ニュース第50号 99年11月号より

小規模森林所有者とともに

       花咲き村  園田安男

 

 先回は、森づくりフォーラムが幅広い参加の入口をつくるのに貢献することを述べたが、底辺の広がりを求めるだけでなく、目指す方向をも提示できるものが必要だということで、それぞれの活動が戦略を持つという必要性をいった。それで、今回は私が日常に活動しているグループ、花咲き村を通してこのことを述べてみる。

◆問われているのは「どこから来たかではなく、どこへ行こうとしているのか」だ

 これまでの私たちの活動は社会的なアピールという面でそれほど熱心でなかったといえる。気心が知れて、楽しく、それでいてそこそこに社会的な意義を意識できればそれでよし、ま、こんな感じだった。

 つまり、作業をすること、共に汗を流すことを前面に押し出してきたわけで、反面、作業をすることはできないが、森林保全活動に支援したいという人たちを組織できてないといえる。寄付をするだけでも、会員になるだけでもいいのだという雰囲気ができておらず、その意味では社会的な活動としては幼い。確かにこういう雰囲気は作ってきたことではあるが、最近は、ちょっと宗旨替えせんといかんかな、と思ったりしている。流れを変えるために。

 森林の活性化のために、今の活動がどのような道を歩もうとしているのか、どのような可能性があるのか、を示していかないと幅の広さと力強いものにはなりそうもない気がしている。

 確かに、最初は何もないところから様々な困難の中で、どうにかこうにか、フィールドを確保し、定期的な活動へと進んできた。

 フィールドを得ることができなければ何も進まない、という活動である。それゆえ、このフィールドの所有者とどのように関係を持ってきたかで、いろいろな活動の出発点の差はある。しかし、今はこの生い立ちの差が問題ではない。どこから始めたのかは問われなくてもいい。

 問題はどこへ行こうとしているのか、どこへ向いているのか、である。この多様性が問われているのだ。つまり、ひとつひとつのグループの活動が何をしたいと思っているのか、明らかにしていけるとより社会的な支援と協力を得ることができると確信している。

◆さて、花咲き村は

 花咲き村は東京は西多摩、日の出町を拠点に福祉のボランティア活動から出発して、地域の様々な課題を「ボランティアによる地域の活性化」というような方向で活動してきた。この流れの中に森林ボランティア活動がある。日の出町は7割が森林という、新興住宅地もある山の町である。そもそもの花咲き村が森林ボランティア活動に関わるようになった契機は、86年の大雪害によって被害を受けた森林が、以後、放置された状態にあることを見て、できることから始めようと山には入ったことから、である。

 荒れたスギ、ヒノキ林の片づけ、再植、以後、その育林作業ということを、およそ2haほどやっている。また、その他、除間伐も2haぐらいやってきた。最近では、竹林もやっている、といったところだ。2000haある日の出町の森林からいえば、ごくごくわずかであるが。

 さて、これまでの活動でわかったことは、結局は、山の所有者がその気にならなければ、山の活性化もあり得ないという至極、単純な結論だった。わけても、森林の荒廃がめだつのは大きな林業家の山ではなく、日の出町の山林所有者の9割以上をしめる、10ha未満の所有者の山である。

◆放置と無関心が山を荒廃に導く

 花咲き村は放置林をなんとかしたいと思ってやってきた。放置林こそ現在の荒廃する森林の象徴だから。そして、花咲き村の森林活動の出発もここにあったのだから。

 いったいなぜ人々は森林を放置したのだろうか。たいがいの人はいう。「いまは、山は金にならないからなあ。」

昔は金になったので、あんな山の上までスギを植えたのだが、そのスギが売れないとならば、同じ理由で、形は逆だが放置、となる。木材がかってのように、それなりの収入になるということであれば問題は簡単だ。しかし、そうはいかない。いま、林業としてやっていけるには、ある程度の所有規模とある程度の山の歴史がなければなりたたないのはもはや、自明のことだ。

 それは、林業家がその誇りを持って今の時代に適応する林業形態を創造することだろうし、そのことは私たちが応援すればいいだけだ。

◆「山の問題は山の人たちだけの問題ではない」

 まず、私たちは「山の問題は山の人たちだけの問題ではない」と主張し、都市住民が参加する理屈を付けた。

 素材生産は確かに林業家や山林所有者の問題かもしれない、しかし、森林はそのためだけにあるのではない。環境保全や森林文化を守るというようなことは、すべての人たちに関わる問題である、という主張である。これは、森林に関わる市民活動の基本的なことであるが。

 そして、いま、その森林が危ういのだ。私たちは無関心ではいられない。まずは行動、そして現状を理解しよう。

 さて、そうやって、勢い込んで放置林へのボランティアをしようと思って来てみれば、どうも山の所有者の対応が期待していたのとは少し違う。どうも期待した反応ではなかったりする。

 ここで、山の所有者が山に対して持っている感情や都市住民に対して持っている感情をいくらか理解する。当然、理解しないままの人たちも多々あるが、それでも交流が生まれれば、理解は進む。

 山の所有者の今の気分を理解したとしても、一緒に作業したり、交流したり、もっと積極的になれば、もっと参加する人、支援しようとする人は増えていくと誰もが思うようになる。山の所有者がどうであれ、気持ちのよい作業ができればそれでいい、というような自己完結型の参加者は別にして。

 すると、この「山はみんなのもの」が共通の合い言葉にならないものだろうか、と考える。森林所有者に「山はみんなのもの」ということが無前提に通用するわけではないことは百も承知のうえで。

 山はれっきとして「山林所有者のもの」なのであり、そういう歴史はある。理屈ではどうであれ、これは現実である。こう理解していても、それでも「山はみんなのもの」という共通の言葉がもてないだろうかと模索するのだ。

◆手がかりは何だ?

