定例研究会
第32回 定例研究会の報告
江戸遺跡にみる町屋の下水
仲光 克顕 氏
日時; 平成17年1月14日(金)18時30分より
場所; セントラルプラザ10階 A会議室
講演者;仲光 克顕 氏(東京都中央区教育委員会)
演題; 「江戸遺跡にみる町屋の下水」
内容; 東京では今、再開発事業に伴う発掘調査が都心部のどこかで行われており、江戸遺跡に関する情報が飛躍的に増えています。そこで今回は、掘り出された江戸時代の町屋における下水を紹介することとします。
「江戸遺跡にみる町屋の下水」
関野 勉 本会会員
平成17年1月14日(金)東京・飯田橋の東京ボランティアセンター・市民活動センターで「江戸遺跡にみる町屋の下水」と題して、下水文化定例研究会がし尿研究会例会とのジョイントで行われました。
講話者は仲光克顕氏(東京都中央教育委員会)で氏自らが発掘に携わった豊富な経験とスライド、絵図などの資料を使用して、地図等に現れない当時の下水の実態を発表されました。今回紹介された対象遺跡の主な場所は中央区日本橋一丁目・二丁目で、一丁目は以前白木屋デパート(その後東急デパート)の駐車場等があった場所でした。何年か前には私も見学会に参加した記憶があります。中央区は江戸時代に徳川家康が入府以来造成された場所との事で時代・時代に於いて絵図や古文書等が存在するので、それ等と対比して、遺跡の発掘をもとに絵図に現れない実態を明かされました。日本橋川の東側、現在の三越がある側には現在も卸し問屋、江戸時代には日本橋河岸があり、一心太助が活躍した場所と思われます。そして発掘した場所には町屋があり、下水があり、その下水は 1)生活排水、 2)雨水処理、 3)敷地区分、の役割を果たしていたと考えられると言われました。そして現在の地面より掘り下げて行くに従い、時代・時代に生きずいていたと思われる出土品やら、下水が現れ、その場所だけでは判断出来ない様な遺構もあったとの事でした。
限られた場所と予算で期限を切られて発掘するとの事で苦労が多かったと思われます。そして、今回は下水についての話が主で したので、発掘品についての話はほとんどあ りませんでしたが、何か変わったものがありませんでしたかとの質問に、芝居小屋の入場券が見つかったとの返事でした。木片に墨で書かれていたとの事で大変珍しいとの事でした。発掘した下水遺構の傾斜等をみると日本橋川の方向に向かっていないとの事で、この場所のみの発掘では芥溜等もあるが、その先がどうなっているのかまでは分からないのでとの事でした。一丁目遺跡では、発掘された排水関連の遺構を元に、文献資料からはうかがうことの出来ない敷地境を特定され、二丁目遺跡では下水木樋を中心とした遺構により、屋敷割は、年代が下がると共に細分化され、それに伴い明瞭な地業がなされていた建物址は姿を消し、長屋の様な建物に変容して行くことが、下水枝樋が増加する事によって分かると仲光氏は言われました。
今後もまた別の遺跡の発掘等との比較において明らかになる部分もあると言われていました。今回は遺跡全体と言う事では無く、町屋の下水に限った話でした。
江戸遺跡にみる町屋の下水 ―日本橋の町屋を中心にー
仲光 克顕 (東京都中央区教育委員会)
近年の江戸遺跡の発掘調査によって、武家屋敷のみならず町屋についてもその事例が蓄積されてきた。中央区においては、これまで八丁堀二丁目、同三丁目、京葉線八丁堀、日本橋二丁目、同一丁目、京橋二丁目遺跡などの実績がある。ここでは、最近調査された町屋の中でも日本橋周辺の遺跡について、そこから検出された下水について紹介したい。中央区は低地であるため、木質部分の遺存も良好であり、かなりの遺構に木材が用いられていたことが確認された。特に、台地上の遺跡では腐食して滅失することの多い下水木樋の木質が良好に遺存していた
日本橋周辺において発掘調査が実施された遺跡は、日本橋一丁目遺跡(以下一丁目遺跡と略)及び日本橋二丁目遺跡(以下二丁目遺跡と略)がある。東海道の起点である日本橋からは中央通り(旧日本橋通り)が南北に延び、約1.3km 東には隅田川が流れる。日本橋が架かる日本橋川は、隅田川河口と江戸城内堀を結ぶ当時の水運上重要な運河であり、また、中央通りは当時の江戸のメーン・ストリートである。こういったことから、日本橋周辺は江戸の中でも一等地に立地しており、商業地として江戸時代を通じて栄えていたといえよう。
