資1 「週間SPA!」1992.4.29 Vol.16
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「栗本慎一郎の脱帽的ニュース新論」
甲山事件上告棄却 学園内の小権力のほうが国家権力よりも怖い!?
兵庫県西宮市に甲山学園という学校施設がある。いわゆる精神薄弱児のための保護教育施設である。ここで1974年3月に事件がおきた。
精神薄弱児である2人の園児が続けざまに姿を消した。そして2人はなんと浄化槽に投げ込まれて死んだ姿で発見されたのだ。投げ込まれたといったが、もちろん自分から落ちたのかも知れない。だが浄化槽の蓋はしまっていた。だからすぐには発見されなかったんだ。
蓋は重くて子供が持ち上げられるようなものではない。また、何か一般的には推測しかねる理由をもって、もしも子供が自分から入ったとしても、入った後蓋をもとに戻すことはありえない。したがって、警察の判断は、「他殺」となった。ここに問題はないといえるだろう。
2人が「殺されて」いるが、証拠等の関係で一人についてだけ、保母だった当時22歳の若い女性が逮捕され逮捕され、起訴されたが、神戸地裁の判決は無罪だった。だが、事件後3、4年たったあとで、ほかの園児たちの証言が改めて取り上げられた。この保母が殺された園児を抱きかかえて浄化槽のほうへ行ったなどの行動を見たという証言である。大阪高等裁判所は有罪の判決を下した。ここまでに事件後、16年かかっている。
そして、18年目の今年4月7日、最高裁は被告の上告を棄却した。有罪の確定かと思うと、まだ神戸地裁からやりなおす気迫と手続きの可能性を被告は持っているのである。
これは不思議な事件である。私は、基礎法部門ながら法学部専門課程の教授だったから法律についても必要なことは知っているし、事件の事実を自分なりに調査する能力も持っている。しかし、そのどちらをもこの事件について使ってこなかった。だから、ここで述べることは、外見からの一般の議論である。でもイギリスでも外観推理派のミス・マープルの例もあるし、私もプロフェッサー・マープルくらいはやれるかもしれない。そのつもりで読んでもらいたい。
報道は、ごく一般的にいって、最初、権力による冤罪といったトーンであった。警察や検察はこうしたことをでっちあげるものだという思い込みが支配的だったといえる。まだ、実際、北陸の連続女性殺人事件においても、北野さんという男性が元愛人の犯行への共犯を無理矢理
自白させられたということが、裁判の過程でほぼ明らかになったばかりでもある。そういうことは、ないとはいえないのが残念な実情ではある。警察、検察はさらに自重せよといわねばならない。
被告の高笑いに報道に私は違和感を持った
しかしである。私は実はこの甲山事件の報道については、かなり初期からぬぐいがたい疑問を持っていた。
新聞による例によって例のごとくであった、「検察は無実の民に罪を塗る」ごときトーンの記事の中に、「(被告が被害者を抱きかかえていったという)園児の証言を妥当とする論告に対し、高らかに軽蔑したかのごとき大声で(被告が)笑った」といった表現を見たときである。何とはない嫌な違和感を覚えた。被告には会ったことがない。だからいかなる心証もない。記者にも会ったことはない。だから、やはり心証はない。しかし、その書き方への心証は有罪だった。完璧な決め付けがあることに気づかざるをえなかったからである。
またこの学園の教員一同が、残った園児たちの証言を抑える動きがあったこと、証言が引き出されたのちには、精神薄弱児には証言能力がないと主張せんばかりであったこともひっかかった。
権力、権力というが、精神薄弱として施設に引き取られた子供たちにとっての権力とは、権力叩きの「正義」に血道をあげる弁護団にとっての宮沢政権だとか兵庫県警ではありえないではないか。閉ざされた状況においては、目の前の園長や先生だけが大変な権力そのものである。
閉ざされた状況の中で、2人も次々と殺された。そして、「変なことをいってはいけませんよ」とばかりの抑圧がかけられた(といわれる)。この被告が本当に冤罪だったらたしかに問題だ。裁判も長すぎるといえる。しかし、もし逆に真犯人だったら、事実は小さな学園の事件に権力がたんなる面子のために介入して云々どころではない嫌な事件になるではないか。被告あるいは誰かが子供を浄化槽に投げ込んで殺して、何かの事実を隠そうとしたことになるからである。
学園をあげての「権力」は、子供たちや親に対してよけいなことをいわせないという形で発揮された。その子供達は証言を変えていないのだ。
国家の大権力よりも園内の小権力が怖い
政権や県警が、馬鹿な面子のために無理をやろうとしたというよりはるかに陰湿だということになってしまう。そういうことを支援する記者や弁護側は、考えたことがあるのだろうか。私たちは、首相宮沢喜一なる大権力より、園長某山某男あるいは某川某子程度の小権力のほうがそういう行為をとりやすいとよく知っているのだ。少なくとも、公平な記者なら、そういう一方のありうべき疑問をきちんと消してから検察批判の筆をとってもらいたいものだ。弁護の支援者がまた、形式的権力批判の常套者だから、誰もが眉に唾をつける。権力批判をやって前へ攻めて出れば、もしも恥ずるところがあってもよい防御になるのも常識だからだ。
なににしても園や被告の側のてんとして恥じない態度は、気になる。園児がおそらくは内部(?)の者の手によって殺されたのだ。天に対する責任は逃れることはありえないだろう。裁判の長さはよく批判されるところだ。しかし、旧ソ連のように即決ですぐ刑務所行きよりよいではないか。そして、裁判を遅らせるのは、一方に弁護団の責任もあることを忘れてはならない。