定例研究会
第33回 定例研究会
江戸の下掃除(便所の汲取り)代金の高騰に見る行政の対応
柳下 重雄 氏
日時; 平成17年2月27日(日)午前10時〜12時
場所; セントラルプラザ10階 A会議室
講演者; 柳下 重雄 氏
演題; 「江戸の下掃除(便所の汲取り)代金の高騰に見る行政の対応」
内容; 寛政年間に江戸中の下掃除(便所の汲取り)代金の高騰が問題化し、代金を支払う側の下掃除人たちと、代金を受け取る側の武家屋敷や町方の家主たちとが対立しました。このとき、行政はどのように対応したのでしょうか。
定例研究会報告
日本下水文化研究会の定例研究会(第34回屎尿研究会例会とのジョイント)が、2月27日(目)午前10時より東京・飯田橋の東京ボランティア・市民活動センター会議室で行われました。講師は本会監事の柳下重雄氏で、演題は「江戸の下掃除(便所の汲取り)代金の高騰にみる行政の対応」でした。柳下氏は当研究会の下水文化叢書1「江戸 神田の下水」の著者で、江戸の下水に関する古文書を活字化・口語訳し、解説を加えております。
今回は、町方と奉行所(行政)との間の下掃除代金に係わるやりとりを記録した江戸古文書を解説していただきました。講演の骨子は以下の通りです。
@下掃除人から町年寄へ「屎尿の汲取り代金値下げ」の訴えが、寛政2年(1790)3月にあった。町年寄は町奉行の配下で名主たちを統括し、3家が交代で月番を勤めた。
Aこの訴状に対して名主たちから反論が出た。名主は平均6〜7ヶ町を支配していた。
B両者の言い分を勘案して、当初、勘定奉行が折衷案を出したが、双方譲らずまとまらなかった。
Cそこで今度は町奉行が、具体的な解決に向けて当事者同士で話し合いをするよう、双方に対し強く働きかけを行う。
D名主たちが値下げの状況を回答する(寛政3年2月)。江戸市中の大家(2万1千余人)のうち、値下げしたもの38%、従来どおりの金額を下掃除人が持ってくるもの9%、無料又は農作物を受け取っているもの5%、話し合いがつかないもの5%、値下げされては困るもの4%、…であったという。「家主が下掃除人を自由に変えられることは今まで通りとして欲しい」と書き添えている。
E下掃除人たちからの突き上げが名主たちにあったりする中で、おおむね解決したのでもう手を引きたい旨の名主たちの申し出に対して、町奉行は完全に解決するまで話し合うよう指示する。
F再度、下掃除代金の値下げ状況を名主たちが町奉行に報告する(寛政3年10月)。2万人弱の大家のうち、話合いがついたもの72%、無料又は農作物を受け取っているもの7%、…であった。
G下掃除代金が値上がりした原因としては、農作物増産のための肥料必要量の増加、大家の方が下掃除人より上位の力関係、下肥商人の出現による価格のつり上げなどが考えられる。
H幕末の天保14年の奉行所のお触れでは、野菜の値段の高騰を理由に、「今の下掃除代金を1割引き下げること」と、具体的な数字を挙げて指示している。この頃になると、民と民との話し合いだけでは解決がつかない状況になってきたことがうかがえる。
なお、過日、2月28日に柳下氏の手になる下水文化叢書8「江戸の下水道を探る」(享保・明和・安永の古文書から)が刊行されました。江戸の下水道の実情を知るうえで貴重な手書きの史料を口語訳・解説された 労作です。
(屎尿研究会会長 地田修一 記)
「江戸の下掃除代金の高騰にみる行政の対応」
ノ下 重雄(日本下水文化研究会会員)
江戸近郊農村の人たちが江戸の町の下肥を購入するシステムは、18世紀後半にはできあがっていましたが、新田開発による草刈り場の減少、不漁続きによる干鰯供給の低下などが肥料不足を招き、割安な下肥に対する需要が高まり下肥代が高騰してきました。
寛政年間(1789〜1801)になると江戸の下肥の値段は、延享・寛延年間(1744〜1751)の3倍にもなり、江戸東郊の農村を中心に下肥代値下げ運動が何度となく行われました。
江戸の古文書(御触書、訴状、報告など)にみる「下肥値下げ運動」について、お話したいと思います。
下掃除人からの訴え(寛政2年(1790)3月)
下掃除人の代表(百姓)から町年寄へ、「高騰している屎尿の汲取り代を延享・寛延の頃の値段に下げしてもらいたい。」旨の訴えが、寛政2年(1790)3月にありました。町年寄は町人の最上位の存在で町奉行の支配を受け、名主たちを統括し、奉行所と町人との連絡調整の役目を担っていました。樽屋、奈良屋、喜多村の三家が世襲で、交代で月番を勤めていました。
この訴状は、前文で、このように言っています。「近年、糞代金が高値になり、農作物の値と下肥代が引き合わなくなり困っています。下肥代が下がれば農作物の値も下げられますし、百姓を楽に続けることができ、年貢もきちんと払えるようになります。」と、下肥代の値下げについて奉行所から御触を出すよう以前お願いしましたが、奉行所は「このようなことは当事者同士が相対で決めることであって、御触でどうこうする筋合いのものではない。」との立場をとられました、と。
そこで、我々百姓は仲間うちで、次のような取り決めをしました、といっています。すなわち、「@ここ40〜50年の間に、下掃除代金が武家屋敷で年間20両であったものが今は60〜70両に、また町方でも年間10両であったものが30〜40両に値上がりしているので、前の値まで下げるよう我々が相手と交渉する。A他人の下掃除の権利を新たに競り落とす者がいるが、これを禁止する。もしそのようなことがあったならば、村役人を通じて元の汲み取り人に戻す。 B下掃除人が下掃除先の意向に背くようなことをした場合は、すぐに掃除人を他の者に変え、下掃除先にさしつかえのないようにする。 C下掃除代金値下げの話し合いが困難になった場合は、20〜30日間下掃除を休むようにする。」などです。この申し合わせには、32ヶ領、874ヶ村の者が合意しています。
