斎藤牧師の講話
私は1993年にエホバの証人のバプテスマを受けました。98年頃に不活発になりました。この会場に貼ってある集会の看板を見るにつけ、17年という年月の積み重ねの重さを感じます。
私はこの前、福岡で行れたJWTFの集会で講演をしました。私は福島市の出身で実家は半壊しました。地震で祖母が体調を崩して亡くなりました。私の叔父はエホバの証人です。同じ会衆でした。エホバの証人は元証人に冷たいのですから、叔父さんに会うことは気が進みません。嫌な気がしました。地元に帰ると叔父さん夫婦は祖母のそばにいました。エホバの証人は葬式に出られないのですが一生懸命働いていました。その姿を見てほっとしました。向こうからも私に話しかけてきてふつうの会話ができました。親戚の人たちはエホバの証人には良い感情を持っていませんでした。しかし叔父さん夫婦の姿を見て悪く言う人はいませんでした。私は叔父さん夫婦もものみの塔の被害者だと思いました。
ここでは被害者と加害者について考えてみます。被害者と加害者の関係は簡単に言えません。エホバの証人の問題ではその問題の根元を考えることが大事だと思います。「被害」の「害」は何かを整理してみます。害を加えるとは、経済的害、精神的害、社会的害、家族的害を加えることですね。その害が分からないとどう対処したらいいか分かりません。各人各様のスタイルがありますからその対処も多種多様です。そうしないと一面的な見方しかできません。教会から見るとエホバの証人の教義の間違いを言います。それは教会の外部の人には通用しません。部外者には教会が正しくてエホバの証人が間違っていることは関係ありません。外部の人が人道的に輸血禁止を問題にすることはできます。エホバの証人が自分たちが正しいと思わなければ彼らの拠り所はなくなります。見方を広くすることが大事です。エホバの証人は一方的にしか見えないから問題が生じます。私たちも広い見方をしないで一方的にこりかたまるとかたくななために問題がこじれる場合があります。絶対的な被害者だという考えから見方を広げられないでしょうか。
エホバの証人が家族に害を加えていると考え、家族は自分たちが被害者だと考えます。よくある例を上げてみます。妻がエホバの証人に加わるとどうなりますか。夫が帰宅すると妻はいません。妻が作った料理を一人で食べます。なぜ妻がいないのだろうかと家族は思います。寂しさと怒りが生じます。根本は妻がそばにいない寂しさがあります。エホバの証人の教え・影響が大事だけれど、その問題のうらには家族間の関係が潜んでいます。妻がエホバの証人に関わるきっかけを考えると問題が複雑になります。子育てで悩んでいるときに妻は夫に相談しようとします。夫は疲れています。妻の相談相手になれないときもあります。そうしたとき妻は孤独を感じます。そのときにエホバの証人がやってきます。「悩みはすべて聖書から解決できます」とか「もっと詳しい本があります」と教えます。そうしたときにエホバの証人との関わりが始まります。妻子が集会に出ているときの夫の悲しみと悩みを取り合ってもらえない妻の孤独と悲しみには違いがあるのでしょうか。夫には家族のために働いているという言い分があります。妻には家族のためにエホバの証人から学んでいるという言い分があります。相手にしてもらえないという点では同じです。夫が妻に害を加えていると思うかもしれません。妻は夫に寂しさを加えている点では加害者です。双方向で加害と被害を考える必要があります。自分にとっての被害は何か。なぜ家族がエホバの証人になったかを考えることは必要です。
最近では私には統一教会の相談が多くなりました。私は相談者を助けます。相談者が家族性を回復するには何が足りないかを考えるのがカウンセラの仕事です。安直な人も多くいます。家族に返さない方がいいと思うケースも多いのです。私は家族性を回復するために手伝いをしたいと思っています。私は、教えが間違っているという面からのアプローチはしません。エホバの証人のために家族が離反することを防ぐ手伝いが大事です。それが達成できると教えが間違っていると早く気がつきます。視野の広さから家族を作り上げます。自己変革をする必要があると考えさせることが私たちの応答だと思っています。エホバの証人から家族を取り戻すにはエホバの証人以上に家族になる必要があります。
被害者集会は連続して開くことに意味があります。いろんな人に会い、苦しみを分かち合う中で励みと慰めを受けます。元エホバの証人にとってはそこで家族性を受け、示唆を受けます。ものみの塔の集会が大事だと証人が感じているのと同じです。私の経験では教会に行ったときの交わりで愛情を感じました。教会と関わりを持って家族性が得られました。家族性が感じられることが大事です。家族以外でそれを求めている人が多くいます。
二世の問題は大きい問題です。一方的に価値観を植え付けられ、放り出されます。親には家族性を求められません。そうした人たちのために何ができるか。それは大きな課題です。家族性を分かち合うことが大事です。