裁判所に確認を求めます。Bこれまでの靖国関連訴訟で繰り返し裁判所から警告があったにもかかわらず、国(国会)は公式参拝を禁ずる法律を制定しませんでした。このことについて、「憲法上の義務に反して立法を怠ったことが違憲である」という確認を裁判所に求めます。(2)次に、そのような違憲・違法行為によって、原告が受けた損害につして、国家賠償法に基づく賠償請求を行います。請求額は原告一人3万円です。(3)更に、今後このような公人による憲法違反行為が堂々と繰り返されないように、小泉氏については内閣総理大臣として、石原氏については東京都知事として、宗教法人靖国神社に参拝することを差し止めるよう請求を行います。 訴訟の詳しい情報はhttp://nifty.com/seikyobunriで。

★関 千枝子さん(小泉首相靖国神社参拝違憲訴訟・東京原告)の講演より

小泉靖国参拝違憲訴訟の原告になりました関千枝子です。  

 この25年間、靖国神社にこだわり、「政教分離」の大切さを考えつづけてきました。原告になったことは、この4半世紀のこだわりの帰結のように思います。初めに私の立場を申しますと、私は、無宗教であり、靖国の遺族でもありません。一人の国民として、政教分離の大切さを思い、首相の憲法違反を許せないという立場で原告になりました。  

 1975年、私は、勤労奉仕中に原爆で死んだクラスメートの記録を集めようと思い立ち、遺族の家を歩いておりました。そして、クラスメートたちが靖国神社に合祀されていることを知り、驚きました。

 あの8月6日、広島では全市をあげ、家屋を強制疎開させそのあとを道路にする作業をすすめていました。この作業の中心を担ったのがまだ勤労動員で工場に行ってなかった中学校、女学校の1、2年生で、12、3歳という、年若い子どもたちが、炎天下で働き、動員地が市の中心部であったため、その多くが死にました。子どもたちを失った親たちは、1952年(昭和27年)の軍人恩給復活を受け、1956年ころから国家補償を求め運動を始めました。1958年援護法の改正で「準軍属」制度が設けられ、動員先の工場等で空襲のため死んだ学徒らに軍属並みの年金が払われることになり、疎開地後片付け作業で被爆死した子どもたちも準軍属と認められたのです。その直後、1960年12月、「動員学徒犠牲者追悼式」が靖国神社で行われ、1962年11月、動員学徒犠牲者は靖国神社に合祀されました。 広島から離れていた私は、こうした事実を全く知りませんでしたが、広島の人は誰でも知っていることのようでした。当時「最年少の英霊」と大きく報じられたからです(その後、沖縄の対馬丸の子どもたちなどが合祀され、最年少ではなくなりました)。更に衝撃的だったのは、多くの遺族たちが靖国合祀に抵抗や違和感を感じておらず、名誉と喜んでいることでした。  

 当時、私は靖国神社のことを深く考えたことはありませんでした。しかし、クラスメートたちが靖国に合祀されていると聞いたとき、反射的にいやだと思いました。どう考えても靖国は「軍(いくさ)の神」です。なんで、原爆で死んだ被害者が軍神になるのか?しかし、遺族たちは言いました。「あの子らは好きで勤労奉仕に行ったんじゃない。お国のためじゃから行ったのだ。お国のために死んだのだから国が祀ってくれてあたりまえだ」「靖国に祀っていただいて、これで犬死にでなくなった」。犬死にでなくなった、この言葉を何度聞いたでしょうか。  友のお父さん、お母さんたちは、決して戦争好きな人ではありません。「戦争はもうこりごり」「原爆は2度と落としてはならない」という人ばかりです。可愛い子どものことを思い出し何十年たっても涙てす。しかし、靖国合祀で「お国のために死んだのだから」と自らに言い聞かせるのです。靖国神社が戦後一神社となり、国となんの関係もないなど、多くの遺族には無縁の事実で、靖国に合祀されることは、戦前と同じ「国が祀ってくれる」ことなのです。政教分離など誰も知らない言葉でした。私は、「あんなに喜んでいるのだからそれでいいではないか」と考えようとしました。しかし、どうしてもそれはできませんでした。私が原爆で死ななかったのは学校を休んだためで、全くの奇跡でした。もし原爆投下が前日なら私は現地に行っていました。翌日でも、行っていたでしょう、2日休むような病気ではありませんでしたから。あの奇跡がなかったら―私はまちがいなく「靖国の神」にされています。それでいいのか。私はいやです。ひとごとではありません。また、私が靖国の神にされていたとして、私の「いや」という思いが私の肉親に通じ、肉親が合祀とりさげをしたとしても、靖国というところはそれを全く受け付けないでしょう。靖国の恐ろしさを痛感しました。勤労奉仕中、原爆で死んだ子どもたちを準軍属とし、靖国合祀をすすめた親たちの会が建てた「動員学徒慰霊碑」が原爆ドームのすぐ裏、真南の位置にあります。「祖国に殉じた学徒の霊を慰めるため…」と碑文にあります。この碑だけではありません。実は私の母校の慰霊碑も碑名は「殉国学徒の碑」で、碑文に「純真な愛国の至情」をしのび「永久に英霊を慰める」とあります。愛国の至情とは、国に殉じたとは?一体、「国のため」とはなんだろうと私は考えざるをえませんでした。たしかに私達は「国のため」と信じ、炎天下働きました。友の中には自らを「小さな兵隊」といい「天皇陛下万歳」といって死んだ人もあります。しかし、私達の学年は満州事変の起きた年の生まれで、軍国教育のもと、あの戦争を聖戦と信じ、戦争に勝ち強い国になることで幸せになると思って育った世代です。平和の日を一日も知らず、ほかの価値観を知らずに育った世代なのです。でも、私たちが「お国のため」と思ってしたことが「国」を幸せにしたのでしょうか。敗戦で国民全部は惨憺たる有り様になりおまけにアジアの国々を不幸におとしいれた。私たちが国のためと思いがんばったことは侵略の片棒をかついでいたことではなかったのでしょうか。さらに「国」とは一体何なのか。私がいま「国」というとき、この国で暮らすひとりひとりの人のことを思います。人が国をつくっているのだと。しかしあの戦争のとき、私達は「1億玉砕して国を護る」といわれました。国民全部死んでしまって何を護るのでしょうか。国土でもなさそうです。全土あのはげしい空襲にあいながら日本列島は沈没はしませんでした。…昔から「国敗れて山河あり」と言いますものね。全員玉砕しても護れといわれたもの、つまりそれは「国体」というものだと気がつきました。「国体」の無事を案ずるあまり、この国は降伏勧告に応じるのが遅れ、原爆投下を招いたのですから。    

