「うちの理事さん」

東京 桧原村 親林業・ 田中惣次さん

2001年4月号掲載・紹介者:北見靖直

 

 今月は東京都檜原村で林業を営んでいる田中惣次さんです。田中さんは東京の森林ボランティア活動を最初からサポートしてくれた方で、多くのグループがたいがい、田中さんのお世話になっています。今回は、田中さんの大きな仕事であった東京都五日市青年の家が主催した「木と人のネットワーク」でともにこの事業を行ってきた北見さんにインタビューしてもらいました。

   東京檜原村の林業家田中惣次さんを私が、紹介するなんてたいへんおこがましいと思っています。初めて田中さんにお会いしたのは五日市青年の家に赴任にしたとき。今から6年前のことです。それから田中さんと共に「木と人のネットワーク」の仕事に取り組んできました。 しかし、この事業もみなさんもご承知のとおり五日市青年の家が今年の3月末で閉所のため1月に「総集編」を行い、その幕を下ろしました。さみしい限りです。

 そこで、この「木と人のネットワーク」を中心にいろいろなお話を伺おうと3月のとあ日の夕暮れに、田中さんの自宅にある事務所に伺いました。3月というのにその日は寒くストーブで温もりながらもゆっくりとお話をしていただきました。

田中さんと森づくりフォーラムとのなれそめを聞かせて下さい。

 今から13年前、国技館で国土省が「都市と山村の交流フェア」が開催した時、その当時、亘さんが国土緑化の常務で「ボランティアの組織を東京に作って、全国へ発信しよう」とという話が出たんです。そして坂井さん、園田さん、他にも種まく人達がいてフォーラムが生まれたんです。私は林経協などとのつながりを作るように努力しました。

森づくりフォーラムの今まで活動のをどんな風に感じていますか?

 もう7年になると思うんだけど、いいんじゃないの!うまくうまくつながっているし、時代が動いている事を感じる。それにフォーラムのいいところは、街とか村とか、雑木林派もいれば人工林派もいるところ。だからいろいろな見方で森林を考えることができる。針葉樹も広葉樹も入った高い見地からのいい森づくりにつながっている。

さて「木と人のネットワーク」の15年間、取り組んできました。率直に苦労した点もあったんじゃないですか?

 もっと林業のことを知ってもらう。理解してもらうところの努力をした方が良かったというのが本音。もっと勉強しておけば良かった。いつも行き合たりばったりで(笑)。村にいると本当に忙しい。地域のいろいろなことがあって。

でも田中さんのお書きになった「森の案内人」は業界の中ではとてもわかりやくていいと思うんですけど。忙しいなか良くお書きになりましたね。

 あれ3ヵ月で書き上げたんです。初心者というか、中学3年生から高校生がわかるようにって書いたんです。林業関係の本は難しいよね。もっとわかりやすく伝えることが大事。マスコミにも誤解されていることが多い。

そういえば、「浜仲間の会」を取材したNHKの番組にひどく怒っていましたけど。

 その場かぎりというか、部分なんだよ。はじめは良かったんだけど、最後は立松和平さんが出てきて「広葉樹がやっぱりいい」。すぐNHKに電話しました。

田中さんが「木と人のネットワーク」も含めて、多くの市民を受け入れ続けることができたのはなぜですか?

 好きだから。そして心にゆとりがあったから。でも出発は学生時代なんだよ。卒論のテーマが「檜原村林業発展の方策」というので林業を体験したりする教育的民宿なんかの事業を取り上げたんです。当時、昭和39年に「観光と森林」という本があって、「フォレスト・レクリエーション」なんて言葉がもう使われてるんですよ。農林高校生時代、御岳に合宿して、そこで小中学生なんかの林間学校をしてるわけ。家でもできると思っていたんだよね。

卒業して20代から30代は林業家としてはどんな努力をされてきたんですか。

 全国に出かけて山みたり、多くの人達と交流しました。あっちこっちみないとやっぱり駄目だね。とくに、愛媛の岡さんは印象に残っています。「ああいう林業家になりたい」と思ったもの。視察もレベルの高いところへいくのが大事。そうしないと自分が駄目にななっちゃう。

そういう田中さんの謙虚さはどこから来ているんですか。

 野球だね。他の強いチームとやっていると弱いチームだって自然にレベルが上がっていくんだよね。同じチームばかり試合してたら実力は上がらないから。

田中さんの野球を始めたきっかけは?