名主側の反論(寛政2年3月)
これを受けて、町年寄が名主の代表(年番名主)にこの訴状の内容について意見を求めたところ、反論が出ました。名主は平均6〜7ヶ町を支配していましたが、「家主が自由に下掃除人を変えられることのできるような、今の慣行が保障されなくなる不都合が起きるから」というのが、その主な理由です。
家主は、「いえぬし」あるいは「やぬし」と読み、貸家の持ち主、もしくはその代理人として貸家の管理や住人の世話をする人をいいます。
町奉行が両者に話し合いを促す(寛政2年12月)
下掃除人と名主との言い分を勘案して、当初、勘定奉行が「現在の下掃除人がいう値段と同等であったならば、家主が下掃除人を変えてもよいのではないか。」と、折衷案を出しましたが、双方が譲らずまとまりませんでした。
そこで今度は町奉行が、具体的な解決に向けて両者の代表(下掃除人(百姓)の総代20人、名主の総代21人)を呼び出し、下掃除代の高騰は作物の値段にも影響し、江戸市民の生活にかかわることである。このことをよく考えた上、当事者同士で下掃除代の値下げについて話し合いをし、その結果を翌年の正月晦日までに年番名主まで報告するよう、強く働きかけを行いました。奉行所としては、下掃除代の具体的金額の決定は、あくまで民と民との間のこととして官は口出しをしないという立場を貫いています。
年番名主からの報告(寛政3年2月)
なかなか話し合いがまとまらなかったので少し遅れましたが、翌年2月に、年番名主が下掃除代値下げの状況を町奉行に次ぎのように報告しています。「江戸市中の家主(21,115人)のうち、値下げしたもの:7,973人(38%)、従来どおりの金額を下掃除人が持ってくるもの:1,886人(9%)、無料又は農作物を受け取っているもの:1,048人(5%)、話し合いがつかないもの:1,141人(5%)、値下げされては困るもの:868人(4%)、…であった」と、いうものです。そして報告の最後に、「家主が下掃除人を自由に変えられることは、今まで通りにしてほしい。」と、書き添えています。この報告書には、江戸の町を代表する49人が署名しています。江戸市中には21の番組と番外として品川と吉原の計23の地区がありましたが、一つの地区から2〜3人の代表が署名していることになります。
下掃除人たちからの突き上げが名主たちにあったりする中で、「おおむね解決しつつありますので、この件からもう手を引きたい。」旨の年番名主の申し出に対して、町奉行は完全に解決するまで継続して残らず話し合いを済ませるよう再度指示しています。
再度の報告(寛政3年10月)
再度、下掃除人との調整を行い、下掃除代の値下げ状況を年番名主が町奉行に報告しています。その中で、「19,868人の家主のうち、話合いがついたもの:72%、:無料又は農作物を受け取っているもの:7%、…であった」と、いっています。そして最後に、「今までと同様に、家主の考え通りに下掃除人を変えられるようにしてほしい。」と、念を押しています。この報告に対する奉行の返事は記録に残っていませんが、下掃除人たちは当初の目的をなんとか達成し、とりあえずこの時点でひとまず決着したものと思われます。
下掃除代が高騰した原因
下掃除代が値上がりした原因としては、農作物増産のため下肥必要量が増加したこと、家主の方が下掃除人より上位の力関係にあったことなどが考えられます。ある資料によると当時は、農家収入に対し支出される下肥代は4割にものぼっていたそうです。
やがて、農家ではないが、下肥を商品とみなし大量に仕入れて、農家に高く売りつける町人が出てきましたが、これが下肥の値上がりにつながっているとみた奉行所は、寛政4年(1792)に、この行為を禁止する御触を出しています。
幕末における奉行所の御触
幕末も近い天保14年(1843)の奉行所からの御触では、野菜の値段が高騰したことを理由に、「今の下掃除代を1割引き下げること」と、具体的な数字を挙げて指示しています。この頃になると、民と民との話し合いだけでは解決がつかない状況になってきたことがうかがえます。一歩踏み込んだ行政指導をしています。
江戸にも小便溜桶が
江戸は、大坂・京都(大便と小便とを別々に貯留しておき、ともに肥料として売却。貸家の場合は、大便は家主の、小便は借家人の収入。)とは異なり、大便だけを肥料とし、小便は溝などに垂れ流していたといわれていますが、江戸の古文書の中に次ぎのような記録があることから、18世紀の末になると、大坂ほどの数ではなかったかもしれませんが、かなりの数の小便溜桶が江戸の市中に設置されていたと考えられます。
それは、天明4年(1784)3月の武州葛飾郡の百姓3人からの「江戸市中の辻々や土手下などに小便溜桶を置きたい」との町年寄への申し入れに対する、年番名主からの回答です。それは、「@小便溜桶は、すでに江戸市中に160ヶ所ほどあり、その尿は専門の下掃除人が汲みとっています。 Aこのほか、8つの町では地主などが自分の田畑の肥料にするため、小便溜桶を道路端に設置しています。 Bこれ以上数が増えると、通行のじゃまになり、夜そこに足を踏み込んで怪我をするおそれもあり、ひいてはその土地の値が下がってしまいます。 Cただし、本所、深川に新しくできた町には設置してもかまいません。」と、いうものです。