 国体とはなにか。明治憲法は、この国を、天皇主権の国とし、天皇が祖先の神勅により主権をまかされたものとします。これが国体で、かえることは出来ないものとしました(これを天壌無窮といいます。教育勅語の最後の、一旦緩急あれば義勇公に奉じもって天壌無窮の皇運を扶翼すべし、あれです)。つまり、かれらにとって国体は国民全部の命より大切なものだったのです。この天皇主権の国を支えるのが天皇の祖先の宗教であり祭主とする国家神道で、国家神道は国教であり全ての宗教の上にあるものとして臣民に強制されました。政教一致です。そういえば、大日本帝国が天皇がらみの祝祭日が多いなか、とりわけ大切にした祝祭日が、今日、2月11日の紀元節です。神武天皇建国の日というのですが。この日にあわせ明治憲法を発布したことも忘れてはならない事実だと思います。この体制のもと推し進められた近代日本。国民は、現人神の天皇のなさる戦争は聖戦に決まっていると思い込み、戦争に勝てば強い豊かな国になると信じ、軍国主義、帝国主義の道を突き進みました。国民を無条件に従わせた宣撫策の両輪が、教育勅語であり靖国神社でした。靖国とはうまいことを考えたものです。肉親を失えば誰でも悲しい。それを神様にしてあげようという。もともと、多神教で、有り難そうなもの、御利益のありそうなものはすべて拝んでしまうのが日本人。かといって庶民が神様になることなどなかなかできることではありません。戦争で子や夫を死なせるのは辛いが、忠節を認められ、一兵卒でも、もったいなくもかしこくも神様にしていただき「国の守護神」になるというのですから。  戦後も、その靖国への信仰がそのまま残っていることに私は驚愕しました。「教育勅語」は一応消滅しましたが、靖国はその精神もそのままに残っています。おまけに、天皇のため忠節をつくし、死ね、戦死は名誉だと讃えたその神社は、いつのまにか、遺族に死を悼んでくれるところのように思われ、ありがたがられています。この皮肉。でも、考えてみれば、私たちは戦後、政教分離や、靖国が一宗教の一神社になり生き残ったことなど、全く教えてもらわなかったのではないでしょうか。私なども、新しい憲法ができたことは「公民」の時間で習い、戦争放棄と象徴天皇はたしかに教わった覚えがありますが、「政教分離」など言う言葉を聞いたことももありません。なんでも、有り難いものは拝んでしまう日本人にとって、政教分離は非常にわかりにくいことです。そのままにされているうち、占領政策もかわり、逆コースのもと、政教分離は一般の市民にとって縁遠い思想になってしまいました。憲法を守る立場の人々も、憲法の平和主義、人権尊重、国民主権は強調しても、祭政一致から政教分離に変わったことは殆どいいいません。しかし、私は政教分離を明治憲法と日本国憲法の根本的な違いと思うのです。  

 もうひとつ、私が愕然としたことは、靖国合祀を喜ぶ人々たちに共通するのはあの戦争に対する歴史認識のなさでした。戦争の本質は全く考えず「戦争にまきこまれた」といい、「あの時は一所懸命だったのだから」「純粋に国のために働いた」と勤労奉仕のことなどをむしろ懐かしむ人もいます。「日本軍は悪いこともしたかもしれないが、戦争はみなあんなものだ」。そして戦争に負けた原因は米英の科学、物量。無謀な戦争をしたからだ」と、戦争が中国への侵略ではじまったことなどは忘れてしまったかのようです。これは、もちろん広島の遺族だけのことではありません。戦争が負け戦になり日本が悲惨な目にあったので「戦争はひどい目に会うこともある」ことに気づき「戦争はいや」となった。戦争はいやと、まちがってもいえなかった戦前からみれば大変な違いです。この一点で一致すればいいと思い、戦争の本質や国をあげての宣伝教育にまどわされ、国民も戦争の片棒をかつがされた、いや、積極的に担おうと懸命になった事実をみつめようとしなかったのが、戦後の平和運動の落とし穴ではなかったのでしょうか。戦没者追悼式などで必ず戦死者に捧げられる「今日の平和の礎」という言葉に違和感を感じながら、まあ広い意味ではそうだからと異議を申し立てなかった。  

 こうした平和指向は、なにか大きな流れがあればすぐ吹き飛んでしまう、と私は思うようになりました。昭和10年代の新聞をくってみてください。平和と言う文字の洪水です。「大東亜の平和のため」に悪いシナをやっつける、という文字がならびます。「平和」愛好、平和という言葉だけでは危ないと思っていた予感は、残念ながら湾岸戦争のとき的中しました。正義、国際貢献の前に、絶対平和の思想はめためたにされました。侵略の歴史認識の欠如、アジアへの蔑視感、いいかえれば大東亜共栄圏をつくり日本はその盟主とふんぞりかえった優越感ですが、この抜けがたい思考を考えたとき、私は自分自身のことを考えざるをえなくなりました。  

