ものみの塔を疑い、キリスト教会で自由な信仰生活
私は15年以上前、エホバの証人でした。現在はキリスト教会の教会員です。
私がキリスト教に興味を持ったのは一冊のキリスト教に関する本からでした。時代背景・意味は分かりませんでしたが、その中にはの富んだ者に対するイエスのことば「財産を貧しい人に分け、私に付いてきなさい」と書かれていました。それには付いて行けない感じがしました。その時は孤児院に手紙とお金を送って平安を得られました。また東大学長のイエス伝を読んで素晴らしいと感じました。
ある日、中年男性が家に訪ねてきて「聖書研究をしませんか」と言いました。当時は聖書を分からなかったのですが「あなたは地上の楽園で永遠に生きられます」に興味を持ちました。それから個人研究が始まりました。まもなく地上に終わりが来て地上の楽園で永遠に暮らせると強調していました。それに魅力を感じ研究を続け、エホバの証人になりました。伝道しているエホバの証人は素晴らしい人たちだと感じていました。しかし組織の中にいると違和感が感じられました。集会には出ないといけないと言われ続けていました。彼らは長老から定期的に集会に出なさいと絶えず励まされます。会衆には離婚した人たちが大勢いました。絶えず励まされますから家族をほったらかしにして集会に交わります。それだから家庭から離れさせられます。また毎月、何時間奉仕したかを紙に記入させられ報告します。
自分自身、組織あっての自分であり、イエス様との個人的な関係ではなく、ものみの塔組織との信仰でした。そこにマインドコントロールを感じました。クリスチャンとして大事なのはイエス様への信仰です。イエス様の信仰を二の次にして組織に忠節にしなさい、統治体の指示に従いなさいと教えられます。日曜日には「ものみの塔」誌の研究があります。その本には問いに対する答えが書かれています。その通りに答えると長老は喜びます。私はそれに疑問を感じました。
個人の信仰を自由に表すのではなく、すべて「ものみの塔」誌の通り答えていく、その繰り返しが洗脳だと感じました。
エホバの証人の教えはまず新世界訳聖書によく表れています。ほかの聖書とは違います。「十字架」ではなく「杭」になっています。そこに違和感を感じました。「イエス」をエホバと置き換えている箇所があります。ものみの塔に都合のいいように書き加えられています。このような聖書でそのような福音を伝えてはいけないと思いました。輸血拒否について言えば、確かに「血を避けなさい」と聖書には書かれています。過去に輸血を拒否されて亡くなった子供がいます。医師から輸血をしないと死にますと言われるとエホバの証人は輸血を拒否します。イエス様は「あきらめなさい。輸血しないで死になさい」と仰るでしょうか。ものみの塔は聖書の純粋さを人間の知識で曲げてこじつけで教えていると感じます。信仰は自由です。一人一人に聖書が与えられています。神様は光として聖書を与えてくれます。それが大事だと思います。ものみの塔は格闘技は拒否しなさいとか、鯨の肉は食べてはいけないとか細かい規則を課しますが、神様は人間の作った組織でがんじがらめにされるのでしょうか。柔道も、剣道も、輸血もいいのではないでしょうか。亡くなられた方は悲劇です。
会衆では驚くようなことが起きていました。ある日、突然長老が一人の女の子の排斥を発表しました。理由は知らされませんでした。母親は涙を流して泣いていました。しかし、周りは楽しそうにしていました。私はかわいそうと感じ、おかしいと思いました。また、一人のエホバの証人が交通事故で亡くなりました。「輸血をしなくてよかったね」と言う者もいたのには驚きました。私には衝撃でした。
エホバの証人は組織のノルマを果たして神からの祝福が与えられると教えられます。また新世界訳では「恵み」を「過分のご親切」と書き換えています。人間の力を尽くして神からボーナスのようなものが与えられると考えています。そうではありません。神は太陽の光のように、一方的に与えられます。愛もそうです。人間はその力で天にも届くバベルの塔を造りました。それは傲慢だと神はそれをこわしました。私たちは罪人です。弱い者です。神の力が欠かせない信仰に至りました。それに対し、エホバの証人は自分のがんばりで神からの恵みを期待しています。キリスト教会は神様により頼みます。
聖書は書かれた言語で訳されなければなりません。ねじ曲げてはなりません。「十字架」から「杭」は大きな過ちです。してはいけないことです。キリストの十字架からクリスチャンの愛が始まります。こうしたことがあって私は教会に導かれました。
日本人は聖書をよく分かってません。エホバの証人は分かりやすく教えます。それで信者を増やしています。しかし「ものみの塔の福音」を伝えてはいけません。
私の教会にもエホバの証人が訪ねてきました。見てると何かぎこちない態度を受けました。神の愛があって自由に生きられます。人間の造った組織にがんじがらめになるのではなく、伸び伸びと信仰生活を過ごすのがクリスチャンです。私は具体的にどのようにエホバの証人に伝道すればいいのか分かりません。基本は聖書です。付け加えられた聖書ではなく、純粋にイエス様を信じることが大事です。
ラッセルは神学校に行ってません。自分なりの聖書研究をしました。墓にはピラミッドが刻まれ、フリーメーソンの疑いがあります。ものみの塔は過去の教えを否定します。見解がころころ変わります。一貫性がありません。それでもいいのでしょうか。統治体が思いつきでやってきたのではないでしょうか。何もしないで手をこまねいているのではいけないと、この集会に来ました。ものみの塔は大きく逸脱しています。聖書をしっかり持ち、真理を識別することが大事だと思います。