 私たちは、これまで山を守ろうという意欲ある人たち、それは所有面積の大きい林業家の人たちや、所有面積は少なくても山に愛着のあるお年寄り、こういった人たちを頼りにとっかかりをつくってきた。山林所有者は山を持っているという属性でそう呼ばれているだけで、すべての人が林業家ではないという単純な事実も知った。小規模所有者は林業家とは違う意識と行動形態を持っていると考えるのもそう難しいことではない。

 しかし、この人たちの声は聞こえてこない。いっちゃあなんだが、誰も聞こうとしてこなかったように思う。森林組合も町の林務係も、東京都の林務課も。当然、政策には反映されない。そして、山は荒れていく。

 小規模所有者は、とうの昔から山から離れている。そして、「もう山は金にならない、だからいまさら」という。

 しかし、このメッセージを違う角度から考えれば、金になることを期待してないという意識でもあり、だったら山を生活の糧を得る場ではなく、環境面や景観、結果としての地域の活性化につながる資産として考えてはもらえないだろうか、ということだ。

 森林を地域活性化の資源にすることの方法はないだろうか。ここに都市住民の参加にさらなる意味が出てくる。以前は、いくらこうすればいいのにと思っていても、接点がないのでかき消されてしまうだけだった。いまは点はある。線もある。ただ、面はまだだ。

◆話の筋を整理してみる

 花咲き村の関心事は、山の活性化であり、つまりは人々が山から気持ちの足も遠のいているという現状を変えたいということだ。すると、この放置されている森林、放置している所有者への働きかけが主たる活動となる。

 作業を通して目的とすることは、小規模所有者を組織することである。本来ならば、明らかに森林組合の仕事だ、これは。しかし、今の森林組合の力量ではここまでは手が出ないとみた。日の出町森林組合の組合員は240人程度だが、組合員だという意識のない人は、これは私の感じでいうが、「200人」と思っている。別に調査したわけではないから根拠を突っ込まれると弱いが、感でそう思う。(オイオイ、根拠がない割にはミョーに断定的だな。)

 小規模所有者の対策が、森林組合の組織的活性化の方向で行くのか、それとも別の形態を考えるべきかは今はわからない。ただ、いえるのは森林から生活するための収入を期待してない人たちだということははっきりしている。金になればそれに越したことはないが。おじさんたちは「金にならないから」というが、「山=金、生活の糧」という図式でしか考えたことないんじゃないの、それ以外に森林の活用方法を知らないんじゃないの、と思うことがある。

 さて、森林組合が森林の多様な活用ということから対応できれば、これはおもしろくなる。でも、むつかしいだろうなあ。だから、一緒に何とか、である。これまでの活動を通して考えてみると、地元のおじさんたちと協力して、町や森林組合に支援してもらえば、ひょっとすると何かできるかもしれない、という気はしているのは確かだ。都市住民を主なメンバーとする花咲き村とのうまい組み合わせをもってすれば、である。10年近く山での活動してきたんだから少しはアイデアが出せるかもしれない。

 要は、日の出町の人たちだけでなく都市住民も一緒になっての組織を作るという方向だ。まずは具体的なところから、観光タケノコ堀組合と竹炭を作る人たちが一緒になって竹林組合とか、ソバの会とか、あれこれやってみてから、もう少し整理された形になるだろう。都市住民と林業家が一緒にやってる「東京の木で家を造る会」のような例もある。

 小規模所有者への働きかけが必要なことがますます膨らんでくる。よそ者の集団にとって村のコミュニティを尊重しつつ、関わっていくのは、正直言って至難の業と思えるところがあるが、いつだってできるかどうかはっきりしないまま歩き出したんだから。

 考えてみてごらん、日の出町の中小規模所有者が毎年ひとり10万円ずつでも山に投資したらどうなるか。年間2000万円の仕事ができ、それだけ山は活気づく。いや、これに行政の補助でも財団の助成でも、あるいは民間の寄付でもいいから同じが額だけ支援しようという仕組みができてごらん。4000万円の仕事になるんだよ。

◆最期に

 森林問題は、所有者の存在形態がその意識の違いとなっている。「存在が意識を決定しいる」よね。森林一般で考えると私たちの活動も一般的になってしまうということだ。具体的に考えれば市民グループの活動も方向性という点で、多様になり、おもしろくなる。「東京の木で家を造る会」はすくなくとも林業家を仲間とした活動である。花咲き村とは違う。これがいいのだ。このような多様性こそ今の森林市民活動に問われているのだ。

 花咲き村は地域の活性化を都市住民とともに、というスタイルで活動してきた。福祉も、森林も、田んぼも、竹炭も、ソバもみんな。これらのバラバラな活動がそのうち網の目として見えてくるだろう。

 

※花咲き村の具体的な活動は、ホームページで見るか、花咲き村通信で。園田に問い合わせて下さい。

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