 私は敗戦を広島の自宅で迎えました。詳しくいうと広島市宇品です。そして私の生まれたのは大阪市築港という町です。宇品と築港というと年配の方はあっと思われるかもしれません。ともに陸軍の軍港のあったところ、それも外地に出ていく港が築港と宇品でした。そして軍港があるために私は築港で生まれ宇品で敗戦を迎えました。私の父は財閥系の倉庫会社の社員でこの財閥は陸軍と関わり大きくなったところです。築港で私は1932年の3月に生まれました。その前年の9月にはじまった満州事変で港は活況を呈していました。昭和大恐慌を抜け出した戦争景気に父の会社ではほっとしていたことでしょう。毎日、築港の港から満州へ向け出征していく兵士たちを見て「ご苦労やなあ」と善意で思った主婦たちがいました。彼女たちはヤカンと湯呑みをかかえ、兵隊たちにせめてお茶のいっぱいもあげようと港に通いました。彼女らの活動は賞賛と共感の的になり彼女らは翌1932年3月、会を立ち上げました。「国防婦人会」です。まもなく史上最大の婦人組織として日本の女性たちを銃後の護りにかりたてて行ったこの組織をつくったのは、無邪気な善意で、「愛国心」の恐ろしさを痛感するのですが、この国防婦人会が私の生まれた築港の地で、私の生まれる10日前に誕生したという事実に、私はこだわりを感じざるをえませんでした。1934年、歴史に残る大台風・室戸台風が西日本をおそい、最大の被害地が大阪の築港で、私の家も命からがらの目にあうのですが、この時国防婦人会は献身的に被災地の人々を助けこの活躍で飛躍的に会員を増やすのです。  

  終戦時、宇品にいたのも父の仕事で、父は当時、宇品港の海運、輸送作業のため三菱と陸軍がつくった会社の出向社長だったのです。原爆のあと、爆心から3キロのわが家も、相当の爆風をあびました。父の会社の人は、すぐ7、8人の朝鮮人労働者を私の家におくり、彼らは主に庭、外回りの片付けをやらされました。彼らは、「沖仲仕」とよばれる、船に荷をあげまたは船から荷を陸に上げる肉体作業をする労働者たちでした。今にして思えば、彼らは強制徴用されて広島に連れてこられた労働者であったと思います。しかし、私は恐怖だけでいっぱいで、彼らが暑いなか、外で汗みどろで働くのを何も考えず無表情に眺めていました。そのうち広島の中心部の火事はおさまりそうもなく、だんだん南に迫ってくるという情報が伝わり、皆が心配はじめました。広島に親類のなかった私たちは、もし何かあったときには父の会社の社員で、広島市内ではありますが、当時はまるで山のなかのような畑が一杯のところに住んでいる人の家に逃げることにしていました。父は私に祖母をつれてその家に避難するように命じました。一応の着替えやちょっとした食料をもつと、かなり重い荷物になります。父は外回りの片付けをさせていた朝鮮人労働者のうち、若い2人に荷物もちを命じたのです。戦中でバスもなにもなく、歩いて40分の道、炎天の太陽のもと、私も祖母もフラフラになり歩いたのですが荷かつぎの2人はもっと大変だったと思います。しかし、私はそれをひどいとも悪いとも思うこともなく、ただ歩きつづけました… 無事つくと2人の青年はすぐおいかえされ…彼らにお礼をいった記憶もありません。この時の記憶はいまも私を苦しめています。半世紀たっても忘れられない、あの原爆の日。おそろしいキノコ雲、どろどろに火傷を負い、誰とも見分けもつかなかった友、火傷にたかるハエ、どろどろの傷からとってもとってもわいてくるウジ、うめき声…そんな地獄のような原爆の光景とともに、庭で働かされている朝鮮人たちを無表情に眺めていた自分を、炎天下、朝鮮の青年に荷をかつがせ、礼もいわなかった自分の姿がうかんでくるのです。彼らは、こんな私的な労働をさせられ、どんなに辛くまた屈辱的に思っただろうと思うたび、そんなことを考えもせず、彼らを使うことを当たり前と思っていた自分に胸が痛くなってくるのです。しかし、この時のことを考えているうち、また恐ろしいことに気づきました。私の父はこの時のことをどう考えているか、もう聞くよしもないのですが、おそらく朝鮮人沖仲仕たちを私の家によこした父の会社の人達は、その事実すら覚えていないのではないかと。徴用も、彼らを多分殆ど賃金も払わず、こきつかったことも、問題に感じることさえなかったのではないかと。意識の下に横たわる拭いがたい蔑視の感情、自分の国だけをよしとする恐ろしい思考、優越心。これこそが、天壌無窮の神国に生まれ、八紘一宇の精神を世界にひろめる祭政一致の明治憲法のもとの教育、靖国の思想ではないか。その恐ろしさを思うのです。  

 靖国神社を特殊法人にし国営にしたいという靖国神社法案は当分は再燃しないでしょう。あまりにも憲法に違反しますし、かといって、政教分離を憲法から消すことは、本心は別としてもできないでしょう。小泉首相がねらっているのは、なしくずしの実質祭政一致と思います。もともと政教分離がわかっていない国民、なぜ靖国が問題かわかっていない人びとは、戦死者に感謝するとか平和を祈るとかいえば、なぜ悪いの?と混乱しています。これをくりかえすうち、国民はなれっこになる。彼らは、日本を戦争をする国にするため、戦死者対策は急ぐ必要があるのです。同時に教育基本法を見直す。この2つができたら、平和憲法の外堀内堀を埋められたことになります。小泉首相の靖国参拝を見過ごすことはできない、やめさせなければならないのです。  