1 遺跡の地歴環境
中央区のほとんどの地域が洪積層からなる日本橋台地上にあたる。この台地を沖積層が覆うかたちとなっており、隅田川東岸の地域に比べて2〜3m高い基盤に立地する。日本橋台地は、地形学的にいう埋没上位波食台(埋没台地)であり、遺跡地周辺の標高は4.5m前後である。北側には同じく埋没台地である浅草台地があり、不忍池より月島方面へ向かう埋没谷である昭和通り谷を隔てた南側が日本橋台地である。
日本橋周辺は「江戸前島」とよばれる砂州であり、日本橋台地の上に沖積層が堆積して陸地化したものである。江戸前島は、本郷方面から南に延びる半島状の微高地であるが、詳細な範囲はいまだ不明瞭なところが多い。古くは弘長元(1261)年の「関興寺文書」の内、平重長の書簡にみられる「武蔵国豊島郡江戸郷之内前島村」である可能性が指摘されている。
中央区がほぼ現在のかたちとなるのは、天正18(1590)年の徳川家康江戸入府以降の造成による。政権都市と成るべく普請事業が実施される中で、『武江年表』では、慶長8(1603)年の項に町方普請についての記述がみられる。入堀を掘った後、その揚げ土を堀の端に積んでおき、諸国より集まって町割りを下された町人が、勝手次第にその土を引き取り、整地して町屋にしていったという。
2 遺跡の概要
(1) 日本橋一丁目遺跡の概要
一丁目遺跡は中央区日本橋一丁目4番・6番[住居表示]に所在する。本調査が行われたのは6番部分であり、江戸時代を通じて万町という町屋であった。万町は、家康入府に際して元四日市町、青物町などと共に、小田原の曾我小左衛門達を移住させて起立された。問屋が多く、定飛脚問屋、乾物問屋、茶問屋、紙煙草入問屋、鍋釜問屋、干菓子問屋、薬屋、筆墨硯師、醤油酢問屋などがあった。このことから、遺跡地についても、小売の商店が並んでいたというよりは、問屋の集中する商業地であったことが窺われる。
一丁目遺跡は、平成12年12月から翌年7月にかけて発掘調査が実施された
。
調査対象面積は約1,000m2である。本遺跡は近世初頭に盛土され、以後嵩上げが繰り返された。遺跡は現地表面下1m前後掘り下げたところから確認され始めた。確認された生活面は、近世において14面、近代では1面で、標高0.5mから4.0m前後まで堆積していた。検出された遺構は約500基で、町割に関するとみられる石組護岸による下水や、汚水を沈殿させるための芥溜めとみられるものが下水木樋に繋がるように検出された。また、穴蔵は32基、土蔵址は19基と非常に濃密な分布をみせ、江戸の商業地の中心を象徴する。石組護岸による下水は3条確認され、遺跡地が万町の中でも4、5、6番地に該当することがわかった。
調査地は江戸時代を通じて町地であり、その初期から近代にかけての変遷が調査された、稀な遺跡である。
(2) 日本橋二丁目遺跡の概要
二丁目遺跡は中央区日本橋二丁目7番[住居表示]に所在する。遺跡地は慶長17(1612)年ころ以降に形成された入堀の一角にあたることがわかった。入堀は絵図でその存在が確認できる寛永九(1632)年から、久志本式部家が町地として拝領する寛永15(1638)年の間に埋め立てられたものと思われる。拝領直後の式部家の屋敷地は、日本橋通二丁目の一角として認識されていたと思われる。しかし、明暦3(1657)年の大火を契機に、自分の敷地内を日本橋大通りに貫通させる道を設けた。これ以後、遺跡地は通二丁目新道として周知されて行ったものと思われる。
久志本式部家は知行3百石で、元々伊勢神宮の外宮の御師であったのが、医師に転じたものである。遺跡地を拝領した時の当主は式部家2代の常良であり、御番医師であった。久志本式部家は明治新政府に代わるまで遺跡地を所有し続けたが、時代が下るとともに敷地内は細分されて行き、貸地の進行とともに町人の住む町屋になって行ったものと思われる。
発掘調査は約800m2を対象として、平成11年11月から翌年2月にかけて行った。