 昭和35年頃は、檜原村に野球チームが43あったんだよ。それではじめたんだ。でも昭和37年から下火に。ちょうど第一次産業から第二次産業に移動していったんだ。大学卒業したときはチームが作れなくなってた。それで、帰ってきてから、スキークラブ作って、檜原村只一人の体育指導員になった。野球も同級生でチームを再生したんだ。それから子どもからお年寄りまで、ゲートボールから、ママさんバレーまで指導したよ。とくに、親たちに感謝されたのはジュニアのスキー。みんな村の外の高校とかいったりすると、少し小さくなっているんだよね。東京のへき地だから。でもスキーいくとうまい。みんなが一目置くんだよね。それが自信になっていくんだよね。

うまく言えないですけど、田中さんはすごく若者を引きつける力があると思うんでけど。

 口出ししないからじゃない。やっかいだし。(笑)しゃべると同い年になっちゃう。

こんなこと言うと生意気なんですが、6年間ご一緒させていただいて、年々、講義の話振りが上がっているように思うんですけど。

 50歳になってから、まわりの目が違ってきたように思うんですよ。昔は話してても騒がしかったけど、いま静かに聞いてくれるようになった。何が違うかというと、50歳になって自分のしてきた森づくりの歴史的な部分を話していいのかなと。その分岐点が50歳。30年間の時代背景を語ってもいいかと。みんながそれを認めてくれるようになったんじゃないかな。

なるほど。30年振り返って一番何を感じていますか。

 大勢のいい人に山を通して出会ってきたね。不思議なんだけど、苦しいときとか、どうしようもならないときに必ずといっていいほどいい人が出てきて助けてくれるんだ。相続税で大変だったときも、高木さんに出会って、それが縁で「森と村の会」に入ることができたんです。そこでは林野庁などの中央幹部の人の話を聞くことができるんです。見方が違ってきますね。天下国家の視点とか21世紀は海から山へという大きな視点。いま林業が大事なんだと自覚できるんだよ。気持ちが小さいから不安なんだけど、大道からみればそれがない。林業が天職だと思える。でも、これしかないですからね。自分の都合のいいように解釈するのも必要です。(笑)

昨年の夏のボランティア講座で田中さんがこの森の150年先をみて今日の仕事をしているという話が凄く印象に残っています。

 いま70年から80年の木が多いんだけど、全国へいって500年とか150年の森をみていると、これからのこの山はこうなる。そのために今何が必要か実感としてわかるんです。そして最終的には、針葉樹と広葉樹の混ざり合った森林、人間にとっても、動物たちにとっても必要な山づくりをめざしているんです。良く田中さんは人工林派だと言われるんですけど。誤解です(笑)。適地適木なんですよ。大事なのは。もっと針葉樹林業を増やしてほしいんです。木材の蓄積量も杉で3倍。檜で2.2倍なんです。まだまだ適地があります。そして、これから必要なのは天然林の「手入れ」。昭和35年以降の燃料革命以降手入れをしていないんですから。「手入れ」をするとどうなるか。うちの「遊学の森」に来て下さいよ。すぐわかるから。

参加者の女の子が、中国で植林のボランティア活動をしていたけど、植えるばかりでどいう森を創ろうとしているのかわからなかった。でも田中さんの話を聞いて森をイメージできて良かったと語っていました。

 イメージできるというのは大事。今日も野村康夫さんと天然しぼり丸太の苗を植えたんだけど、これが成長してデコボコの森ができると想像すると楽しい。枝打ちも30年するとその効果が現れてくる。そういうところが林業の一番おもしろいところ。育てる楽しさ。

田中さん、これから30年のご自身の森づくりをどのようにイメージしていますか?

 自然体だね(笑)。林業基本法もここで変わる。木材生産から環境政策へと。「林業なくして森林は守れない」ということを多くの人達に理解してもらい、その支援策として公務員的な労働力を確保したり、ボランティア活動を促進したりと。多くの人に林業の基本的な部分を体験してもらうことがもっと重要だと思う。そのへんを森づくりフォーラムで入門、初級の取り組みを行って、市民グループには中、上級をめざしてほしいと思っています。

最後に

 まだまだ話を尽きなかったのですが紙面の都合でここ迄とします。「木と人のネットワーク」は昭和61年にスタートしたのですが、ちょうどその頃の田中さんの問題意識は「どう林業を支える労働力」を確保するかにありました。都市からまた逆に労働力人口が戻ってくることでした。その時、青年の家からの講師依頼は「待ってました」という感じでしたと田中さんは言います。あれから15年。確かにボランティアとして、そして労働力として山村へもう一度戻る流れは少しですができつつあります。「木と人のネットワーク」と田中さんが取り組んだ15年は、その導線の役割を果たしたと言えるでしょう。

 私は「木と人のネットワーク」成功の鍵は事業のねらいと同時に、そこに田中さんがいたという奇蹟的な出会いであったと思っています。林業を天職と思い、人の出会いが好きであり、青年たちと同い年のように気さくに語り合うことができるという田中さんの人柄と魅力が、森林と同じように都市の人間にとってはまた来たくなってしまうツボであったように思います。

 それでは、ここで失礼しますというところで奥さんのゆう子さんが登場。温かいおそばを御馳走してくれました。その時、田中さんが一言 「ここまできたのも内助の功だね・・・」 本当にごちそう様でした。

 

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