 政教分離というもの、日常生活にすぐ困るというものではありません。気づかないでいると、分離が多少おびやかされても庶民はきづかない。もともと、なんでもごっちゃ、ありがたいものは拝んでおけのお国柄ですから、公共自治体の工事の地鎮祭に神主が呼ばれおはらいをしようと、玉串料が払われようと、そのくらいのこと、いいじゃない?で終わりそうです。しかし、政教分離は国家危機のとき強力な国家統制の原理になります。実はこの言葉、昨年の平和遺族会の8・15の集会でノーマ・フィールドさんが言われた言葉ですが、よい言葉というか、鋭い指摘の言葉なので、そのままお借りして使わせていただきます。実際にあの15年戦争の激化とともにどう国家統制されたか、もう申し上げるまでもないでしょう。明治憲法にも、いちおう「信教の自由」という条項はあったのです。しかしそんなものは、政教一致の前に、吹き飛んでしまったのです。  

 最後に蛇足かもしれませんが…。 私は今回の訴訟で、無宗教で靖国の遺族でもなく、その他大勢の原告ということになっていますが、私自身は「本人原告」だと思っています。あの奇跡がなかったら当然原爆で死に、いま靖国の祭神になっているはずですから。

 

●「子どもたちの2.11集会」  

日本基督教団出版局月刊『教師の友』が主催をして、はじめての試みとして上記の集会がもたれました。編集部の山田啓人さんに報告をお寄せいただきました。写真も山田さんからの提供です。

日本基督教団出版局月刊『教師の友』編集部 山田啓人

 月刊「教師の友」(2002年3月号で刊行終了)が貫いてきた編集方針として、「子どもと一緒に生きる」ことがありました。それは、教会で、家庭で、そしてこの社会の中で子どもたちを教化の対象とするのではなく、共に生きるパートナーとして歩みたいと願う心でした。子どもたちとどう生きるのか、私たちはどこに立ち、どう歩むのかを、子どもたち自身に教えられながら、歩んできた道のりでした。そしてその歩みの中で最も大切にしてきたことが、「平和」について考えることでした。

 『讃美歌21』が刊行されてから、教団讃美歌委員会と出版局の同労のスタッフと共に、「CSリーダーのための『讃美歌21』講習会」をおこなってきました。『讃美歌21』の中に流れる平和・正義・共生のメッセージを、子どもたちと共に生きる者としてどう聞くかを考えたいと願ったことからおこなわれた試みでした。関東を中心に5回続けられてきましたが、講師に恵まれ、豊かな学びの時を参加者と共にすごすことができました。

 今回の「子どもたちの2.11集会」は、この試みの最後の会として企画されました。それは、「日の丸・君が代」法制化や「つくる会」教科書(扶桑社版)検定合格などがまかり通る社会の流れの中で、子どもたちと共に「平和」について考えたい、いや考えなければならない大切な事柄だという思いからでした。講師の小柳伸顕さん(近江平安教会牧師)は、沖縄・北海道の歴史を紐解く中から2.11がどのような日であるのかを伝えます。大阪・釜ヶ崎で日雇い労働者の医療相談にたずさわる小柳さんは、労働者のケアをする夜回りに子どもたちと共に参加されています。その子どもたちと学習会を続けてきた小柳さんのお話は、大人と子どもが共にこの社会の中で自由に平和に生きるために何をすべきか、どう生きるべきかをお互いが対話していくための、大切な種を蒔いてくれたものとなったと実感しています。同じ講師の鳥井新平さん(近江兄弟社小学校教諭)は、自作の歌を通して平和・自由の思いをうたいます。そして大人・子どもが一緒になって楽しむプログラムを用意、初めて出会う参加者もいつの間にかお互いを知ることができる設定になっていました。グループ別に用意されたワークショップは、「自分の旗・みんなの旗づくり」「自分の歌・みんなの歌づくり」「かんたんクッキング」「聖書研究」(参加は自由)などで、大人・子ども合わせて約90名が過ごした一日でした。  

 会場の日本基督教団原宿教会には、付設の原宿幼稚園の広い園庭があります。都心であることを忘れさせるようなその空間には、子どもたちの遊び道具がいっぱい。当日は好天に恵まれ、ポカポカ陽気の中、昼食を外で食べ、食後は園庭のすべり台やおもちゃなどで元気いっぱい、思い思いの遊びに子どもたちは夢中になっていました。

 参加してくれた子どもたち一人一人の姿に、目を向けてみました。満面の笑みを浮かべて遊んでいる子。原宿教会牧師・土橋晃さんが連れてきた大きな犬がこわくて、高い所に逃げて懸命に身を守ろうとしている子。昼食のおでんをかじりながら、遊んでいる友だちのことが気になってしかたがなくすべり台に突進して行く子。豚汁を何杯もおかわりに来る子……。あたたかな光景でした。

 「すべての子どもたちが十分に食べられないうちは、世界は平和を知ることは決してない」という言葉があります。そして、「子どもたちが自由で平和にすごすことができないその国は病んでいる」という言葉も聞いたことがあります。

 園庭で力いっぱい走りまわっているこの子どもたちを、戦争に絶対行かせてはならない。切実にそう思いました。私たちはそのために、何をすべきでしょうか。必ず、すべきことがあるはずだと信じています。

 