遺跡は現地表面下1m前後掘り下げたところから確認され始めた。確認された生活面は10面で、標高0.5mから3.0m前後まで堆積しており、更に下位に入堀が検出された。確認された遺構は約300基で、一丁目遺跡とは異なり、土蔵址や穴蔵は少数の検出にとどまった。しかしながら、各生活面で検出された下水木樋が町割の内における屋敷割を反映していることが確認された。また、芥溜は下水木樋に繋がった状態で検出された。
3 検出遺構の分類と下水関連施設の位置付け
一丁目及び二丁目遺跡で検出された遺構を性格毎に分類して整理した。これらは、将来的に遺跡から町屋が復元される際、その作業に向けて整理したものである。また、下水について検討する際、下水そのもののみを集成するよりも、周囲で検出された遺構と比較しながら遺跡に位置付けることにより、その機能が明瞭になっていくものと考えている。
下水に関連する遺構については、「排水関連」とした。ただ、排水関連とした遺構のみならず、下水に関連するとみられる遺構はかなり認められた。これは、建物、便所などを除いて、直接的な住空間を成さないものであるものの、人間の世界における、最小単位としての社会集団の境界を前提とした認知実践の痕跡であると考えられ、敷地内における土地利用の在り方を反映していると思われるからである。
下水は、主に1生活排水 2雨水処理 3敷地区分といった用途のために機能していたと考えられる。ここでは、3敷地区分に視点を置いてみていきたい。敷地区分について下水木樋及び下水枝樋を扱った論考については、町屋の空問復原の視点から先行研究例がある。下水木樋は、玉井哲雄氏が『都心部の遺跡』において都立一橋高校内遺跡における町割の照合に用い、復原的な検討を加えた結果、一定の成果をみたものである。下水枝樋については、後藤宏樹氏が『岩本町二丁目遺跡』で規則的な配置状況に着目し、各戸の台所に敷設された下水であるとの見解を示したものである。
4 検出された町屋の下水
ここでは、排水関連の遺構について紹介し、前述したように下水が有する敷地区分としての機能について検討する。
(1) 日本橋一丁目遺跡の下水と敷地境
まず、一丁目遺跡における石組護岸についてみていきたい。石組護岸は、第12面の明暦大火直前に出現する。本遺跡の調査に際して、遺跡地である万町の沽券絵図控が発見された。この沽券絵図や明治6(1873)年の沽券図と、現況の土地や遺跡の状況から、遺跡地が万町の中でも4・5・6番に該当することがわかった。ただ、沽券図では線が引かれているだけで、遺跡内において実際の敷地境がどこなのかが不明であった。石組護岸・下水溝あたりであることは間違いないが、溝の中心なのか、東西の石組護岸のどちら側のどの部分なのかが特定されない。一般にどぶさらいの義務があるとされるため、この下水を挟み東西どちらかの地主がこの費用を負担しなければならない。従って、訴訟の原因となるため敷地境が溝の中心とは考え難い。ここで、発掘調査により得られた事実を整理すると、
1、東側の石組は土蔵基礎に壊されることがあること、
2、東側の石組は東西への動きがみられる
3、西側の石組は12面から近代までほぼ動かない
ことがわかり、これにより敷地境は下水溝西側の石組護岸のツラのラインであることがわかった。
(2) 日本橋二丁目遺影の下水と平面構成の変遷
次に、二丁目遺跡における平面構成の移り変わりを、排水関連の遺構を交えながらみていきたい。二丁目遺跡で明瞭に下水が出現するのはV期の第8面である。このため、V期以降の変遷に限ることとする。
V期:前期における明暦の大火を契機として、新道が南側調査区外に東西方向に通される。屋敷割にも変化が現れ、第9面3期に屋敷割の境界とみられる路地跡が通される。第9面3期、第8面、第7面を本期とし、明暦3(1657)年ころから18世紀中葉ころ以前になろう。
第9面3期でみられた路地跡による屋敷割の境界は、第8・7面では調査区外に移動したと思われる。この位置の境界は、W期においてこの位置に下水が通され、再びみられるようになる。また、建物址は比較的明瞭なかたちでみられ、下水も通される。下水は町割の形状に沿うように、東西・南北方向に走る。西側の板敷を伴う下水木樋は西側部分だけではあるが、後にみられるように調査区内を既に南北に屋敷割するように認められる。X期やY期と比べて、まだゆとりのある平面構成にみえる。
