同意の上での説得体験談 

 

  私は初めに研究生を10ヶ月したあとに、一時中断がありました。諫早に転居をいたしましたところ、そのアパートの隣人が証人でした。その方は親切でいい人でしたから、勉強をする気になりました。夫には内緒で研究をしていました。証人は親切で優しい方ばかりでした。証人に対しては、輸血禁止の情報を持っていましたから抵抗はありましたが、会うごとに消えていきました。いい人たちの言うことが正しいのではないかと思うようになりました。輸血もいい方に考えるようになりました。良い行状につられ、研究をするたびに深みにはまってしまいました。夫からは反対されると分かっていましたが証人になる思いのほうが強くなっていきました。夫に告白すれば反対を受けると分かっていましたし、そのときどう対処したらいいか、マニュアルがありました。次のように前もって学習していました。……「反対を仕掛けてきます。本当にエホバに仕えることを試されるときですからし、反対のさなかでも負けてはいけません」と教えられています。どんな言葉を浴びせられても、どんなに暴力をふるわれても耐える準備ができていました。どんなものに対しても、抵抗なく、平然とできていました。

 反対されればされるほど、「世の人」たちはこういうことしかできないという思いができてきます。証人のほうが立派なんだと傾いてきます。家族から反対され、子供からも離され、味方は証人だけになります。頼るところは証人だけになる。反対されればエホバの思いが強くなる。家族が反対してもなにも聞こえなくなる。家族の話を聞いていられなくなります。夫から見れば鬼のような形相になります。話を聞いてもらえなくなるので証人への思いに傾くだけになります。

 子供とは離れて暮らすようになり、子供には一ヶ月以上会わなくなりました。エホバへの信仰が足りないから、家族にも信頼できない、伝道しないから状況は変わらないと思ってしまいます。エホバ神に仕えて行くしかないと思い、黙って家を出ました。そのとき父が家の中で監視していましたが、父がうたた寝をしている隙を盗んで、近くの証人の家に駆け込みました。家族と連絡が付かないところに行って、エホバに頼るしかありませんでした。もう子供に会えないと思いました。近くの証人は、私を預かる先が決まっていると言っていました。それを引き留める長老がいました。その長老がいなかったら私は失踪していたはずです。長老からは「もう少しがんばって」くれるように言われ、家に戻りました。

 その頃、家族は限界を感じていました(夫は原田さんと会っていました)。夫が話を聞くようになりましたのでうれしかったです。エホバ神はどんな困難なときでも助け手を送ってくれると言われていましたから、夫が助け手になれると思いました。夫が話を聞いてもらえると思うとうれしかったです。それが作戦だとは思ってませんでした。夫が夜遅くまで証人の話をしました。どうしてわたしが証人になりたいと思いったのか、証人はいい人だったと言われ、許せる気になりました。夫が勉強したいと言うのを聞きますととてもうれしく感じました。違う聖書でも分かってもらえると思い、同意しました。

 草刈牧師に事故が起きてしまい、そのせいで両親の怒りが降りかかったときには、夫がかばってくれました。それで分かってくれるのは夫しかないと夫への信頼が大きくなりました。

 実際に草刈牧師に会うと知らされますと怖い思いをしました。部屋に閉じこめられたり、暴力を振るわれたり、多額の金銭を取られると言われていました。別な神の話を聞く必要はない、いやですと言いましたが、家族と一緒に住む思いがありましたし、一緒に暮らすための話をするのだからと、実の父親から言われて、わたしの望みと一致しました。

 その頃は集会にも行っていませんでしたし、証人とも会ってませんでしたので、ものみの塔から離れていました。それがよかったのだと思います。半年間、ものみの塔とは関わりがありませんでした。受け入れられた原因でした。家族と学ぶ機会が与えられても、牧師の話を聞かないように言われていました。初めは心に届きませんでしたが、資料を差し出され、疑いを持つと間違いに気が付くのが早く感じられました。何でこんな間違いをしていたかと思うと、気持ちが落ち込んでいきました。そばにいる家族の喜ぶ顔を見ると落ち込みました。どうしようもない気持ちになりました。消え入りたくなりました。誰でもそうです。何をどうしたらいいのか、どう償えばいいのか、何を信じればいいのか、証人は共通の思いを持ちます。正しいものが間違いだと気が付くとどうしようもない思いをします。

 本物の神様は誰ですかと、草刈牧師に聞きましたところ、「キリストです」と言われましたから、わたしはいま、ここでこうして自分の足で立っていられます。キリスト教になってもらったら困ると言う家族もおります。両親も夫も、キリスト教会ともめ事がありました。しかし教会につながらないと自立していけない。家族は理解しないといけません。キリスト教がいやで説得をやめてしまう家族もいます。キリスト教がいやで説得をやめると言わますとショックを感じます。証人の学びをするとともにそこを理解していただければと思います。信じているものがなくなる証人の思いを感じて欲しい。それと証人が間違いに気が付いてもらいたいという思いがあります。

 いまでは年に数回、草刈牧師と会い、後遺症のリハビリをしております。保護説得も難しいと聞いております。失踪した例もあります。そうならないよう、すれすれの状態で行れているそうです。よい理解者のふりをしないとすぐエホバに逃げてしまいます。ぎりぎりの状態で行われている。そこを注意して、良き理解者になっていただければと思っております。

 


 

参加者からの質問

 証人をやめたときとクリスチャンになったときはどのように違ってましたか。

答え

 証人の時はこの世には神がいるという思いに満たされます。キリスト教との違いは良いことをしたり、行動によって神は喜ぶということ。人に親切にしなさい、集会に行きなさい、伝道しなければいけない、そしてたくさんの重荷を負います。そうやって神様の喜ぶことをしなければいけないと思ってしまいます。証人が間違いだと気が付くと今までの神様は何だったか、神様はいないのかと思ってしまいます。神様はいます。その神様が違っていただけだなのという思いがあります。キリスト教はありのままでいいと言ってます。できない自分でもいいと言ってくれる神様がいます。荷が重ければ来なさいと言う神様。間違いを犯しても神様は許してくれます。証人になる理由……。それは神様がいると感じて、神様を信じて、証人になります。行ないによって救われると言う教えが間違っていました。証人の時は集会に行ってません、伝道していません、どうしたらいいだろうと重荷がのしかかっていました。教会に行って毎日が幸せになりました。今日も教会に行かされている、ありがとうという気になります。それでも神様がいてくださると思うと明るい気になります。

 

司会者

うちは浄土宗ですが、宗教の信仰心があるようでありません。教会の方々と交わりがありますけど神を認められませんと、かつて中沢先生に申し上げたことがあります。苦しいときだけ神に頼ったり、祈ったりしますけど、それ以外、信仰心はありません。すべてを神様に委ねる方はすばらしいと思います。  


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