●キリスト教一致祈祷会

キリスト教一致祈祷週間(毎年1月18日から25日)とは、カトリック教会と日本キリスト教協議会が共働で式文を準備し、共通の洗礼によって、共に一つの体となり、キリストにおいて完全な交わりのために共に祈るときです。このエキュメニカルな礼拝を通して、世界中のすべてのキリスト者と結ばれ、洗礼を受けたすべてのものの讃美を、聖霊のうちに神に捧げるときです。

 日本キリスト教協議会では、毎年この祈祷集会のための小冊子を無料で(送料 自己負担)お配りしています。年々、この日をおぼえて礼拝を持つところが増えています。今回は東京での集会の一つである日本基督教団経堂緑岡教会での集会の模様を会場教会牧師の一色義子さんにお寄せいただきました。

★エキュメニカル礼拝東京集会報告

NCC信仰と職制委員会委員 一色義子

 2002年度のキリスト教一致祈祷週間(1月18日から25日)の東京集会エキュメニカル礼拝が1月20日午後に東京・世田谷区の日本基督教団経堂緑岡教会で開催されました。その準備のために世田谷の近隣の教会にNCCから働きかけられ、集まった教会の司祭、牧師たちによって計画が進められました。カトリック東京教区のエキュメニズム担当委員の小林敬三神父(木更津教会)が用意されたエキュメニズムの歴史をまず学び、この運動が19世紀の末から始まり、戦後WCC発足と共に更に進展し、カトリックも1958年頃から兆し第2バチカン公会議でカトリックも推進され、今日では聖公会との対話、ルーテルとの対話、NCCとの対話が始められていることに力づけられて話し合いを進めました。
 東京郊外の教会としてはこうした公の集会は初めてでしたが、あけて一昨年ミレニアム・イン経堂という超教派でクリスマス祝会をもよりの教会で主催したり、昨年のペンテコステにはカトリック成城教会での午後の礼拝に超教派で参加するプログラムも実行できたので、もより教会の励ましも感じて歓迎しました。
 当日は準備の段階の時以上に多くの教会が参加されました。カトリックでは木更津、世田谷、松原、赤堤、城西、喜多見、習志野、聖イグナチオの各教会と瀬田修道院、カトリック中央協議会。聖公会は、聖十字と聖愛教会、日本福音ルーテル教会は都南、田園調布教会。カンバーランド長老鳴瀬教会、日本基督教団では経堂北、松沢、祖師谷、砧、早稲田、梅ヶ丘、東京山手、西荻北、経堂緑岡の各教会と、NCCから山本俊正幹事その他、全部で教会・団体25、150名の教職・信徒が集いました。
 本年のテーマは「主よ、命の泉はあなたにある」(詩編36:10)でした。会場教会が司会にあたる慣例ということで、祈祷礼拝全体の司会は一色義子牧師が務めましたが、式文に従っての司式者は各教会教派が責任を持たれ、総勢12名が壇上に祈祷を献げ、また会衆と応答の式次第で、厳かなれどもあたたかい雰囲気の中で進められました。福音書朗読の前のアレルヤはカトリック松原教会の壮年会の聖歌隊が管弦楽の伴奏で歌われ圧巻でした。
 説教はカトリック木更津教会の小林敬三神父により懇切にわかり易く義認の問題がすでにカトリック教会とルーテル教会の間で一定の合意に至っていることが語られ、なにか心にのこっていたわだかまりが溶けはじめていくことを示されました。主イエスが「すべての人を一つにしてください」(ヨハネ17:21)と祈られたように、エキュメニズムとは福音そのもの、お互いにそれぞれの立場を理解し尊重しながら一致への歩みを祈りつつ進めたいと語られました。深い理解に立たれた心強まるメッセージで感動しました。 平和の挨拶を交わし、最後の祝福では、壇上の全教職が教派を越えて、皆で一斉に祝福を祈りました。 後の茶話会も、山本幹事の司会でカトリック松原教会の佐久間彪神父のユーモアあるご挨拶をはじめそれぞれの教会の教職方の和やかな挨拶や紹介で和気あいあいの時でした。会場教会にとってもまたとない開かれたエキュメニカルの喜びに触れる学びの時となり感謝でした。   (日本基督教団経堂緑岡教会牧師)

 

●下の文章は、上記の1月20日(日)に日本基督教団経堂緑岡教会を会場に行われた東京での一致祈祷集会(NCC・カトリック東京教区主催)の説教の要旨。

★エキュメニズム運動 −この43年を顧みて−  

カトリック東京教区エキュメニズム担当委員 小林敬三

 1962年カトリック教会は第二バチカン公会議を開催した。4年にもわたる同会議は、教会が今後福音に照らしてどうあるべきかを討議した。そして21にものぼる憲章・教令を定め発布した。その一つに「エキュメニズム教令」がある。今まで教会分裂の悲しい現実が、ややもすれば相手のみに責任があり、自らの非を認めカトリック教会に帰ってくる以外教会の一致はあり得ぬというのがカトリック教会の公けの姿勢であった。  

 1959年は前年教皇に選出されたヨハネ23世が、約100年ぶりに公会議の開催を宣言した年である。プロテスタント教会にかつて属していた当時の礼拝の牧師の説教を思い起こしてみると、カトリックという単語はただ批判の対象としてであった。すなわち「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」(ガラテヤ2:16)とある通り、ルターら宗教改革者たちが主張した義認(義化)の問題が主であったと記憶している。一方公会議以前にすでにカトリック教会に移っていた私の経験では、カトリックのミサの説教で司祭がプロテスタントを非難したことは一度もない。プロテスタント教会が話題になるとすれば、全く非公式な個人的雑談で、「一致の要である教皇様」から離れ去っていってしまった残念な兄弟たちという感じであった。しかし両教会の指導者たちの公けの関係は、まだ中世時代の反目と緊張を引きずりお互い没交渉の状態であった。  