W期l W期は第6面があたり、1750年代を中心とした18世紀中葉になろう。
南側に東西を横切る下水木樋が認められ、V期において南側の調査区外へ移っていたと思われる屋敷割が再びみられる。V期からW期にかけての大きな変容は、調査区のほぼ中央を東西に横切る下水木樋がみられるようになることや、導水管を伴う上水関連の遺構がみられなくなることであろう。この下水木樋により大きく南北が隔てられる。また、前期の第8面のような建物址はほとんど確認されず、長屋のような建物による屋敷割の細分化は、この時期から始まった可能性がある。本期より木製の下水枝樋が確認され、前期で述べたように、本遺跡地は新道に対してやや裏手にあたる。南側から屋敷割の細分化が始まったのであれば、木製の下水枝樋が南側のみにみられることになるのかもしれない。
東側では、前期から引き続いて石組護岸による下水がみられる。本期ではこの下水の西側には大規模な溜井戸があり、東側に土蔵址も認められる。後のX期では、焼土整理坑がこの付近で並び方や形状が異なり、枝樋の規模や板敷も異なることから、この辺りで土地利用の状況が東西異なっており、格の高い居住者がいた可能性がある。
X期:第5面、第4面1・2期をX期とする。本期は、1750〜60年代ころから18世紀後葉の内になろう。第4面1期の焼土整理坑は、明和9(1772)年におきた目黒行人坂の大火の後片付けと思われ、遺跡地の土地利用にとって大きな変化のきっかけとなることが想定される。しかしながら、焼土整理坑とこの直後の下水枝樋の位置関係が比較的よく一致することや、既に第5面において南北方向に路地跡がみられ、前期の屋敷割から大きく変容していたことが窺われるため、本期に一括した。
W期からX期への大きな変容は、縦横に検出された下水木樋や、これに注ぐ多くの下水枝樋がみられるようになることであろう。W期で東西に細長い屋敷割であったのが、本期ではその中を南北方向に路地跡ないしは下水木樋が走って分断している。また、タタキ状や礎石、横木などが同時に検出される建物址がまったくみられなくなる。こういったことから、前期より更に屋敷割が細分化されたことが窺われ、南西側を除いた屋敷割の中では長屋のような建物による集住がかなり進行したものと思われる。
Y期:第3〜1面を本期とする。18世紀末葉から明治10(1877)年ころまでとなろう。
前期で捉えられた屋敷割が、本期において短期問の内に更に細分されたり元に戻ったりと、かなり活発な土地の利用状況が窺われる。ただし、撹乱が激しく明瞭な様相差が捉えられないため、本期に括った。第1面2期は明らかに近代の廃絶であるが、第6章第3節、本章第3節からも窺われるように、推定廃絶年代である明治10(1877)年ころまでに大きな変化は確認されなかった。すなわち、本遺跡地の町屋においては江戸時代から近代まで、ある程度連続性のある土地利用がなされていた可能性が窺われよう。
また、X期の4面2期で、南西側の漆喰地業址に集中して胞衣埋納遺構が検出されたが、本期では再び下水木樋の回りに分散してみられる。これは、時期差によるものというよりも、むしろ第4面2期における南西側の屋敷割には長屋のような建物が存立しておらず、他の屋敷割に比べて格が高かったことによるものと思われる。
このことは、埋甕による便槽が1基を除いてこの屋敷割内でのみ確認されることや、遺構の密度が低いこと、下水枝樋が1基しかみられないことなどからも窺われる。
おわりに
以上、日本橋における町屋の遺跡を概観し、一丁目遺跡では文献資料からは窺うことのできない敷地境を発掘された排水関連の遺構をもとに特定した。二丁目遺跡においては、下水木樋を中心とした遺構による屋敷割は、年代が下ると共に細分化されて行った様子がみられた。細分化に伴い、明瞭な地業が成された建物祉は姿を消し、下水枝樋が増加することによって長屋のような建物に変容して行くことが窺われた。
日本橋周辺の江戸遺跡は、政権都市江戸における町屋の中心部に所在する。これら日本橋の町屋の遺跡が、今後江戸遺跡において町屋を調査する際、一つの指標と成り得るものと思われる