 この1959年当時を振り返ると、都内主要各大学にはカトリック研究会があり、実は二プロテスタント系大学にもあったのは特筆に値しよう。一つは東京女子大学であり、他は立教大学であった。東京女子大学の場合、カトリックの神父は司祭服(ローマンカラー)では構内にはいることが禁じられていたので、部員は近くのカトリック教会で聖書研究などしていたようである。一方立教大学は聖公会であり、実は同年私は入学している。はじめて出会った聖公会の司祭の方々は、自分たちは両教会のブリッジ教会であるという自覚と使命を強く持っておられ、どなたもカトリックに非常に寛大かつ好意的であった。特に宗教関係最高責任者の名物神父であったファーザー竹田鉄三の言動はとても印象に残った。どの宗教の人も、自然体に生きるファーザーの前に立つと、皆構えを解かれてしまう。べらんめー調とその奥にある深い信仰に裏づけられた暖かい人間性に触れたことは生涯の宝である。ある時一人でカト研の部室にいたら、ファーザーが入って来られ、やおら質問をされた。「カト研のオマエら部員はいったい何人だ」「6人です」「えッ、たった6人か。オマエらたるんでるから、そんなに少ないんだ。外に出てぶらぶらしてる奴ら皆首ッタマ捕まえてきて、じゃんじゃん水ぶっかけてやれ!」。要するにここは聖公会の学校だからとて遠慮しないで、どんどん伝道布教してカトリック信者を如何に増やしても、問題ないよという意味だったのである。

  さて、公会議開催の年(1962年)は、夏にカトリック学生連盟全国大会が四ッ谷の上智大学で行われた。そして東京神学大学の北森嘉蔵先生をお呼びし、教会一致についての講演をお願いした。主催者側の係として、私は四ッ谷駅改札口に先生をお迎えし、「おカバンをお持ちします」との申し出に、驚きと共にしきりに恐縮し辞退をされた。先生のお姿は、当時の両教会の関係の状態を端的に映すものであった。はじめての両教会の神学者による公けの講演会である。緊張と重苦しさの漂う階段教室は300人ほどの満員になった。先生は宗教改革者ルターの考えに注目する様求めた。しかも初期のルターの主張を顧みる必要を強調された。それは正しく「義認」の問題である。人が神のみ前で義とされるのは、律法の行いによるのではなく、「信仰のみによって(Sola Fide)」というルターの主張であった。ルターの主張改革に対抗するため、トリエント公会議が当時開催された。そして同会議はルターの義認の考えを否定し、神のみ前に義とされるためには、信仰と共に「律法」の実行を同時に要求した。しかし、それは聖書に照らし合わせ福音的ではないので受け入れられない。公会議は一度宣言したことは取り消せない筈である。故にただこの一点故に教会一致は悲観的である。逆をいえば、この一点の問題がなければすべては氷解する。以上が先生の講演の要旨であった。さて、講演が終わると数名のカトリックの神学者たちが先生に駆け寄った。「先生、カトリックも『信仰のみによって』義とされるのです!」」驚く先生に対し、「最近の研究ではトリエント公会議の主張とルターの考えとは結局同じ事を言っているのです!」。

 それから2年後(1964年)、公会議はエキュメニズム教令を発布し、教会分裂の責任は我々にもあったと認め福音の要請に応え、教会一致の協力促進を高らかに宣言した。以来世界レベルでは、カトリックと対聖公会、対ルーテル教会、対WCC(世界教会協議会)間で神学討議がなされ、大きな成果が得られている。我が国でも、両教会は全国レベルでまた各地域ですばらしい実りが見られる。すなわち、1月の各地の教会一致祈祷会、朝梼会、教会音楽祭、聖書展、新共同訳聖書、また聖公会・カトリック共通の「主の祈り」の使用などである。

 なお、最近世界エキュメニカル史上画期的出来事が起こったことをお知らせしたい。「ルーテル教会とローマ・カトリック教会の義認の教理についての共同宣言」である。長年 「義認」の問題は、両教会の間を隔てる大きな壁になってきた。公会議以降両教会神学者は対話、討論、研究を重ねてきた。その結果、ついに「義認」の問題は、ルターもトリエント公会議も結局同じ事を言っている。従ってもはやこの問題が両教会の関係の分裂の障害にはならないという宣言である。エキュメニズムに関心を持ち、また40年前北森先生の講演をうかがった一人として感無量である。限りなくうれしいことである。  

 終わりにエキュメニズム(教会一致運動)は、一つの単なる運動ではない。好きな人の単なる趣味でもない。福音に生きるとは、エキュメニズムに生きるとは同義語である。キリストへの信仰に生きたいが、エキュメニズムには関心がないとは自己矛盾である。なぜなら、主イエスキリストが私たちの一致を祈ったから(ヨハネ17)。パウロが私たちの一致を願ったから(エフェソ4)。同じ主を仰ぐものとして、福音に照らし合わせ、絶えざる自己改革に励みながら、相手教会への尊敬と立場を尊重しながら、互いに祈りつつ、目に見える一致をめざして進んでいきたい。
                                          (カトリック木更津教会神父)

 

 9月11日の米国での事件以降、テロ撲滅を旗印に報復攻撃を行う米国政府とそれに協力する日本政府のあり方に、各地で様々な動きがありました。この戦いがあたかもキリスト教とイスラム教の争いであるかのような問題のすり替えもおこる中、世界各地でそれぞれの宗教指導者による共同の祈り、共同の声明、行動がなされました。日本においても各地で、平和を望む宗教者の集会がもたれました。その一つである群馬・高崎での祈祷会をご紹介いたします。 

★平和を祈る宗教者の集い

カトリック浦和教区正義と平和協議会 根津正幸

 アメリカでの同時多発テロ事件とアフガニスタン攻撃の犠牲者のため、そして世界に平和がきますようにと1月20日、群馬県にあるカトリック高崎教会で平和の祈りがささげられました。この「平和を祈る宗教者の集い」には、宗派を超えてカトリック、プロテスタント、イスラム教、仏教、神道など約150名の方が参加しました。参加者の国籍も韓国、フィリピン、バングラデシュ、インド、パキスタン、アメリカ、フランス、ブラジルなど多国籍でした。

 昨年9月11日の事件以後、日本でもイスラム教徒への無理解からくる偏見が大きくなりました。私たちはイスラム教の人たちとの出会いを強く願い、できれば一緒に平和を祈る機会を持つことを望みました。10月下旬、イスラム教のモスクが伊勢崎市にあること知り、新聞記事をたよりにカトリック高崎教会の戸田三千雄神父さんと私は伊勢崎モスクを訪ねました。モスクを訪問するのは初めでのことで大変緊張しました。バングラデシュ人のイマームさんは日本語が上手で、私たちの意向を理解してくださり快く平和祈祷会への参加を申し出てくれました。  

 今回、宗派を超えて祈ることができたのは、それまでの群馬県、とくに高崎での宗教者の出会いを上げることができるでしょう。私たちは21世紀の初めの年に、いのちの尊さを考えるために、死刑囚の描いた絵の展覧会「いのちの絵画展・死刑囚からあなたへ」を準備していました。実行委員会には真宗大谷派群馬組社会教化委員会、日本基督教団関東教区群馬地区社会部、アムネスティー高崎グループ、人権の会、カトリック群馬使徒職協議会社会活動部会とロバの会(カトリック浦和教区正義と平和協議会)が参加しました。また、高崎でのプロテスタント、カトリック、人権の会によるホームレス支援、そして朝祷会の活動も大切な出会いの場でした。こうした交流と協力で育んだ信頼をもとに、草の根の平和祈祷会が計画されました。プロテスタント、カトリック、仏教はこうした関係の中から参加希望者がありました。11月3日に、イスラム教、仏教、キリスト教とアムネスティー、人権の会が参加して第1回目の「平和祈祷会」が開かれました。この集いでは相手の立場を理解し、相手が見ている真理の一面を学ぶことができました。また、交流と祈りは参加者に大きな感動を与えました。集いの後でたくさんの方から、もう一度一緒に祈ろう、との声が上がり今回の「平和を祈る宗教者の集い」になりました。

 今回の祈祷会には、神道とユダヤ教との出会を願いました。幸いにも、倉賀野神社の高木直明宮司さんが参加してくださいました。神道の参加者はお一人でしたが、後日宮司さんから「(平和を祈る集いは)真に、感銘深く、学ぶところの大きいひとときでありました。」とご丁寧なお手紙をいただき、良い出会いに感謝しています。今後は今回できたつながりと信頼を大切にして、さらに対話を重ね、相互理解を深めながら、「平和と非暴力の文化」づくりに向けて、宗教者による草の根のネットワークを広げていければ幸いだと思います。現在、参加者へのアンケートを準備しています。アンケートの結果を参考にして「群馬発」の取り組みができることを願っています。                                                 (カトリック高崎教会員)

 

 NCCでは前総会期から死刑制度の廃止に向けての取り組みを始めてきました。昨年6月には、アーユス仏教国際協力ネットワーク、イエズス会社会司牧センターと共に呼びかけ、「死刑制度を問う−諸宗教の祈りの集い」を行いました。NNN発行が遅れ、皆様にご報告するのが遅れて恐縮しますが、この集いを中心的に進めて下さったイエズス会の片柳弘史さんにご報告をいただいておりましたので、ここに掲載いたします。 

★「死刑制度を問う−諸宗教の祈りのつどい」

片柳弘史

 6月29日の夕方、東京・四ツ谷の聖イグナチオ教会で「死刑制度を問う−諸宗教の祈りのつどい」が行われた。当日は教派を越えて180人あまりの方々が集まり、こころを一つにして祈りのときを持った。このつどいは、日本キリスト教協議会、アーユス仏教国際協力ネットワーク、イエズス会社会司牧センターの三者からの呼びかけに、YMCA同盟、カトリック正義と平和協議会、真宗大谷派死刑廃止を願う会、死刑廃止キリスト者連絡会、メルキゼデクの会、上智大学カトリックセンター、アムネスティなどの諸団体が応えて実現したものである。団藤重光氏、隅谷三喜男氏、飯沼二郎氏、荒井献氏、鈴木伶子氏、塩月賢太郎氏、大津健一氏、白柳誠一氏なども賛同人に名を連ねている。このつどいについて報告する。

1. 今なぜ死刑廃止なのか  
 今回のつどいの発端になったのは、カトリックの呼びかけで始まった『いのちの絵画展2001キャンペーン』だった。これは死刑囚が獄中で描いた絵の展覧会を中心として、死刑制度を問い直すためのキャンペーンである。イエズス会神学生である私が関わっていた一人の死刑囚が、死刑の確定直前に、カトリックも絵画展を通して死刑制度について発言してもらえないかと言い残したことがキャンペーンの発端だった。私は神学生としての立場からいろいろな団体に彼の言葉を伝え、全国各地でこの絵画展が実現することとなった。  日本のカトリック司教団が今年初めに『いのちへのまなざし』という文書を発表し、はじめて公式に死刑制度を非難したことも追い風となった。おりしもヨーロッパでは欧州協議会主導で「死刑廃止世界大会」行われ、アメリカでも多くの州が死刑制度の一時停止の具体的検討に入るなど、世界的にも死刑廃止のうねりが高まっていた。カトリック以外もこのキャンペーンに参加する団体があらわれ、次第に宗教界で今までに死刑制度について発言してきたほとんどの団体が参加するキャンペーンへと成長していった。

2. つどいが実現するまで  
 今回のつどいの呼びかけ団体になったのは、以前に「地雷廃絶キャンペーン」で共に活動し、1997年には東京カテドラルで超教派の祈りのつどいを実現した三つの団体(先述のNCC、アーユス、イエズス会社会司牧センター)だった。オウム事件以降、宗教は排他的、独善的であるというイメージが日本社会の中に広がっている。しかし宗教はそのようなものではない、人間を超えた何ものかの存在を確信するものとして、共に力を合わせてよりよい社会をつくっていくことができる、そのことを証したいという強い思いが呼びかけ団体の間にあった。今回は『いのちの絵画展2001キャンペーン』をきっかけに、「いのちの大切にされる社会」という共通の目標に向かって、教派の壁を越えたつどいをやろうということになった。

3.180人の参加者  
 つどいは、東京・四ツ谷の聖イグナチオ教会主聖堂を借りて行われた。地味な祈りのつどいということもあり、参加者がどれだけ集まるのか心配されたが、180人もの方々が集まってくださった。遠くは、高松から来られたという大谷派のご住職方もおられた。  元死刑囚の免田栄氏、そして被害者遺族の原田正治氏による証言からつどいは始まった。免田氏は冤罪によって獄中で30数年を過ごされた方である。当時のことを思い起こし、どんな気持ちで再審に臨んだかということを話してくださった。もう一人の原田正治氏は弟を保険金殺人で殺害された、犯罪被害者のご遺族である。当初は犯人を殺してやりたいと思ったが、死刑囚との交流を通して次第に考えが変わっていったことを話してくださった。死刑は、遺族にとって何の解決にもならない。むしろ生かして反省させる方が遺族の慰めになる、と今では思っておられるそうだ。  

 証言に続いて、仏教式の瞑想が行われた。吸う息、吐く息に意識を集中し、自分を見つめなおしていくという瞑想だ。キリスト者にとってはあまりなじみのない方法だったが、仏教者による指導を受けながら、会場はしだいに祈りの雰囲気に包まれていった。  

 瞑想に続いて、読経、および聖歌の斉唱、さらに経典、聖書の朗読が行われた。テゼの歌を共に歌ったり、人間の心がいかに恨みに捕らわれやすいかを教える仏教の経典に耳を傾けたりするうちに、次第に参加者たちは死刑囚の苦しみを自分の苦しみとして受け止めていったのではないかと思う。聖書からは、姦通の女をイエスが許す場面が読まれた。  最後は、死刑廃止を求める決意表明を各教派の代表者が読み上げ、それを参加者たちが拍手で採択することで締めくくられた。この決意表明は、後日小泉首相、森山法相の下に郵送された。

4.これからの取り組み  
 私たちはこれからも、継続的に死刑制度について反対の声をあげていこうと考えている。来春には、『デッドマン・ウォーキング』のシスター・ヘレン・プレジャンを日本に招いてのキャンペーンも企画されている。どうか皆様のご理解、ご協力をお願いしたい。                                                                 (イエズス会神学生) 

●片柳さんの報告の最後に書かれておりますSr.ヘレン・プレジャンの来日が5月16日〜30日に決定いたしました。彼女は、96年にアカデミー賞を受賞した映画『デッドマン・ウォーキング』の題材となった同名の本の著者であることは多くの皆様の知るところです。メダイユ聖ヨゼフ修道会に所属しており、81年にニューオリンズの聖トーマス・ハウジングプロジェクトで貧しい住民に接して以来、囚人の支援に携わるようになり、ルイジアナ刑務所で死刑囚のカウンセリング、執行の立ち会いなどの経験から、死刑制度についての抗議や執筆活動、組織作りなどの活動をしています。また、被害者支援組織の設立にも携わっています。今回は、フランシスコ修道会の修道女でアメリカ先住民族と20年以上活動してきたSr.マリア・グラスウォールとご一緒の来日です。  

滞在の日程   
5月19日(日) 福岡にて講演会          
20日(月) 山口にて講演会    
21日(火)〜22日(水) 広島にて講演会   
23日(木) 兵庫にて講演会(加古川)    
24日(金)〜25日(土) 名古屋にて南山大学 
26日(日) 札幌にて講演会
27日(月)〜29日(水) 東京にて講演会    
30日(木) 成田から帰国  

詳しい集会案内塔はまた後日お知らせいたします。

●韓国や台湾では死刑廃止が目前となっていることに比べて、日本では昨年12月27日御用納めの前日に東京拘置所と名古屋拘置所においてそれぞれ死刑の執行が行われるなど、死刑制度存置の姿勢を崩しません。死刑廃止議員連盟が死刑廃止法案をまとめるなどの動きをしています。多くの方々が死刑制度廃止に関心を寄せてくださいますように。

●1冊本をご紹介します。  『そして、死刑は廃止された』(仮題)3月下旬に発行予定。作品社刊 2,800円  ロベール・バタンテール著 藤田真利子訳  一弁護士が、殺人を犯していない依頼人がギロチンに掛けられた体験から死刑廃止を訴え始め、やがてミッテラン政権下で法務大臣となり、死刑保守王国フランスの死刑を廃止する間での闘いの日々を自ら描いた書。




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